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 映画『ガタカ』について              池田博明  


外 国 映 画 (洋画)
見た日と場所    作  品       感   想 (池田博明、J. D. Watson & 池田千洋)
2001年5月
ビデオ

またはDVD
ガタカ
1997年
USA
          十年に一度の傑作   池田博明
 傑作である。 
 「そう遠くない未来」と最初にクレジットされる。生まれた瞬間に細胞診断がされ、遺伝子の分析で、寿命や能力が分かってしまう時代。子供はデザイン・チャイルドがむしろ「正常」とされ、操作されずに誕生した男子ヴィンセントの運命は30歳で心臓疾患で死亡というきびしいものだった。しかし、男の子は宇宙旅行の夢を持つ。もっとも選ばれた者が宇宙飛行士になれるのだ。男の子にはデザイン・チャイルドの弟があった。いつも弟に負ける毎日だったが、遠泳競争で勝った日をきっかけに、兄(イーサン・ホーク)は「不適正」者として自信を持って生活し始め、やがて事故で車椅子生活を余儀なくされた遺伝的に優秀な青年ジェローム(ジュード・ロウ)の協力を得て、身分を詐称し、宇宙飛行訓練施設「ガタカ」へ潜入する。
 彼は抜け毛やムダ毛を完全に処理し、尿や血液もジェロームのものを利用して、検査を通過する毎日で、とうとう土星の衛星タイタンへの飛行士として選出される。ところが、その矢先に所内で殺人事件が発生、徹底的な捜査により、彼のマツ毛が採取され、不信な潜入者ヴィンセントは殺人の容疑者として指名手配されてしまう。
 刻々と迫るロケットの発射日、徹底的な捜査は徐々に彼を追い詰めていく。不審な様子に気づいた女子職員アイリーン(ユマ・サーマン)との恋愛もからんで、映画は静かにサスペンスを盛り上げていく。
 捜査官(ローレン・ディーン)、刑事ヒューゴ(アラン・アーキン)、ガタカ所長ヨセフ(ゴア・ヴィダル)、職員シーザー(アーネスト・ボーグナイン)。音楽は『ピアノ・レッスン』のマイケル・ナイマン、脚本・監督はアンドリュー・ニコル。
 この作品には、悪人は一人も登場しない。すべて役者にとっては演じがいのある役柄ばかりである。遺伝子決定論的な、いわば無機的な世界のなかで、人間の心がつくり出すドラマを演じる人々。劣等感を克服しようと宇宙への夢にかける兄、兄の立場を戸惑いながらも理解しようとするが、あと一歩のところでそれが出来ない弟、心臓疾患で地球勤務を余儀なくされている女性、世界一を目指しながら銀メダルに終わり挫折した青年、七十年に一度の土星ロケット発射に夢をつなぐ所長、犯罪捜査ひとすじの刑事、最後に主人公の正体を見破りながらも見逃す血液検査を担当する医師などなど。

