映画 日記   2001年3月28日から         池田 博明 



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2009年8月-9月に見た 外 国 映 画 (洋画)

日時    作品            感   想    (池田博明)
2009年9月13日


日曜洋画劇場
TV朝日
21:00~22:50
9.11アメリカ同時多発テロ 最後の真実


USA
2006年 
94分
 “もしもあの時”という視点で描かれた再現ドラマ。例えば、もしもあの時、あの容疑者を調べていたらテロ計画を事前に察知できたかもしれないという視点で過去を振り返ってみるわけである。しかし、どうしても後知恵である。“しなかった”事を“・・・たら・・・れば”と反省しても良い知恵にはなかなかならない。本作には、国家の白色テロに関する認識は無かった。
 2001年の9.11の場合、その始めは9.11テロの8年前、1993年2月にワールド・トレード・センター(WTC)爆破事件にあったという。次いで、1994年にはフィリピン航空機の爆破事件。これらは9.11につながっていた。
 主人公、FBIテロ対策部長オニールを演ずるのはハーベイ・カイテル。もともとは300分の連続TVドラマを3分の1に縮めたものを放映したようだ。したがって、中等半端な内容であった。デヴィッド・L・カニンガム監督。
 1997年、爆弾テロ犯ラムジ・ヨセフを逮捕。懲役240年の刑に処される。影の指導者はビン・ラディンと判明。1998年3月、アフガニスタンでビンラディンにABC記者ミラーが独占取材を行った。1998年、FBIは独占取材の時にビンラディンの近くにいたある青年をマーク。彼の関係するナイロビでのアメリカ大使館前自爆テロが起こる。CIAのビン・ラディン暗殺計画は失敗。テロの2年前、ラムジの叔父は「飛行機作戦」を立てた。ちょうど大統領選挙でブッシュが当選した頃だ。
 FBIに2001年に航空関係に怪しい者がいるとの情報があった。飛行訓練を受講しているムサビを逮捕したが、パソコンを調べる特別許可を上層部が出さない。オニールは上層部の危機感の薄さに絶望してFBIを退職。アフガニスタンでタリバンと闘う北部同盟司令官マスードはCIA工作員カークに危険を予告していた。退職したオニールがWTCビルの警備主任に着任したのは8月末。テロの2日前、取材を装った記者の自爆テロでマスードが暗殺された。彼は生前カークに、自分が殺されたら何かが起きる合図だと言っていた。
 いよいよ当日、航空機4機がハイジャックされた。そして2機がWTCビルに激突、午前9:59、ビルが崩壊し、被害者の救出に当たっていたオニールは死亡した。

        映画川柳 「後知恵で もしもあの時 していれば」 飛蜘
 
2009年9月12日

DVD
アクメッド王子の冒険

ドイツ
1926年
66分
 影絵アニメと切り絵で著名なドイツのロッテ・ライニガーが1923年~1926年に製作、1926年9月3日に発表した世界最初の長編アニメーション(シルエット・フィルム=影絵映画と表示されています)。無声映画です。オリジナル・マスターネガは紛失していたそうで、英語字幕のプリントから修復版を作製し、字幕は検閲資料から復元した(1999年)。サウンドの新録音は2004年。こうして世界初の長編アニメーション作品は蘇りました。ロッテ・ライニガーの素晴らしいセンスはモーツァルトの歌劇に付した切り絵で知っていましたが、まさかこんな長編作品があったとは思いもよりませんでした。

