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 2001年 映画 日記   2001年3月28日から12月29日まで         池田 博明   


外 国 映 画 (洋画)
見た日と場所    作  品       感   想 (池田博明)
2001年12月18日BS2 沈黙の女.ロウフィールド館の惨劇
フランス映画
 ルース・レンデル原作のサスペンス小説の映画化.クロード・シャブロル監督.
 識字障害のメイド・ソフィー以上に彼女の友人となる郵便局の女ジャンヌ(イザベル・ユペール)が金持ちに対して抱く憎悪が激しく感じられる映画となっています。雇い主の女主人にジャクリーヌ・ビセット。
2001年9月29日
ビデオ
インビジブル
2000年、コロンビア映画
 ポール・バーホーベン監督の「透明人間」もの。才人バーホーベン監督の腕前は『トータル・リコール』や『ショーガール』でも示されたように手慣れています。
 悪意を持つ透明人間は『ターミネーター』や『エイリアン』のような執拗さで主人公たちを追い詰めます。映画の設定は、研究棟内部での限られた人間たちと怪物との闘いで、『エイリアン』そっくりでした。自分自身を実験動物にして透明化に成功したものの、元に戻すのに失敗して、精神に異常をきたしていくマッド・サイエンティスト役にケビン・ベーコン。彼の協力者で、もとの恋人リンダ役にエリザベス・シュー。原題のHOLLOW MANは「うつろな男」の意味。
2001年9月11日
ビデオ
ワンダとダイヤと優しい奴ら

1988年、MGM/UA
(日本公開1989年)
 この映画は1989年に立川談志が絶賛していたので、気になっていた作品です。日本ではこのような英国喜劇はまったく評価されないものです。
 銀行強盗でダイヤを盗んだ四人組の虚々実々の駆け引き。リーダー格のジョージをトム・ジョージスン、イタリア語だと性的に興奮する美人(ロシア語にはもっと興奮する)ワンダをジェイミー・リー・カーチス、「バカ(stupid)」と言われることが許せない米国人オットーをケヴィン・クライン(『真夏の夜の夢』ではボトム役。本作でアカデミー助演男優賞を受賞)、言語障害のペット愛好家ケンをマイケル・ペリン、女房にウンザリ気味の腕利き弁護士アーチーをジョン・クリーズ(原作・脚本も)が演じています。監督はベテランのチャールズ・クリクトン(原作も)。クリーズとペリンはモンティ・パイソンの主要メンバーでした。
 原題は「ワンダという魚 A Fish Called Wanda」。ドモリのケンが飼育している熱帯魚の一番手の魚の名前がワンダ。終幕、宝石の隠し場所を聞き出すために、オットーがケンの大切にしている熱帯魚を一匹ずつ食べてしまいます。ワンダも一番最後に食べられてしまいます。ケンは復讐を誓います。彼の復讐の好機は空港で訪れます。
 最近、日本でもモンティ・パイソンの笑いが人気を集めているようですが、いったい誰が見ているのか、不思議な気がします。
2001年8月
DVD
ロッキー・ホラー・ショウ

1975年、USA
 イギリスの舞台から生まれたロック・ミュージカル。公開当初は不評だったのですが、深夜興行されるようになって観客体験型の映画としてカルト化した映画だそうです。
 日本公開時には、GYAさん(村上知彦氏)がベスト・ワンと評価していたのが印象に残っています。怪奇映画の定番を盛り込んだギャグとロック音楽のミックス。ティム・カリーの主人公の両性的なファッションなど、流行に無関係な衣裳が流行を生み出したといいます。
 怪奇映画のパロディになっているだけではありません。1975年当時の性のタブーに対する抗議も歌われています。
2001年8月
DVD
甘い抱擁

1968年、USA
 アルドリッチ監督作品3作『甘い抱擁』『燃える戦場』『傷だらけの挽歌』がビクターからDVDで発売されました(8月22日)。素晴らしい!この調子で他の陽の当たらない名画『飛べ!フェニックス』『北国の帝王』『クワイヤ・ボーイズ』『フリスコ・キッド』『カリフォルニア・ドールス』なども発売していって欲しいものです。
 『甘い抱擁 The Killing of Sister George』は日本未公開です。ベリル・リード扮する中年の女優“ジョージ”はBBCの連続テレビ・ドラマ『看護婦ジョージ』シリーズの主役です。番組では訪問看護婦として多くの人生に関わり、彼女の含蓄ある言葉は国民の人気を集めています。しかし、ジョージ本人は自分本位で、酒飲みで下品な女優。若い女性アリス(スザンナ・ヨーク)と同居していますが、最近はその支配力も薄れつつあります。酔っ払って、乗りこんだタクシーの客(二人の修道尼)に「とんでもないこと」をしたらしく(映像では出て来ませんが、抱きついてキスをするような行為と思われます)、その筋からの抗議がきっかけでジョージは番組内では風邪で休養した後で、遂には事故死してしまうことで、降板されてしまいます。アリスもジョージの支配にうんざりしていて、ジョージの上司クロフト女史(コーラル・ブラウン)に気にいられたのをきっかけに、ジョージのもとを去ってしまいます。結局、ジョージは仕事も愛人もなくし、ひとりぼっちになってしまいます。
 主人公の言動や行動は共感できるようなものではありません。しかし、たとえ身から出た錆とはいえ、薄皮をはがれるように自分のものを無くしていくジョージが次第に哀れになってきます。
 女性どうしの同性愛は、部屋の様子やセリフや行動の端々に出て来ますが、ラスト直前まで,ベッドシーンが出て来ることはありません。しかし、ラスト近く、ドラマの核心部で、アリスの部屋でのクロフト女史とアリスのラブシーンが描かれます。公開準備までされていながら、日本公開が見送られたのは同性愛を明確に描いているというスキャンダラスな内容のためでしょう。
 原作はフランク・マーカスの舞台劇で、映画は女優のささいな表情の変化をとらえ、スザンナ・ヨークの裸体を大胆に映し出して、愛情を求める人間たちの人生の実相としての同性愛を描いています。
 ちなみに、『傷だらけの挽歌』は大傑作。『燃える戦場』はドラマ不足でした。
2001年8月
DVD
エクソシスト