 ジェームズ・D・ワトソンの『DNA』(講談社)では、終盤の1ページ半以上を使って、映画『ガタカ』を紹介していた。以下はその抜粋である。
  (現代の生物学的に)重要な問題を、上品に、かつ説得力をもって提起している作品として私の心に残ったのは、アンドリュー・ニコルが1997年に監督した映画『ガタカ』である。この映画は遺伝的に完璧であることに捕らわれた社会がどういったものになるかを、今日の想像力をぎりぎりまで押し広げて描き出している。
 『ガタカ』に描かれる未来社会には、二種類の人間が存在する。ひとつは遺伝的な能力を高められた支配層であり、もうひとつは私たちと同じく不完全な遺伝子をもつ下層民だ。超高感度のDNA分析により、遺伝子エリートたちは良い仕事に就き、「不適格者」はあらゆる面で差別されるしくみになっている。
  この映画の主人公である「不適格者」のヴィンセント(イーサン・ホーク)は、ある夫婦が車の後部座席で、情熱に身を任せた結果できた子供だった。その後生まれた弟アントンは、その時代の正しいやり方に従い、遺伝的に優良な性質だけをもつように操作されていた。ヴィンセントは子どものころ、弟に水泳競争を挑むたびに、自分が劣っていることを思い知らされるのだった。そして成長してからは、遺伝子差別のために、ガタカ・コーポレーションの掃除夫にしかなれなかった。
 ガタカに就職したヴィンセントは、宇宙に行くという途方もない夢を抱く。だが、土星の衛星であるタイタンへの有人飛行に宇宙飛行士として参加するためには、「不適格者」であることを隠さなければならない。
 そこで彼は、ジェローム(ジュード・ロウ)という遺伝子エリートになりすますことにした。ジェロームは優れたスポーツ選手だったが、事故のために下半身が不自由になり、ヴィンセントの助けを必要としていたのだ。ヴィンセントはジェロームの髪や尿を買い取り、それを不正に使うことで、飛行訓練プログラムに参加できるようになった。
 その後は、彫像のように美しいアイリーン(ユマ・サーマン)にも出会い、すべては順調に進んでいるように見えた。
 ところが、いよいよ宇宙に飛び立つ一週間前になって、思いがけない事件が起きたのだ。飛行計画の責任者が殺害され、警察の調査により、犯行現場に「不適格者」のまつげが発見されたのである。
 一本のまつげを落としたせいで、ヴィンセントは殺人容疑をかけられ、必死に追い求めてきた夢を奪われそうになった。事態は絶望的に思われた。しかし彼が恐るべき調査網をくぐり抜けている間に、別のガタカの幹部が真犯人だったことが判明する。
 映画の結末はほろにがいものだった。ヴィンセントは首尾よく宇宙に飛び立ったが、アイリーンは一緒に行けない。彼女には遺伝的な欠陥があるために、長い宇宙飛行に耐えられないのだ。
 しかし実生活では、ヴィンセントとアイリーンを演じた二人の俳優は、もっと自分の人生をコントロールしているようだ。イーサン・ホークとユマ・サーマンは後に結婚し、現在ニューヨークで暮している。
 ほとんどの人は、私たちの子孫が、『ガタカ』の描くような遺伝子支配の未来社会に生きていくことなど考えたくもないだろう。そんな未来が技術的に実現可能かどうかを別にしても、この映画が提起した中心的な問題、すなわち「DNAの知識により、遺伝子階級制ができるのは避けられないことなのか?」という問題には向き合わなければならない。
 先天的に「持つ者」と「持たざる者」のいる社会になってしまうのだろうか? 
 もっとも悲観的な解説者たちは、さらに悪いシナリオを描いてみせる。私たちはいつの日か、DNAにより奴隷になることを決定されているヒト・クローン種を作り出すのではないか、弱いところを補強するのではなく、強者をいっそう強くしようとするのではないか、と。
 いっそう根本的なのは、そもそもヒトの遺伝子を操作すべきなのかという問題だ。これらの問いへの答えは、私たちが人間の本質をどう捉えているかにかかっている。
 世界中の政府は、人間の生殖細胞に新たなDNAを付け加えることは禁止している。この規制を支持する人々は実にさまざまだ。宗教団体は、遺伝子に手を加えることは神を演じることだと信じ、まるで条件反射のように強硬に反対を唱えている。
 一方、非宗教的な批評家たちが反対するのは、『ガタカ』に描かれた悪夢のような社会になるのを恐れているからだ−人間がもともともっている不平等がグロテスクなまでに増幅され、平等主義社会の名残は跡形もなく消えてしまった社会になるのではないかと。
 しかし、そういう前提は良い映画のシナリオにはなるかもしれないが、「遺伝学はユートピアへの道だ」という考えに負けず劣らず非現実的なものに私には思えるのである。
 (中略) ・・・今日では、長きにわたり多大な苦しみをもたらしてきた変異遺伝子の多くが突き止められ、私たちは自然選択を回避する力を手にいれつつある。・・・(中略)
 『ガタカ』の製作者たちは、映画そのもののなかで誤解を誘う暗い未来を描いたのみならず、遺伝学の知識に対する根深い偏見をねらい打ちするような宣伝文句をつけた−いわく、「人間の精神を決める遺伝子など存在しない」。多くの人たちが、「そうだったらいのに」と思わされてしまうこと自体、今もこの社会に潜む危険な弱点なのだ。
 むしろ私たちは、未来への希望を決して捨ててはならない。そして後に続く人たちのためにも、DNAの明かす真実を恐れることなく受け入れていこうではないか。 
 池田千洋は、雑誌『やすらぎ』2004年1月号に寄稿している。