 第1幕「冒険の始まり」:イスラムの都、王様カリフの誕生祝いの席上、アフリカの魔法使いは空を飛ぶ魔法の馬を王様に見せます。王様は馬が欲しくなり、代わりに褒美のものをなんでも取らせようと約束、魔法使いはディナルザディ姫を望みます。姫の兄アクメッド王子はとんでもないことだと割って入りますが、魔法使いは王子を馬に乗せて彼方へ飛ばしてしまいます。
 第2幕「アクメッド王子の物語」。王子の冒険が始まります。魔法の島=ワクワク島では王女である美しい妖精パリバヌーと知り合い(魔法の湖に姫が水浴中、羽根の衣を奪う・・・「天女の羽衣」だ)、一目惚れで求婚します。王子が最初に出会った召使いの女たちに惚れられて争奪戦にまきこまれてしまうのは歌劇『魔笛』そっくり。王子と妖精を乗せた馬は中国へ行く。一方、馬の行方を捜していた魔法使いはコウモリに化けて中国にやって来る。さらに狼に変化し二人の間をとり持っていた孔雀を殺し、王子を谷底に落とし、妖精を誘拐する。王子は大蛇と闘い(これまた『魔笛』のようだ。『魔笛』の王子は闘わずに気絶してしまいますが)、谷底から脱出するが、もはや遅かった。
 第3幕「中国での冒険の物語」:売られた妖精の姫が言うことを聞かないので中国の皇帝は道化師に姫をあげてしまいます。一方、金袋をコウモリのような回転する鳥に変えて王子を捕えた魔法使いは、火の山の頂上に王子を置き、イスラム国に戻ります。この山の不格好な魔女は魔法使いに恐れられていました。王子と魔女は協力して魔法使いと闘うことにします。魔女は王子に鎧や弓矢など武具を与えます。
 道化師と妖精の姫の結婚式を邪魔した王子はワクワクの魔物に再び姫をさらわれます。ワクワクの門を開けるのはアラジンの魔法のランプを持つ者だけだという。
 第4幕「アラジンと魔法のランプ」:大きな魔物に食い殺されそうになっているアラジンを王子は助けます。魔法使いに利用されたアラジンは地下洞窟から魔法のランプを見つけ出しますが、ランプを渡さなかったため、突き落とされてしまいます。魔法のランプの召使いの働きで家へ戻ったアラジンは一夜で城を築き、ディナルザディ姫と結婚しますが、ある日突然すべてが消滅。首切り役人から逃れて船で海へ出たところを嵐で難破、流れ着いた島で魔物に襲撃されたところを王子に救出されたのでした。魔女がランプを取り返すために魔法使いと魔法比べをして戦い、遂に勝利します。ランプも手に入りました。
 第5幕「ワクワクの魔物との戦い」:妖精の姫が魔物に崖に突き落とされようとしたとき、王子が助けに駆けつけます。アラジンがランプの精霊を呼び出すのが遅れ、いったんは魔物にランプを奪われますが魔女がランプを取り返し、白い精霊のおかげで闇の魔物は山の冥界に戻ります。宮殿が空を飛んで来て、アラジンは姫と再会。みんなが王様とも会い、めでたし、めでたし。

        映画川柳 「アフリカも ワクワク島も 闇世界」 飛蜘

 特典の「アート・オブ・ロッテ・ライニガー」では彼女が大好きな『魔笛』のパパゲーノを例に切り絵を動かす影絵アニメの製作を自ら紹介しています。切り絵をこまかくパーツに分けて製作、パーツを留め具でつないで複雑な動きも表現できるようにします。セルを描くよりも簡便にできるし、スタッフも少数ですむため、好評でした。ロッテは74歳まで製作を続けます。夫は『大いなる幻影』を製作し、自身も『トスカ』を監督したカール・コッホ。ライニガーは戦後も影絵アニメを作り続け、色セロファンと切り絵のカラー作品も作りましたが、キャラクターまでがカラーになってしまうと、かえって見る人の想像力を弱め、影絵の良さが失われて衰退してしまったようです。日本の影絵作家・藤城清治はライニガーの影響を受けました。
 1935年「パパゲーノとパパゲーナの二重唱」では鳥が卵の殻をつつくと、割れて中から小さなパパゲーノやパパゲーナが産まれます。たくさん、たくさん。
 ライニガーと夫は1934年にロンドンに移り、童話の世界を中心に影絵アニメを製作し続けました。
 『ロッテ・ライニガー作品集DVDコレクション』のDisc1は『アクメッド王子の冒険』、Disc2は『世界のお伽話集』、Disc3は『歌劇とその他のお話集』です。
 1922年、ライニガー23歳のときの短編『シンデレラ』を見ると、ライニガーの切り絵のセンスとアニメの物語の機知とリズムは既にかなりの完成度を示しています。ライニガーは「シンデレラ」を1954年にトーキーで作り直していて、背景の重ね技術と切り絵の表現が緻密になっています。
 『モーツァルトの幻想』(10分間のモーツァルト、1930年)は「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、「フィガロの結婚」の舞踏会の音楽、「ドン・ジョヴァンニ」のドン・ジョヴァンニとツエルリーナの二重唱などをバックに、舞踏会に衣裳を借りて入り込んだ貧しい若者が美しい娘と踊るという物語です。
 『パパゲーノ』(1935、白黒作品)は「おいらは鳥刺し」「恋人か女房が」(可愛い娘を捕えると鳥に戻って逃げて行く。最後にパパゲーナが現れる。『魔笛』冒頭の音楽が使われていて大蛇に襲われるがパパゲーノは退治する)、「パパゲーノの嘆きのアリア」(彼の首つりを止めるのは三匹のオウム)、「パパパの二重唱」(パパゲーナはダチョウに乗って再登場。10人もの子供が!)と続きます。  
 モーツァルトの歌劇を切り絵で表した作品は『フィガロの結婚』 『ドン・ジョヴァンニ』 『コシ・ファン・トウッテ』 『魔笛』にそれぞれ紹介しました。
2009年9月12日