1973年、USA
 ディレクターズ・カット版。ウィリアム・フリードキン監督は即物主義的に物語を進行させています。たとえば悪魔の内面の声や視点などが表現されることは、ありません。ただ起こったことを淡々と描写していきます。
 医師たちは最新の医学技術を用いて、娘(リンダ・ブレア)の異常行動をなんか解明しようという努力を続けますが、まったく効を奏しません。そしてとうとう、エクソシスト(悪魔祓い師)、マックス・フォン・シドーが登場します。この映画の恐怖感は悪魔の襲撃が不条理なところにあります。ホラー映画やスリラー映画のような恐怖を煽るような描写は抑制されています。
2001年8月7日
ビデオ(CO航空機)
JUST VISITING
2000年,USAとフランス
 ジャン・レノの中世の騎士が魔術師のミスで現代のアメリカにタイム・トリップしてくることで起こるドタバタを軽いノリで見せた、スマートな娯楽映画でした。中世の価値観を現代に持ちこむと、どれほど珍妙かが描かれています。ただ価値観が常識の範囲を抜けていないので、見た後で物足りない感じが残ります。
 コンチネンタル航空の8月に機内では他にシガニー・ウィーバー主演の結婚詐欺師もののコメディ『Heartbreaks』と、少女時代のジョディ・フォスターが主演したディズニー映画『Freeky Friday』も見ました。前者はジーン・ハックマンが出演しているのに驚きましたが、映像センスはB級以下。後者はディズニー映画で、母親と娘がお互いの生活を理解していなかった母親(バーバラ・ハリス)と娘(フォスター)が、体が入れ替わってしまったことで、お互いの大変さが分かってくるという設定。入れ替わってしまった後の二人の演技が見もので、とても面白くできています。ただし日本語吹替が(字幕も)無かった。  
2001年7月25日
ビデオ(CO航空機)
ザ・メキシカン
2000年,USA
 ブラッド・ピットとジュリア・ロバーツの顔合わせで、USAでは『ハンニバル』を抜いて当たったそうです。
 しかし、ブラッド・ピットの役柄があまりにもチンピラ過ぎて、どうしてこんなに冴えない男にジュリア・ロバーツが惚れたままでいるのかが理解できませんでした。アンティークな銃メキシカンにまつわる伝説も、ストーリーがご都合主義的に展開するため、神話的な高みを持っているわけではありません。古くさい銃のために、やくざとはいえ、たくさんの人が死んでしまうのはどうにも理解できません。
 ロバーツを誘拐兼警護するジェームス・ガンドルフィーニの同性愛者であることを秘密にしている殺し屋が強い印象を残します。
 コンチネンタル航空の7月の機内では、他にSF活劇映画『インデペンデンス・デイ Independence Day』を見ました。
2001年7月11日
DVD
フェイス・オフ
1997年,USA
 「フェイス・オフ」とは「顔をはぐ」ということです。顔面をはぎとり、他の人に移植する技術が確立していて、その技術を使って、FBIの腕利き捜査官が悪人になりすまし、刑務所に収監中の悪人の弟から時限爆弾の所在を聞き出そうとすることになります。ところが、撃たれて昏睡状態だったはずの悪人が蘇生して、FBI捜査官の顔を移植して復讐をたくらんだため、計画が狂ってしまうという設定です。
 脚本が良く出来ていること、主役二人を演ずるジョン・トラヴォルタとニコラス・ケージの演技合戦で傑作になっています。途中から、悪人の顔をしていながら善人の心を持ってしまっているニコラス・ケージと、善人の顔を持つにもかかわらず、悪人の心をもつジョン・トラヴォルタの表情が興味深々です。
 ジョン・ウー監督のアクション・シーンはこれでもか、これでもかと畳みかけるような切れ目の無いもので、特に正面に飛んでくる弾丸のスローモーション特殊撮影には驚かされました。読者採点による『ぴあムービーランキング アクション伝説』(2001年3月)では、堂々の第3位にノミネートされています。
2001年5月
ビデオ
ガタカ
1997年、USA
 傑作。
 「そう遠くない未来」と最初にクレジットされる。生まれた瞬間に細胞診断がされ、遺伝子の分析で、寿命や能力が分かってしまう時代。子供はデザイン・チャイルドがむしろ「正常」とされ、操作されずに誕生した男子ヴィンセントの運命は30歳で心臓疾患で死亡というきびしいものだった。しかし、男の子は宇宙旅行の夢を持つ。もっとも選ばれた者が宇宙飛行士になれるのだ。男の子にはデザイン・チャイルドの弟があった。いつも弟に負ける毎日だったが、遠泳競争で勝った日をきっかけに、兄(イーサン・ホーク)は「不適正」者として自信を持って生活し始め、やがて事故で車椅子生活を余儀なくされた遺伝的に優秀な青年ジェローム(ジュード・ロウ)の協力を得て、身分を詐称し、宇宙飛行訓練施設「ガタカ」へ潜入する。
 彼は抜け毛やムダ毛を完全に処理し、尿や血液もジェロームのものを利用して、検査を通過する毎日で、とうとう土星の衛星タイタンへの飛行士として選出される。ところが、その矢先に所内で殺人事件が発生、徹底的な捜査により、彼のマツ毛が採取され、不信な潜入者ヴィンセントは殺人の容疑者として指名手配されてしまう。
 刻々と迫るロケットの発射日、徹底的な捜査は徐々に彼を追い詰めていく。不審な様子に気づいた女子職員アイリーン(ユマ・サーマン)との恋愛もからんで、映画は静かにサスペンスを盛り上げていく。
 捜査官(ローレン・ディーン)、刑事ヒューゴ(アラン・アーキン)、ガタカ所長ヨセフ(ゴア・ヴィダル)、職員シーザー(アーネスト・ボーグナイン)。音楽は『ピアノ・レッスン』のマイケル・ナイマン、脚本・監督はアンドリュー・ニコル。
 この作品には、悪人は一人も登場しない。すべて役者にとっては演じがいのある役柄ばかりである。遺伝子決定論的な、いわば無機的な世界のなかで、人間の心がつくり出すドラマを演じる人々。劣等感を克服しようと宇宙への夢にかける兄、兄の立場を戸惑いながらも理解しようとするが、あと一歩のところでそれが出来ない弟、心臓疾患で地球勤務を余儀なくされている女性、世界一を目指しながら銀メダルに終わり挫折した青年、七十年に一度の土星ロケット発射に夢をつなぐ所長、犯罪捜査ひとすじの刑事、最後に主人公の正体を見破りながらも見逃す血液検査を担当する医師などなど。
2001年3月
ビデオ
ブルース・ブラザーズ2000