       映画から考える      池田千洋 『ガタカ』 GATTACA

 「ガタカ」―この不思議な名前は物語の舞台となる近未来の宇宙局の名前であると共に、遺伝子を形成するDNAに含まれる科学物質の頭文字でもあります。Gはグアニン、Aはアデニン、Tはチミン、Cはシトシン(シストシン)といった具合です。DNAに含まれるこれらの物質の配列の変化や欠落により、その人のもって生まれた性質が決まると言われています。
 この事が示唆するように、この映画で描かれているのは完璧な子供というものを胎児の遺伝操作により産むのが一般的で、「優秀な遺伝子」がものを言う世界です。この社会では遺伝操作により生まれた子供を"適正者"、そうでない子供を"不適正者"として違法ながらも純然として職業選択の際や生活全般にわたる差別が行われています。
 映画の主人公ヴィンセントは自然に生まれた子供で、出生時に血液検査により「心臓疾患の可能性(probability)が高く寿命はおよそ30歳」と告げられたのでした。両親は次の子供を遺伝操作によりもうけ、肉体的にも完璧で病の可能性が低い弟が生まれます。
 ずっと宇宙飛行士になる事を夢見ていたヴィンセントですが、大きくなるにつれて弟との肉体的な差がはっきりしてくるのに加え、"不適正者"のDNAでは「ガタカ」入局は不可能でした。そんなある日、それまで弟に一度も勝てなかった海での遠泳競争にヴィンセントは勝ちます。それによって自分にも能力がある、肉体的に劣っているとはいえ何も出来ないわけじゃない、と気付いたヴィンセントは身分を偽って宇宙局に入局します。
 その身分を売ったのは水泳界の期待の星であった銀メダリスト、ジェロームでした。彼は事故により車椅子生活を余儀なくされ、夢も希望も失っていました。毎日のように局で行われる血液検査や尿検査のため、彼らは共同生活を行っていくことになりました。ヴィンセントがもう少しで念願の宇宙飛行が出来る、という時に局内で殺人事件が起こり、彼が犯人だと疑われてしまいます……。

 映画で描かれる世界では、"適正者"でなければ快適な生活を送れないように思われていますし、皆がそう振舞っています。"適正者"は肉体的には欠陥が無く、病の可能性が大変少なくデザインされて生まれてきます。しかし、「可能性」だけで本当に人をはかることが出来るのでしょうか?
 映画の中でも言われている事ですが、体は完璧でも性格的には欠陥が出るかもしれません。それに、人間の能力というものはどこでどう発揮されるかわかりません。
 何かを成し遂げられるかどうかというのは、もちろん持って生まれた能力もありますが、それ以上にその人の努力と周囲の状況によるものが大きいでしょう。何が出来るか、何が起こるかなど、「絶対にわかる」ということはないのではないでしょうか。
 ヴィンセントは"不適応者"でも、"適応者"である弟より遠くへ泳ぐ事が出来ました。ある"適応者"の女性は心臓に疾患があるにもかかわらず、ガタカで働く事が出来ています。また、本来なら不適応であるはずの6本指(両手で12本)のピアニストもここでは活躍しています。
 これを見ていると人間にとって大切なのは、持って生まれる事になった優れた部分だけを見るのではなく、自分の欠点を見据えて努力をする事ではないかと考えさせられます。
 ジェロームは肉体的に完璧であっただけに、「自分は能力があるのにどうして二位なんだ」と銀メダルしか取れなかったことに悩み、自暴自棄になっていました。
 能力を一定以上に保ち、それらの人々で社会を運営していこうという理想もわからなくもないですが、能力あるものですらその能力ゆえに希望を失うような社会は、人の生きる社会ではないように思います。
 シェイクスピアの『ハムレット』に「人は一つの欠点で身を滅ぼすことになる」という台詞がありますが、逆にその一つの欠点により人は意識的に身を立てていく事も出来るのではないでしょうか。

 持って生まれたその人の特徴や、「運命」は変えられるものではないのかもしれません。もちろん、いくら努力しても自分だけではどうにもならない事、どうしようもない事はたくさんあります。ですがそれも含め、欠点を探すよりも何が自分に出来るのか、何をしたいのか、どう生きて行きたいのかを考えるのに熱心になる事により、与えられた世界の中で「よりよく生きる」という選択は充分に出来るものではないかと思います。
 欠点であれなんであれ、与えられたものをフルに使って自分の夢を追うヴィンセントの姿は、夢の無かったジェロームだけでなく、私にも夢を与えてくれました。
 人の「運命」やいつ死ぬか、どういう可能性があってどういう事ができないのかという事などといったことは、完全に知る事は出来ませんし、知りたいとも思いません。ですが、いつか死ぬのは誰でも一緒です。それまでどう生きるか、という事が人間にとって一番重要なことなのでしょう。
 その「どう生きるか」を考えるときに、運命を受け入れながら自分の夢に向かって真っ直ぐに進むヴィンセントと、彼と(文字通り)一緒に生きているジェロームの姿を見ていると、私にも真剣に努力すれば何でも出来るとも思えます。
 それと同時に、「やる気になれば出来るけど」と言いながら何もしていない自分が恥ずかしくもあり、叱咤激励されている気になります。

 映画は始めから終わりまでとてもきれいな映像で話が進み、未来と過去が混じったような、不思議な世界を描き出しています。何人も登場人物がいますが、その中に悪人は一人も出てきません。ありえそうで、ありえない世界で起こる、人間とはどう生きるべきかを考えさせられる映画―というと難しい映画だと思うかもしれませんけれども、話はまったく難しくないので気楽に見る事が出来ます。その分、シンプルな言葉やシーンが心に残る良い映画でした。

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