DVD
春のめざめ


ロシア
2006年
(日本公開2007年)
28分
 アレクサンドル・ペトロフ脚本・監督のパステル画風のアニメ作品。ガラスに指先で油絵具で緻密な絵を描いていく技法で製作されました。『老人と海』(1999)が有名ですが見ていません。
 原作はシュミルフの少年の愛を描いた物語。16歳のアントンはツルゲーネフの『初恋』を読み、恋を恋するひとになった。彼の恋の相手は家政婦の少女パーシャだった。 
 アントンはふとしたきっかけで出会った青いサングラスの貴婦人に恋をする。一方、パーシャは御者のステパンに嫁に行けと言われていると告白。アントンの恋心はかえって燃え上がる。嵐の夜、牧夫の家でアントンは牧夫の妻に誘惑される。パーシャはアントンを非難する。牧夫の息子が両親を殺し自宅に火を放った。人々は身持ちの悪かった牧夫の女房の噂をする。精神的な恋愛の尊さを説くアントンを「生理学の結果だ」とうそぶく友人はバカにする。
 貴婦人に燃えるような恋の手紙を出したアントンは秘密の約束を取り付けて天にも昇る気持。女は25歳のセラフィーヌ。一方、猛牛に素手で立ち向かおうとしたステパンは牛の角に刺されて死ぬ。パーシャは悲嘆にくれる。セラフィーマから誘われたアントンは二人きりになったとき、彼女の秘密を知る。「私の不幸」という彼女の右目は青い義眼だったのだ。アントンは脳炎にかかり生死の間をさ迷う。看病に当たるパーシャ。九死に一生を得たアントンが目覚めると、パーシャは修道院に行ったと聞く。「生き抜いてくれるなら去ります」と神に約束したのだ。アントンの初恋は終わった。
 印象派、特にルノワールを模した絵は、熱病に浮かされるアントンの脳が燃え上がり色彩に溶ける場面に象徴されるように、大胆な表現をとります。

        映画川柳 「色彩に 溶ける炎の 恋心」 飛蜘
2009年9月11日


金曜ロードショー

21:00~22:50
ワールド・トレード・センター


USA
2006年
 オリヴァー・ストーン監督作品。原案を生還した警官の妻に求めたニコラス・ケイジ主演の実録ドラマ。
 2001年9月11日に起こった世界貿易センター・ビルのテロ。港湾警察の警察官の救出を中心に描きます。突撃用の酸素ボンベを準備して地下のコンコースを通過中にビルの崩落が始まる。がれきに埋まったウィル・ヒメノを救出しようとした仲間が二度目の崩落で死亡。警官や消防士の妻や母の心配や焦燥感が描かれます。班長ジョージ・マクローリン(N.ケイジ)とヒメノ(マイケル・ベーニャ)は暗闇のなかで動けない。救援に駆けつけ、生存者を探していた元海兵隊員のディヴィッドが、二人を発見。なんとか救出に成功します。
 映画の半分ががれきの暗闇で埋まって動けず励まし合う二人の様子という奇妙な映画で、パニック・ムーヴィーではありません。むしろ、9・11のような大惨事にあって生還の希望を失わずに活動する警官や消防士、市民、救急隊員などの人々を描いています。けれども、ディヴィッドは「今度は兵士が必要だ。報復のために」と電話しています。雄々しく災害に対処する警官や救援隊のメンタリティは良き兵士のもので、いわば“銃後”を守る女たちの夫を失うことの不安が対置されていることによって、手放しで賛美されているわけではありませんが、巧妙なヒロイズムであることに変わりはありません。救出され生還した人の背後で“散華”した“兵士”を追悼した映画です。