1998年(日本1999年)、USA
 もう20年以上も前のことです。ジョン・ランディス監督の『アニマル・ハウス』(1978)を閉館記念上映の小田原日活館で見ました。ジョン・ベルーシの凄まじい演技と、ランディスの目撃者的な距離のとり方に、驚きました。ランディスの距離は、傍観者的なロング・ショットでもありませんし、熱狂的なクローズ・アップでもありません。いわば、ほどよい距離です。ある意味では、微温的な距離です。編集やカットのうまさで見せるわけでもなく、凝った照明や美しい撮影もなく、特殊撮影で見せるわけでもありません。しかし、これがランディス流です。
 そして、結局、この距離感がいちばん芸を生かし、芸人を安心させるもののようです。ランディスの超傑作は怪人ベルーシと組んだ『アニマル・ハウス』(1978)と『ブルース・ブラザーズ』(1980)でしょう。
 ところで、映画『ブルース・ブラザーズ2000』は、ダン・エイクロイドとランディスの脚本で、『ブルース・ブラザーズ』の後日譚になっています。出所したエイクロイドが18年前の昔のバンド仲間のところを回って、人を集めていきます。みんなすっかり年齢を重ねて、それぞれに生活を持っていますから、もう一度バンドで演奏させるのは大変です。しかし、リズム・アンド・ブルースやソウルを無くしたら、自分たちの未来も、音楽の将来もないと、ひとりひとりを説得していくエイクロイドに、みんな感化されていきます。私たち観客も同様です。
 これは一種の現代版ミュージカル映画だと思いました。ストリップ・ショーの舞台や恋人紹介所のPRのようなアンモラルな歌も、たくさんあります。猥雑な現代をリズム・アンド・ブルースで歌うパワーに脱帽しました。 
2001年3月
ビデオ
リトル・ヴォイス

1998年(日本1999年)、英国
 イギリスの小さな港町。母親(ブレンダ・フレシン)から「LV(エル・ヴイ)」とよばれている主人公の無口な少女(ジェイン・ホロックス)は、いまや廃業したレコード店の二階で、父親の残したレコードを聞いて暮らしています。少女は、外出もしませんし、家事もできない引きこもりです。反対に、母親はお喋りで外向的な恋多き女。
 一方、伝書鳩の飼育を趣味にしている電話工事店の工員ビル(ユアン・マクレガー)は、自分と同様の無口な少女に興味を持ちます。LVとは、リトル・ヴォイス(小声)という意味で、母親が少女につけたあだ名です。少女が聞いているのは、父親の集めたレコードで、特に気にいっているのは、シャーリー・バッシー、ジュディ・ガーランド、マリリン・モンローのLP。
 町のスカウト・マンのレイ・セイ(マイケル・ケイン)は、少女の母親と逢引き中、電気がショートして、家の電灯が消えた途端に、二階から聞こえてきた歌声に感動します。少女がLPで覚えた歌を歌っていたのでした。レイは店の相棒のブーと早速、少女デビューの舞台をしつらえます。しかし、少女の歌は途中で途切れるわ、トリヴィアルなシーンの物まねで終わってしまうわ、さんざんな出来でした。
 しかし、セイはあきらめません。父親の思い出に向かって歌いかけている少女に対して、天国の父親を喜ばせるためにもう一回だけ歌うという約束で、舞台への出演を承諾させます。
 こうして設定された舞台は大成功になります。ビッグ・バンドをバックに、少女は次々に名曲を自分なりに歌いあげます。勢いに乗ったセイは翌日の舞台をセットしますが、一度だけという約束だった少女には、もう歌うつもりがありません。客席には大物プロデューサーも来ましたが、結局リトル・ヴォイスのショウはお流れになり、自暴自棄になったセイの歌が圧巻だったりします。一方、少女の家は再びショートがもとで火災になってしまいます。部屋から少女を救ったのは、舞台に出ない少女を心配して駆けつけたビルでした。少女は少し自分を取り戻し、火災で割れたレコードを手にしながら、悪態をつく母親に対して、反抗の言葉をはき、批判するまでに成長するのでした。彼女は母親に向かって「わたしの名はローラよ!」と叫びます。
 ビルが飼育した伝書鳩を大空に羽ばたかせる少女のストップ・モーション。
 舞台で名曲を次々にカバーする少女の歌と、口うるさい母親が圧巻でした。『ブラス!』(199+)のマーク・ハーマン監督・脚本のイギリス映画。
2003年3月 ビデオ ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ

1999年(2000年)、英国
 音楽映画が面白い。モーツアルトとサリエリの確執が軸となる『アマデウス』(1984)は勿論のこと、閉山する炭坑町のブラス・バンドの最後の演奏を描く『ブラス!』(199+)、父親の束縛で苦しむピアニスト・ヘルフゴットの実話『シャイン』(1996)、自分以上の歌手を育てようとする『仮面の中のアリア』(199+)、半伝記映画の『カストラート』(1994)などなど。
 『アマデウス』が奇矯なモーツアルトを描いて、彼の天才ぶりをあますところなく伝えていたのと同様に、『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』はデュ・プレの凄絶な人生と、その天才ぶりを見事に伝えていました。原作は姉が書いた伝記で、映画の原題は『Hirary and Jackie』、つまり姉ヒラリーと妹ジャッキーの人生の違い、普通の生活を選び取った女性と、芸術家の生活を選び取った女性の人生を対比させて描いています。
 姉の結婚のシーンの後にすぐ、「結婚なんか」と反対していたジャッキーは結婚相手ダニー=ダニエル・バレンボイムを連れて来ます。まるで、姉に対する対抗意識で結婚したように思えてしまいます。しかし、後半の回想シーンで、ジャッキーとダニーの出会いのシーンが描かれますと、孤独な天才ジャッキーを、ダニーが見初めたことが了解されます。
 また、突然演奏会をすっぽかして姉夫婦の家に押しかけて住み着き、ついには神経を病んで姉の夫を治療に借り出す、わがまま娘に見えるジャッキーですが、これも回想シーンでは、その当時の顛末が描かれ、ジャッキーには多発性硬化症の発症が現われ始めていて、相談もできずに苦しんでいた時期だったことが了解されます。こんな風に、この映画はジャクリーヌ・デュ・プレを悪者に仕立てることはせずに、各々の行動に意味づけをしています。
 冒頭、海岸に走り出た子供時代の姉妹が、海辺にたっていた女のひとに気づいて、ジャッキーがどうしたのかと尋ねようと近づくシーンがあります。このときのシルエットの女性の答えを、ジャッキーはヒラリーに耳打ちするのですが、私たち観客にはその答えが知らされません。『市民ケーン』(1941)の「ローズ・バッド」のように謎として残ったまま、最後の回想シーンになります。回想シーンでは、海辺の女性は、大人になった「ジャクリーヌ・デュ・プレ」になっており、子供のジャッキーに「心配しないで」と答えているのでした。
 デュ・プレの演奏したエルガーのチェロ協奏曲が効果的に使用されています。 
2001年3月23日
ビデオ
スリーピー・ホロウ

1999年(日本2000年)、USA
 この作品を最近、ミステリー作家の都筑道夫が高く評価していたのが印象的です。
 アメリカ文学初期の巨匠アーヴィングの『スケッチブック』の一篇「スリーピー・ホロウの伝説」を脚色したものだといいますが、主人公の名前(イカボットやタッセル)と首なし騎士のアイデアを借りただけで、物語はオリジナルでした(原案ケヴィン・イエーガー&アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー)。魔術や拷問による自白偏重の捜査に批判的な捜査官イカボット(ジョニー・デップ)が、首なし死体事件を科学的に捜査する経過中に、亡霊の存在を認めてしまい、その亡霊を操る黒幕の人間を推理することになるという意表を衝く展開です。科学と宗教の相克がテーマというわけではありません。亡霊などの非現実の状況を認めることによって、物語世界を広げるというのは、実りの多い方法だと思います。実は以前にも、SFの分野では、タイムマシンだのワープだのと、疑似科学的な約束ごとがたくさんありました。
 主人公のイカボットはスーパーマン的な人物ではなく、亡霊を見て気絶してしまうような弱々しいインテリです。成り行きで、首なし騎士との対決にまきこまれてしまうのです。ミステリーなので、紹介でネタを割ってしまうわけにはいかないのが残念です。
 古い田舎の町並みや、森の雰囲気がよく出ていて、私にとっては『ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎』(バリー・レヴィンソン監督、1985)以降の、伝奇的な作品の傑作でした。
 監督はアニメ界出身の鬼才ティム・バートン。第72回アカデミー賞最優秀美術賞受賞(プロダクション・デザイナーはリック・ヘインズ、撮影監督はエマニュル・ツベツキー)。
2001年2月
海老名ワーナーマイカルシネマ
ダンサー・イン・ザ・ダーク

2000年、スエーデン
 主人公セルマ役のビョークの表情には最初から思いつめたものがあります。セルマの保護者役のクヴァルダ(カトリーヌ・ドヌーヴ)の表情に比べると、その差はいちだんと際立っています。セルマに思いを寄せる中年の男性が、車で送ろうと誘うにもかかわらず、彼女は誘いを拒んで、できるだけ自分のことは自分でしようとします。子供の養育もひとりで引き受けます。その覚悟が痛々しいと同時に感動的です。
 ミュージカル場面はセルマの夢想です。一般にミュージカル場面は三人称の視点を持つことが多いのですが、この映画のミュージカル場面は、ほとんどセルマの主観でした。ミュージカル場面から私がイメージしたのは、アルバン・ベルクの歌劇『ヴォツエック』でした。それほど、ビョークの歌は圧巻です。
 ところで、ラース・フォン・トリアー監督ですが、現実場面は手持ちカメラでアップ中心の即興演出、ミュージカル場面はデジタルカメラでロング中心と、明確に分かれています。意図が露骨すぎて、やや興をそぎます。現実と夢想をMGMミュージカルのように、連続してつなぐことをしなかったのは、シリアスなミュージカル映画を作ろうとした、トリアー監督の意図なのですが。
 セルマが映画のなかで演ずるミュージカルが、『サウンド・オブ・ミュージック』(1962)で、彼女がマリア役なのは、なんだか悲しいですね。
 
 付記:2003年10月22日、渡辺えり子がこの映画を批判しています。“あまりに理不尽で悲しすぎるストーリーにイライラしてしまった。女性に対する男性のサド的解釈に怒りさえ覚える”と。
 “一見、女性が主人公のように描かれていても、実はエゴイスティックな男性の観客のために作られた映画だと、私は見た。(中略)
 私は問いたい。女の幸せは子を産むことだけなのか? そして、失明した人は生きてちゃいけないの? この二点である。
 子どものいない人はどうなるの? 目の見えない人はどうなるの?
 (中略)
 この映画に感動してしむということは、せっかく、それこそ身を犠牲にして活動し続けてきた女性たちや傷害のある人々の力によってよい方向に変わりつつあるこの社会が逆行してしまうことになりはしないかと、私は不安を覚えてしまうのである。(『思い入れ歌謡劇場』より)”
 