        映画川柳 「オリヴィアと 妻が名付けた 次女の名を」 飛蜘
2009年9月10日


DVD
キリクと魔女2
4つのちっちゃな大冒険

フランス
2005年
(日本未公開)
72分
 ミッシェル・オスロ監督の短編オムニバス。賢者がキリク(声は小林由美子)の他の冒険を話す。水を引いた畑に村人が植えるのは豆やナス、ピーマン、キビ、ウリ、パイナップル、花。キリクは支柱を土に差し込む。キリクは、傷を負った子リスを追って畑を荒らした黒ハイエナをミツバチの巣を落として追い払う「黒ハイエナから畑を守れ!」。粘土で素焼きの土器を作り、町に売りにいくものの、村人は途中で水牛に荷物を乗せる。キリクは魔女の罠かもしれないと自分の小さな土器を自分で運ぶ。案の定、町へ近づくと水牛は暴走し、荷物を放り出し割ってしまう。やはり魔女カバラ(声は唐沢潤)の謀りごとだったのだ。キリクは小さな土器を売って大儲け、町の人の利益になる「キリク、陶器を売りに街へ行く」。三本足の鳥の足跡をたどって村はずれに来てしまったキリク、魔女の小鬼に囲まれてしまうが、キリンの頭に乗って逃げる。サバンナでいろんな動物や鳥を見る「キリクとキリン 冒険の旅」。新酒のなかに毒の花が入れられ、女たちが中毒してしまう。キリクと子供たちが鉢でニセモノの小鬼を作って魔女の縄張りの毒消しの黄色い花を取りに行く「毒の花と魔法の花」の4篇。吹替版の演出は志水良旺。
 村の老人は知ったかぶりをして新しい挑戦にケチをつけるだけ。

        映画川柳 「キリンにて アフリカ絵巻 展きけり」 飛蜘
2009年9月10日

DVD
キリクと魔女


フランス
1998年
(日本公開はスタジオ・ジブリ
2003年)
75分
 ミッシェル・オスロ原作・脚本・監督の長編第1作。フランスでは130万人の大ヒット。
アフリカのある村。誕生直後から自分で歩き、産湯をつかったキリクは村人が怖れる魔女カラバを恐れることなく、戦いを挑んでいく。 「どうしてカラバは意地悪なの?」。小さなキリクは“呪われた泉”に水を取り戻し、祖父"お山の賢者"に会うために穴を掘って進む。 イノシシに襲われたりの苦難を切りぬけて岩山の奥の洞窟の賢者に聞いた話は驚くべきものだった。男たちを食ったというのは村人たちを怖れさせるため。 魔女カラバは背骨に毒のトゲを打ちこまれていて、その苦痛を人々に与えるために魔女になったのだ。 トゲを抜いたときの激しい苦痛は耐え難い。トゲは歯で抜く必要がある。抜けば魔力は無くなるのだという。
 監視の目を盗んでカラバに接近したキリクはトゲを抜く。解放されたカラバにキリクは求婚する。 子供とは結婚しないと言われたキリクはキスしてくれと言う。カラバがキスした瞬間、キリクは大人になる。
 村人はキリクが帰って来ないので不安になる。若者になったキリクを村人は信じられない。しかし、母親には分かった。村人は魔女は殺してしまえと主張する。そのとき、食われたと思われていた男たちが賢者を連れ太鼓を打ちながら帰って来る。男たちは魔女によってオブジェ(召使いロボット)にされていたのだ。
  オスロ監督は、ギニアでの子供時代を過ごして、アフリカ大陸への憧れは自然ともいえるものだったのだという。 鮮やかな色彩、オークル色の村々、黄色いサヴァンナ、エメラルド色の森、緑の河、魔女の住む灰色の家、お祭りにいる虹色の民衆。 音楽もアフリカのミュージシャン、ユッスー・ンドールで、声優もアフリカ(セネガル)人の俳優たち。
 日本語吹替版はキリクを神木隆之介、カラバを浅野温子。翻訳・演出は高畑勲。高畑は、 考えることを忘れている日本のアニメに「なぜ、どうして」と切り込んでくると解説。