日 本 映 画 (邦画)
見た日と場所 作  品    感  想  (池田博明)
2001年12月29日
ビデオ
いい湯だな、全員集合
松竹
1969年
 ドリフターズの全員集合の映画版で脚本・森崎東とクレジットされている作品は3本、『やればやれるぜ 全員集合』『いい湯だな 全員集合』『大事件だよ 全員集合』。この中で森崎さんが中心になって書いたのが『いい湯だな 全員集合』でしょう。メインが森崎さんで、副に監督の渡辺祐介が付いています。『やればやれるぜ』では、物語に森崎さんらしさはほとんど出ていませんでしたが、この第3作『いい湯だな』では全面展開、それだけにシリーズ最高傑作となっています。ウソだと思う人はぜひご覧下さい。
 冒頭、ある銀行が強盗に襲われます。五人組の強盗で銀行の隣のトルコ風呂から壁に穴をあけて侵入。お風呂好きで、「ある特徴」をもつ五人が捕縛されます。タイトルバックで次々に逮捕されるドリフの面々。
 留置所で身の上を心配する五人。ところが実際の犯人の目星が別について、誤認逮捕を公にしたくない警察(犬塚弘ら)は五人をわざと脱獄させます。留置所から下水に逃げ込んだ五人は、一度は元の生活に戻ろうとするものの、強盗の濡れ衣は晴れておらず、しばらくは下水道暮らし。全員みなし子というから、もう森崎世界に入っています。長吉(いかりや長介)は面倒を見てもらった「たたき(恐喝)」の親分(今はオデン屋の)三木のり平から「(俺のように)実の親を平然と殺せるのが、本当のハードボイルド」とか、「戦後の三大事件って知ってるか、帝銀事件、松川事件、八海事件。この真犯人が・・・。平沢にも吉岡にも気の毒なことしたな。他人には言うなよ。笑われるからな」と吹き込まれて、すっかりその気になってしまいます。長吉の指導でガンやアヤのつけかたや、にらみのきかせかたを練習する五人。「それじゃお前さん、なにかい」と始まるこの練習場面は口立てなので、まるでテキヤのタンカ売のような可笑しさがあります。同時期に『吹けば飛ぶよな男だが』や『男はつらいよ』も書かれていたことを思い出します。練習の成果を町の薬屋で披露するヒデ(加藤茶)でしたが、店の女主人に逆にすごまれて失敗。
 一方、北海道は洞爺湖温泉郷のとある高校。女子生徒たち(早瀬久美ら)が「ドリフのいい湯だな」を調子よく歌っています。この当りは無類に可笑しい。いままさに職員会議でもめているのは温泉郷で始まったばかりの高校生芸者をどう処罰するかの問題です。退学処分に反対するタカシとミヨ(生田悦子)。タカシの父親は芸者組合の組合長(上田吉ニ郎)で、ミヨの母親は高校生芸者の温泉旅館の女将(木暮実千代)。小さな温泉町で二大勢力の全面戦争となるか。田舎の巡査役は左ト全。
 高校生芸者にバカにされた芸者(春川ますみ)は千枚通しの鉄(左とん平)に加勢を頼みます。それならこっちもと、女将が東京から呼んだ「殺し屋」がドリフの五人。
 蒸気機関車の急行で、田舎町の駅に降り立った五人を出迎えたのは、千枚通しの鉄だった。五人は『木枯し紋次郎』ばりの出で立ちでBGMの音楽はマカロニ・ウェスタン調。実際には双方共にイキがっているだけで、ちっとも強くなどありません。
 勝負は決着しないまま、翌日に持ち越されます。ミヨはこの騒ぎを潮に、タカシと二人で東京に出ようと決心します。バック音楽は「ミヨちゃん(僕のかわいいミヨちゃんは・・)」。ミヨは五人に鉄は「ヘビやトカゲを食べていて」「弾に当っても死なない」人間だから、喧嘩を止めるように忠告します。湯の中でふるえて思案している五人のもとへ、潜水で近づいて来た者がありました。鉄です。鉄も五人についての噂を「生でヘビやトカゲを食べる面々」とミヨから聞かされて、和解交渉にやって来たのでした。鉄から女将は三億円の資産家と聞かされ、五人は標的を女将に変更することにします。
 一方、女将は番頭から五人が東京大空襲のときに生き別れた息子ではないかと聞かされます。それなら空襲の際の火傷の痕がスネにあるはず。風呂場でそっとのぞいてみると、確かに五人にはスネに火傷の痕があります。中村錦之介主演の東映映画『瞼の母』で母親役を演じていた木暮実千代に、ここでまた瞼の母を演じさせるとは・・・。親子の名乗りをすれば、財産狙いに決まっていると女将は五人に心を許しません。まるっきり、『瞼の母』です。
 朝になって、抜け駆けしようとヒデは「おっかさん、みたいな人」と、女将にお世辞を言います。しかし、他の四人に見つかってしまいます。喧嘩騒動は話がついたらしく、五人は解雇されてしまいます。
 仲間を裏切ったヒデは裏の畑に埋められる運命に。ヒデは「女将を抹殺する完全犯罪のための準備だった」と弁明して、許されます。女将は毎日30分間だけ電気按摩機に坐るのでした。これを利用して感電死させようというのです。
 準備万端整ったところへ、東京へ出発しようとするミヨが五人に別れを告げに来ました。そして五人が女将の息子であることが分かります。実の母親を殺すのか、実の親を殺せなくて何がハードボイルドか、と葛藤が始まります。電線を持ったまま、やっぱりできないと倒れた長吉の手で結線されてしまい、按摩機には6千ボルトの電気が通じます。実はその頃、警察から息子たちが捕えられたという連絡を聞いて、女将は警察に出かけていたのでした。
 女将を殺したと思い込んだ五人は、鉄から「旅館には実は三億円の借金がある」という話を聞き、絶望するとともに、「ハードボイルド」気取りで警察に自首して出ます。ところが実際に捕縛された五人はまったく別の男たちでした。なんとその五人にもそろってスネに火傷の痕がありました。こちらは、「ム所に女でも差し入れてくれや」と、本ものの悪人に成長してしまっていました。
 網走刑務所に保釈金五千万円を持参するという女将に、謝罪するドリフの五人。借金三億円は税務署対策のウソで、実際には資産は十五億円はあるという。娘のミヨは東京で自活して暮らすというので、網走に行くのを止めた女将は金の入ったカバンをドリフの五人に投げる。カバンを開いてみると中に入っているのは旅館のハッピだった。長吉は「これは女将さんのナゾかけだ、俺たちを経営者にしようというつもりだ」と主張して、めでたく五人は旅館のした働きに雇われることになる。
 最後の場面で実際に風呂場洗いをしているのはヒデだけ。後の四人はお湯の中で、調子よく歌を歌っている。いたぶられるヒデは最後に「みなさん、これでこの映画が終わると思っていてはいけません。これから身の毛もよだつようなことが・・・」と風呂に入った電線の先をショートさせてストップ・モーション。
 イキがる人間を笑いのめし、自分勝手な人間を情けようしゃなく点描して、悪意に満ちていますね、この映画は。ちなみに音楽もパロディの連続です。 
2001年9月29日
ビデオ
緋牡丹博徒
鉄火場列伝
1969年、東映
 藤純子主演の緋牡丹博徒シリーズ第5作。脚本・笠原和夫・鈴木則文。
 徳島刑務所で出所した矢野一家の若者(高宮敬二)を出迎えたお竜は、病気の彼から喧嘩の原因に「お竜は女としては半端ものだ」と言われたことがあったことを知る。この言葉が今回の物語のキイ・ワードとなって、お竜の行動を束縛する。慣れない徳島で医者を紹介してくれたり、泊めてくれたりした親分(待田京介)は、この辺りを仕切る徳政一家の二代目だったが、騒動の責任をとって一家を三代目(名和宏)に譲り、自らは堅気となって小作の百姓衆を助けていた。竜子は「渡世人・緋牡丹お竜の身分は明かさない」約束で、この地で働くことになる。しかし、年に一度の阿波踊りの祭りで、お大尽博打をしきる徳政一家には後釜を狙う悪者たち(天津敏、河津清三郎)や、小作人を追い詰めるお大尽たちが群がってきていた。竜子は渡世人・緋牡丹お竜として、賭場に乗り込んでいったり、農家の娘を見請けしたり、流れ者・仏壇三次(鶴田浩ニ)の連れ子(実子ではなく、三次が渡世の義理で殺した男の娘)の世話をしたり、ドスをふるったりしなければならなくなる。いつもは悪役の名和宏が悪者達に利用されそうになるものの、改心した途端に暗殺されてしまう役どころを演じている。竜子には三次ほか、大陸帰りの大阪やくざ・丹波哲郎や、熊虎親分・若山富三郎が加勢する。
 監督・山下耕作は藤純子を常に美しく撮影している(撮影は古谷伸)。緋牡丹のお竜として胴をつとめる場面の緊張感あふれる表情と、三次の連れた少女と遊んだりするときの柔和な表情のどちらも美しく撮影されている。三次と一騎打ちで花札勝負をするときの、札に迷い、「流しておくんなさい」と二度札を流す場面の緊張感は、本篇のピークといえよう。脚本はさすが笠原和夫で、底にやくざを否定する精神がしっかり流れている。山下耕作の演出は丁寧すぎて、やや展開の勢いを欠くところがある。
 最後のお竜さん(藤純子)と鳴戸川(天津敏)の決闘シーンの殺陣は、スローモ−ションでのお竜さんの動きや立ち居振舞いが見事である。
2001年9月15日 一心太助
男の中の男一匹
1959年、東映
 錦之助主演・沢島忠監督の一心太助シリーズ第3作。脚本・鷹沢和善、94分。
 大江戸の長屋の俯瞰から始まります。今日は太助の婚礼の日。あいもかわらず威勢のいい太助(中村錦之助)の仕事ぶり。仲間がお祝いに駆けつけるとともに、着慣れない紋付きを太助に着せます。一方、腰元だったお仲(中原ひとみ)も婚礼の着付けをしています。ところが、無一文で博打をうち、賭場から逃げてきた隣人をかばって、やくざと大喧嘩。せっかくの紋付は破れてしまいます。仲人役の大久保彦佐エ門(月形龍之介)の前に飛び出してきた太助はなんと裸。男の中の男一匹、太助のいいところは裸一貫ということで、かえって誉められます。
 新婚早々の太助の所帯には、事情あって、彦佐の用人の隠し子二人(いとし・こいし)や、お仲の田舎の娘たちが居候する羽目になります。一方、町奉行(進藤英太朗)は、魚河岸の支配権を簒奪しようと画策しています。現在の松前屋(大河内伝次郎)を追い出して、自分たちの思い通りになる商人を立てようとしますが、彦佐や松平伊豆守(山形勲)の反対にあって進みません。
 そうしているうちに、彦佐が倒れて死亡してしまいます。
 邪魔者がいなくなった奉行たちは早速、松前屋が実は豊臣家の残党だったと言いがかりをつけて、処刑してしまおうと画策します。太助はなんとか松前屋を救おうとしますがうまくいきません。いよいよ処刑の日、引き回しの松前屋を見た侍が、自分が江戸で探していた松前藩の後取りだと申し立てます。証拠の品を伊豆守に届ける間、処刑を阻止しようとする太助たち、証人もろとも消してしまおうとする奉行一派の大乱闘。あわやの瞬間、伊豆守が刑場に到着して、大団円。
 太助は家光(錦之助の二役)からお誉めの言葉をいただきます。
 沢島忠の演出は移動カメラを多用したダイナミックなもの。脚本の集中力が弱く、中盤やや散漫になりますが、太助の人物像に見合った展開で楽しめる作品になっています。 
2001年8月21日
小田原オリオン座
千と千尋の神隠し

2001年
 「十歳の女の子のために作った」という宮崎駿原作・脚本・監督作品。
 宮崎作品の少女像、たとえば『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『紅の翼』と並べてみますと、これらの作品の男の子まさりの少女たちは、いかにも男の子からみた場合の理想型であって、女の子にとっては違和感があるのではと思っていました。切通理作『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)によれば、宮崎さんは女性スタッフから「あんな少女がいるはずがない」「出て来るのはいつもお嬢様ばかり」「トイレにもいかないのか」と少女像への批判を受けてきたといいます。やっぱりと思いました。そこで、『魔女の宅急便』のキキはそのような批判に対する答えだとか。
 本作の『千と千尋の神隠し』の「十歳の」女の子・千尋はまだ初潮前ですから、当然のことながら、女らしくありません。また、千尋の労働や冒険に対する動機は、友人や両親を助けたいという無償の気持ちから出ていますから、湯屋で働く他の人々のように物欲というものがありません。カオナシがたくさんの薬湯の札や砂金を示しても、千尋は必要以上のものを取ろうとしません。
 湯婆婆(ユバーバ)の前で、千尋は「ここで働きたい」と言いつづけます。宮崎駿さんは「言葉には本来、力がある。言葉の力を取り戻したい」と言います。魔界では、本名を忘れてしまうと、もとの人間に戻れなくなるといいます。名前を支配することで、魔女はその人物を支配していきます。
 この場合、本名はそのひと本来の姿をも意味しているのでしょう。自分を失ったとき、ひとは魔物になってしまうのですね。
 湯屋の喧騒と働く人々、湯浴みに来る八百万の神々は大変魅力的に描かれています。映画館で見ていた子供たちは本気で怖がっていました。この湯屋で働く千尋の姿がいちばんイキイキしているように感じられました。
 よく考えてみると、納得のいかないところがいくつかあります。立花隆は、千尋には河の主がくれたニガダンゴが自分の目的にかなう魔力のあるダンゴだとなぜ分かったのか、その辺の説明が不足している、銭婆は印鑑には盗んだ者を死に至らせる呪いがかけてあったと説明していたのに、千尋が踏みつぶした虫は湯婆婆がハクを支配していたタタリ虫だと断言するのは辻褄が合わない、銭婆が千尋にくれた髪飾りにはもっと活用の余地があったのではないか、などなど疑問を呈しています。これらは、もっともな疑問だと思いました。切通理作は他にも、最後の場面で、なぜ千尋には両親の豚が見抜けたのかが説明されていないと指摘しています。伏線が張られているわけでもないし、ヒントもまったく示されていないので、偶然としか思えません。急いで仕上げたので忘れてしまったのでしょうか。
 ところで、千尋の両親は、冒頭と最後でまったく変化していません。千尋は、確実に変化しているにもかかわらず。
 両親はいったいどんな禁忌を犯したために豚に変えられてしまったのでしょうか。理不尽な気がしますが・・・。
2001年8月
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家光と彦佐と一心太助