        映画川柳 「迷信を 無垢の心が 打ち砕く」 飛蜘 
2009年9月8日


DVD
アズールとアスマール

フランス
2006年
99分
 ミッシェル・オスロ監督の傑作アニメ。背景は2D、人物は3Dで造形されている。日本語吹替版の翻訳・演出は高畑勲。ふたつの国を渡るアズールとアスナールは自国の言葉(フランス語)と異国の言葉(アラビア語)で話す。フランスでは大人の観客はアラビア語が分からないことで不満を言ったが、子供はなんの違和感も持たなかったという。日本語吹替版ではフランス語部分だけを吹き替えて、アラビア語部分は原音のまま。しかし、驚くべき自然さでつながっていた。大人と子供の反応の違いが興味深い。『崖の上のポニョ』も同じようなところがある。大人は言葉で論理的に解釈しようとして、それができないと不満を持つ。けれども子供は一瞬にしてお伽話の論理を受け入れることが出来るのだ。この作品の場合は言語だけれど、アラビア語でも子供は何を言っているかが分かるのである。実は私たち大人にも分かるのだが。どうしたら分かるかって? 状況を鑑みながら、音を聞けばいいのである。

 青い眼を持つアズールと黒い眼を持つアスマールは、いつも意地の張り合いをしていたが本当はお互いに不可欠な兄弟で、生まれたときから乳母ジェナヌ(声は玉井碧)に育てられた(乳母は黒い眼でアスマールの母)。強権的な父親はアズールに王道を学ばせるが、アスマールは邪魔者扱い。少年になったとき、アズールは街の家庭教師の許へ預けられ、乳母とアスマールは追放される。
 成年に達し、アズール(声は浅野雅博)は乳母から聞いた子守唄のジンの妖精を探す旅に出かける。嵐の海で船から落ちたアズールが漂着した浜辺は中世イスラムの世界だった。乳母の国の言葉だ。村の人々はアズールを怖がる。どうもおかしい。原因は彼の青い眼にあった。この国では青い眼は不吉をもたらすと信じられているのだ。
 アズールは眼を閉じて盲人のふりをすることにする。ビン底眼鏡をしている物乞いの脚の悪いクラプー(声は香川照之)がアズールの眼の代わりに道案内をしてくれる。クラプーは常に不平不満をもらしている男。「ガゼルだ、脚の長いやつさ、ウサギもいねえんだ」という風に。アズールは灼熱の鍵の寺で灼熱の鍵を、香りの鍵の寺で香りの鍵を発見する。
 乳母ジェナヌは苦労の末、大富豪になっていた。アズールと再会したジェナヌは青い眼でアズールと分かる。青い眼が不吉だって、バカな、ふたつの国、ふたつの言語、ふたつの宗教を持っていた乳母は文化が違えば考え方が違うことを理解していた。