1961年、東映
 1961年の東映作品。脚本は小国英雄。監督は沢島忠。
 沢島忠はミュージカルのような威勢のいい時代劇を作りました。特にテレビ放映で見た『一心太助 天下の一大事』は傑作だったと思います。
 この作品は錦之助の一心太助ものの第四作目。昭和36年1月の公開作品です。家光と太助が瓜二つなので,二人を入れ替えて,後継者である家光を暗殺から守ろうという計略を彦佐が立てます。太助になった家光と,家光になった太助のチグハグぶりが可笑しい作品ですが,『天下の一大事』に比べて,テンポがゆっくりしていて,いつもの太助もののエネルギーは後退しています。少し残念な作品でした。 
2001年8月
ビデオ
喜劇・一発大必勝

1969年、松竹
 1969年の松竹作品。脚本が森崎東と山田洋次。監督は山田洋次。
 藤原審爾の『三文大将』が原作とか。山田洋次作品というよりも、森崎さんの特徴が出た、アクのある怪作でした。よくこんな映画が作れたなあと感心してしまうほど作家性の強い映画で、喜劇と銘打っていますが、話は途方もない展開をします。ハナ肇をブルート、倍賞千恵子をオリーブ、谷啓をポパイに見立てて展開する人情喜劇というのが宣材の惹句ですが、とてもそんな風には見られませんでした。
 冒頭から森崎らしさの連続です。お婆さんがバスに乗ろうとして、よろよろ駆けて来ます。バスガイドが「墓場ゆきですよ」と案内する。お婆さん相手に「墓場」「墓場」という言葉がなんの配慮もなく、ぶつけられる。貧乏長屋のおじさんたち四人がカラーテレビの入った(という)ダンボール箱を持って乗り込んでくる。ガイドはつる代(倍賞)だが、新米ガイドの教育係なのでこのバスには二人のガイドがいる。焼き場で降りようとして、男たちは箱を落としてしまう。中から死体の足が飛び出て、ギョっとする一同。
 貧乏長屋の男たち(桑山正一、田武能三、佐山俊二、佐藤蛾次郎)は仲間の暴れん坊のウマがフグの毒にあたって死んだので、無縁仏として火葬したのだが、保険会社の左門(谷啓)が都合した棺桶代を酒代にして宴会!貧乏人の宴会というバーレスクな展開はまさに森崎流です。
 ところが、そこへぬっと現れたヒゲつらの男(ハナ肇)。これがウマの友だちで、ボルネオ帰りの暴れん坊。事情を知ったヒゲ男は、お前たちがウマを見殺しにしたと怒る。ただただあわてふためく、共同体のなかの、弱くて無責任な男たちと、酔って理不尽に暴れる外来者(エイリアン)。ヒゲ男は、ウマのお骨をすり鉢で粉にして水と醤油を加え、男たちに無理やり飲ましてしまう(これはまるっきり、森崎さんの世界!)。逃げまどう男たち。暴れるハナは長屋を壊すので、大パニック。谷啓扮する心臓が悪いという左門もおろおろするばかり。喜劇というよりも怪奇劇ですね、これは。森崎さん脚本・監督の怪作『生まれ変わった為五郎』でも為五郎が小便を飲むシーンがありましたが、それに匹敵するアクの強さです。
 ハナは結局、最後まで名前が紹介されず、みんなには「御大(おんたい)」と呼ばれています。この迷惑者を追い出そうとする住人たちの計画はことごとく失敗して、混乱はエスカレートしていきます。
 気の強いつる代も長屋の住人だが、夫は刑務所入りらしく赤ん坊を抱えて、後家状態。気の弱い左門に頼っているが、まだ夫の籍に入っているので、左門と結婚はできない。
 暴れ者の御大は同情されることなく、最後まで迷惑者で終始します。
 つる代に惚れた御大が傷害保険目当てに工事現場から飛び降りると、その意図を察した左門はとめようとして、御大の下敷きとなり、死んでしまう。通夜の席上、御大は死人を棺桶から引きずり出し、一緒に踊ると、死人は息を吹き返す。しかし、御大はこれに気づかず、長屋を出てしまう。このあたりの奇怪な死人との踊りやドタバタの描写も森崎さんらしいものです。
 つる代にプロポーズした左門は、つる代に「籍がまだ・・・」と言われて出奔して、乞食同然の生活となる。
 最後は廃バスで寝ていた左門と、そのバスをトレーラーでつぶした御大が再会し、再会を祝して白い砂をかけあったりして喧嘩をするロング・ショット。
 いやはや、とんでもない作品でした。
2001年3月
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隠し砦の三悪人