 再会の喜びもつかの間、アズールはジンの妖精を探す旅に出るという。アスマール(声は森岡弘一郎)も同じ旅に出かけるところだった。アスマールはアズールに敵意を持っていた。クラプーも青い眼の持ち主だったことが分かる。ジュナヌは賢者ヤドワを紹介する。賢者は苦難の旅について話す。山賊と闘い、真紅のライオンや火の鳥の試練を乗り越え、黒い谷を渡り、ふたつの門に行きつく。闇の洞窟と光の洞窟がある。見分け方はシャムスサバ姫(声は岩崎響)に聞くとよい。
 姫は城に幽閉されていながら、何カ国語も教わった知恵者だ。姫は年端もいかない小さな少女だった。アズールに姿を消す霧の小瓶や野獣の舌(なめると野獣と会話できる)、サイムール鳥の虹の羽根(鳥から身を守る)を渡す。アスマールにも同じものを渡していた。そして、勇敢さを保てば門は分かると。そして天体観測台を見せた後、なにか耳打ちする。
 夜明けに出発の予定だが、アズールはお忍びで街を見学する。城の窓から姫が脱出してきた。姫はほんものの土に触れて喜ぶ。ネコも、木も、ホタルも始めて見る。木に登る姫とアズール。ロッテ・ライニガーの傑作影絵のようだ。
 悪徳商人の屋敷が見える。彼らは二人をつけて妖精を横取りしようと計画していた。姫とアズールはジェナヌの屋敷に逃げ込む。アスマールが姫を戻す間にアズールはわら人形の姫で悪者をだます。
 夜明けに出発する二人。ジェナヌは傷口を治すガゼルの角と通信用の伝書鳩を渡す。
 山賊と闘い、悪者を倒しながら二人は進む。アズールは真紅のライオンに肉を与え、野獣の舌で話すと、ライオンはアズールを背に乗せて行く。
 岩をさわって入り口を探し、狭いトンネルを抜けると、岩山があった。アスマールは裏切った従者に捕えられていた。アズールはアスマールの助言を聞き、太陽の門の中に入る。そして、致命傷を負ったアスマールを救出、彼を背負って進む。火の門・ガスの門・鉄の門を灼熱の鍵・香りの鍵・刃の鍵(アスマールが所持)で開き、ふたつの門に着く。左の門をを選ぶと、闇の洞窟ではなく、光の洞窟だった。二人は解放したジンの妖精(声は木下菜穂子)に出会う。美しい姫だった。ジンの妖精は実はどちらも光の門なのだと説明する。行いの正しい者には光の門、そうでない者には闇の門となると。二人の行いは王子のものだった。アズールは瀕死のアスマールをジンの妖精の魔法で助けてもらう。
 いまや二人とも立派な若者となった。ジンの妖精と結婚するのはどちらか。二人は譲り合って決着がつかない。ジェナヌに決めてもらおうか、火の鳥が彼女を一瞬で運んでくる。しかし、話を聞いたジェナヌは甲乙つけがたいと判断する。それではシャムスサバ姫か、賢者か、クラプーか、誰もが甲乙つけがたいと判断する。ジンの妖精は従妹のエルフの妖精(声は本名陽子)を呼ぶ。二人の妖精と二人の王子、後はそれぞれが決めるだろう。アスマールがジンの妖精と、アズールがエルフの妖精と踊る。妖精はそれぞれ相手を選んだ。白の衣裳のエルフの妖精は赤の衣裳のアスマールを、赤の衣裳のジンの妖精は白の衣裳のアズールを。めでたし、めでたし。