1958年、東宝
 黒沢明監督の1958年12月封切りの白黒作品。『蜘蛛巣城』が1957年1月、『どん底』が1957年9月。これらの二本は、それぞれシェイクスピアの『マクベス』とゴーリキーの『どん底』の翻案です。その次がこの作品で、黒澤初のシネマスコープ。その後、『悪い奴ほどよく眠る』(1960年9月)まで、ほぼ二年の間があきました。
 佐藤忠男の『黒沢明の世界』(三一書房、1969年)では、本作はほとんど触れられていません。その理由は、「黒沢明の作品としてはあまり出来のよくないもので、ただ、三船敏郎が馬にまたがってフル・スピードで疾走しながら敵の鎧武者を追い抜きざまに三人も叩き斬るシーンのみごとさと、この、藤田進が「裏切りご免」と叫んで味方を蹴散らす場面の面白さだけが忘れがたい。そして、この二つの場面には、黒沢明のものの考え方がよく出ていると思う。すなわち、自分の力に自信のある人間が、その力を最大限に生かしきって行動する姿こそがもっとも魅力的であるということ、もし、国とか主人とかが、力のある人間がぞんぶんに行動することをじゃましようとするなら、そんな国や主人は、個人の方で見捨ててしまえ、ということである。これが一匹狼の理想である」(佐藤忠男、235頁)。この一匹狼を時代劇のなかで自由にふるまわせたのが『用心棒』(1961)や『椿三十郎』(1962)であったと、佐藤忠男は論じていきます。佐藤忠男は作品に描かれた人間の思想という観点から、黒澤作品を論じています。いかし、映画は不思議なもので、スラップスティックを思想だけで論じることが不可能なように、活劇を思想だけで断ずることもできません。
 ちなみに、『用心棒』は、原作が表示されているわけではありませんが、あきらかにハドリー・チェイスの名無しのオプ第一作『血の収穫』の換骨奪胎です。黒沢明の『七人の侍』(1954)を換骨奪胎して、アメリカ映画『荒野の七人』が出来たり、『用心棒』が影響してイタリア西部劇『荒野の用心棒』が出来たりしています。『用心棒』をリメイクしたアメリカ映画の近作『ラストマン・スタンディング』がありますが、もともと『用心棒』の本家はアメリカ作品です。
 さて、この『隠し砦の三悪人』ですが、ビデオの解説に、山田宏一さんが書いた、“映画そのものが、プロットそのものが、スリルと笑いとアクションにダイナミックに息づく、波乱万丈、痛快無比の冒険時代活劇”という評価が、正鵠を射ているでしょう。関所をどう突破するか、次々に起こる難関をどうやって切り抜けていくか、その脚本(菊島隆三、小国英雄、橋本忍、黒澤明)の面白さは並大抵の工夫ではありません。 
2001年3月
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戦国野郎

1963年、東宝
 岡本喜八監督の1963年の白黒作品。後年の『ジャズ大名』よりずっと生きのいい快作で、再評価されてよい傑作時代劇。
 ときは戦国時代、主人公は加山雄三扮する落ち武者・落吉丹(おちきったん)。「落ちきった」という意味の遊びの命名です(脚本は佐野健・岡本喜八・関沢新一)。武田信玄の間者・雀の三郎佐(中丸忠雄)に狙われ、決闘となりますが、勝ちます。そこへ、同じような落ち武者・播磨(中谷一郎)が登場、二人の会話から落は、もうすでに十八人の間者に狙われているということが分かります。落は一度は武田信玄に仕えたがその冷酷さに愛想をつかしたのだそうです。落は、「人間、計算ばかりで動くとは限らぬ。心だ」と言います。この言葉が、この物語では、弁証法の反語のようなものです。ここで、タイトルが出ます。音楽は佐藤勝。
 落(おち)と播磨の二人は変な武士・実は木下藤吉郎(佐藤充)と出会います。武士は木下藤吉郎に仕官しないかと勧めます。保留する二人。そこへお嬢(実は頭目の娘・狭霧。星由里子)に引きいられた馬しゃくの一隊が登場して来ます。二人は武士の入れ知恵で、食い詰めた百姓の握り飯の取り合いが原因の喧嘩を演じて、一隊の前に飛び出し、馬しゃくの仲間に入れてもらうことになります。お嬢が付けたあだ名はバッタ(加山)とハリネズミ(中谷)。
 馬しゃくの頭目・宗助(田崎潤)は、籐吉郎(佐藤充)の訪問を受けます。織田信長方に鉄砲三百丁を運ぶ交渉ですが、米や塩運びが専門の馬しゃくが鉄砲とは・・・・。頭目はなかなかウンと言いません。馬しゃくの一人・ナツ(江原達治)はお嬢に惚れています。
 藤吉郎は村上水軍にも鉄砲運びを持ちかけます。村上水軍の長・滝姫(水野久美)は横取りを計画し、引き受けます。鉄砲運びの交渉を同時に二つの組織に依頼するとは?どちらかは偽物です。
 生きていた武田方の間者・雀の三郎佐は鉄砲を狙って組織を襲います。馬しゃくの一隊は果たして仕事をやり遂げることができるのでしょうか。藤吉郎の計略で事態は二転三転して進んでいきます。
 この春(2001年)、増村保造監督と若尾文子の傑作群や石井輝男監督の新東宝作品が再評価され、ビデオまたはDVDで発売されます。昨年、市川昆監督の喜劇が再評価されました。福田純監督のアクション映画に関する本も出ました。都筑道夫の殺し屋の決闘ミステリー『なめくじに聞いてみろ』も再刊されたことですし、その映画化作品『殺人狂時代』も含めて、この辺で、岡本喜八監督の1960年代の作品も再評価されて欲しいものです。
 『戦国野郎』のあらくれ男どもの中で、星由里子や水野久美はとびぬけて美しいですし、物語の展開にもスピードがあり、画面はいきいきしています。撮影・逢沢譲、美術・植田寛、録音・渡会伸、照明・小島正七、整音・下永尚、編集・黒岩義民、殺陣・久世竜、助監督・山本迪夫。前年1962年の岡本喜八作品、中国戦線を舞台にした半端野郎の兵隊アクション『どぶ鼠作戦』も、ほぼ同様のスタッフです。
2001年3月
DVD
名探偵ホームズ
(アニメ版)
 テレビ・アニメ版『名探偵ホームズ』(1984-85年)は、登場人物すべてを犬にしてしまったところが特徴です。このホームズは物理学と化学と植物学を学び、バイオリンを弾くという趣味人です。
 このシリーズは、スラップスティック満載のしゃれた作品で、特に最初に製作された宮崎駿監督・演出・絵コンテ及び近藤喜文作画監督(惜しくも亡くなった)の五作品「小さな依頼人」(パイロット・フィルムを兼ねた第一作)、「青い紅玉」、「海底の財宝」、「ミセス・ハドソン人質事件」、「ドーバーの白い崖」は傑作です。もうひとつ、「ソベリン金貨の行方」は演出・富沢信雄、作画監督・近藤喜文となっていますが、宮崎駿が関わった最終作品で、その他のニ十話は御厨恭輔監督作品。御厨監督作品もイキに出来ています。
 正義観に厚く、行動の人ホームズは、わが「理想」型のひとつです。


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