          映画川柳 「異文化の 衝突のりこえ “上機嫌”」 飛蜘 

 
2009年
9月7日


DVD
最前線物語
リコンストラクション

USA(ユナイト)
2004年
(1980年原版)
163分
 ロリマー製作(この映画の公開後に倒産した)はアルドリッチの『合衆国最後の日』と同じである。サミュエル・フラー脚本・監督の傑作。実は見るのは初めて。最初の公開版も前にDVDが出たときに購入したものの見ていなかった。きちんと時間を取ってみようと思っていたら見る時間がなくなってしまったのだった。そんなわけで最初にこの163分のリコンストラクション版を見ることになってしまった。再製作版の製作は映画史家リチャード・シッケル(音声解説も担当)で、監督の許可なくカットされた約1時間を追加した。 もともと低予算の映画でスケジュールはきびしく苛酷な撮影が続いたという。

 第一次対戦下のフランス1918年。あばれ馬に銃床を折られたリー・マーヴィンは仮設本部で戦争が4時間前に終わったことを聞く。 1時間前に「撃つな。戦争は終わった」と言っていたドイツ兵をナイフで殺したばかりだったのだ。このとき敵から奪った赤い1形の布切れを起章代わりにした。 軍曹の隊はビッグ・レッド・ワン=第一歩兵師団と称される。白黒画面に記章の赤が浮かび上がる(1980年当時には技術的に不可能だった)。 シッケルの解説によると、荒れた馬は戦場で理性を無くすことの象徴で、冒頭で殺人と戦争というテーマが浮かびがある。
 第二次大戦下、1942年11月の北アフリカ戦線、アルジェリアの海浜から上陸したアメリカ軍はフランス軍に「撃つな」と呼びかける。我々は友軍だ、敵はヒットラー支配下のヴィシー政権だと訴える。現場の指揮官は迷うが、連隊長は撃てと命令して指揮官を射殺。別の兵士が連隊長を射殺。しかし倒れた連隊長が機銃の引き金を引いてしまった。戦闘が始まる。お互いに犠牲者が出る。フランス軍が降伏の合図を掲げ、ふたつの国の兵士はお互いに抱き合う。短い戦闘だったが、リー・マーヴィン率いる第1歩兵師団の若者のひとり、グリフ(マーク・ハミル)は脅えてしまい、それを恥じた。グリフ「殺人は犯せません」、軍曹「敵は動物だと思え」。
 休息しているとき、ラジオからドイツの放送局のアメリカ兵の士気を喪失させる放送が聞こえる(追加場面)。米軍と独軍の戦闘に馬に乗った仏軍が応援に来る。騎馬隊が戦車に立ち向かう。騎馬隊のアラブ人は兵士の耳を切り取っている。軍曹は耳と物の交換を禁じる(追加場面)。
 ドイツ軍のシュローダー(ジーグフリード・ラウヒ)はヒトラーを非難する仲間を射殺する。
 カスリン峠の戦闘では敗退する歩兵隊は穴を掘って隠れるがドイツ軍の戦車隊が来て、米兵の穴の上を通る。軍曹は撃たれて負傷し、隊は総崩れになる。撮影に使われたのはイスラエルに貸与された米国の戦車だった。
 チュニスの臨時病院に入院した軍曹にホモの医者がキスをする(追加場面)。負傷したシュローダーもいる。語り手であるザブ(ロバート・キャラダイン)が「12人いた兵士が、4人に減っていた」と語る。グリフ、ザブ、ヴィンチ(ボビー・ディ・チッコ)、ジョンソン(ケリー・ウォード)である。
 1943年7月シシリー島。ザブは「孤独なものだ。隣りの仲間と死体しか見えない」。手榴弾が無くなり、下の仲間から手榴弾のリレーをしてドイツ軍の陣地を爆破する。手榴弾のリレーは追加場面。
 「敵の狙撃兵を見つけるには誰かを出すことだ」。つまり囮である。ヴィンチが最初に出される。軍曹が見つけたドイツ兵に手榴弾を投げて受け取ってしまった兵士が爆死、それをヴィンチが見ていた。軍曹が「見てたな」と批判する。ヴィンチ「俺を最初に出した仕返しです」、軍曹「(次も)先に行け」。
 ザブの語り「補充兵は頼りにならない、名前を覚えないうちに戦死する、だから覚えないようにした」。第1分隊の“四銃士”という表現が、補充兵スミッティにより初めて使われる。地雷が爆発してスミッティが被害を受ける。玉が無くなった?!という場面が追加(映像が悪いがぜひ使うべき場面だと思ったとシッケル)。
 洞窟で休息する分隊。味方の戦車隊は来ない。グリフが立ちあがる。「グリフがもし脱走したら軍曹に撃たれたろう」。ドイツの戦車隊が洞窟の前を通る。洞窟に入る兵士を殺す。そのうち砲撃が止む。米国の海軍の砲撃に救われたのだ(これは実話)。
 ヴィンチが小箱の金を発見する。ロバでリヤカーを引き、母親の死骸を運ぶ少年に出会う。ヴィンチが通訳して少年から自走砲の情報を聞く。少年は母親を埋葬する棺桶を欲しがる。少年はしばらく先の、88ミリ自走砲が家に隠されている場所を教える。女たちを盾にして一見平和な田園風景に見える工作をしていた。分隊が攻撃して人々を解放すると女たちはドイツ兵の死体に憎しみの鎌を振り下ろす。
 「御馳走が山と出たが婆さんばかり。村中女だらけだった」。しかし、宴会は長続きせず、1時間後に前進命令が出た。軍曹の鉄兜に少女が花で飾りをしてくれた。
 女たちは踊り、隊は前進する。少女が軍曹にキスをしたいと言う。遠くからシュローダーが「バカげたシーンだ」と突然銃撃。少女が倒れ、隊は反撃する(追加場面)。突然次の場面につながる。シッケルによれば、クローズアップが残っていなかったと言う。
 1944年6月、艦隊で突撃番号を売ってくれ(2番)というレムチェック(ケン・キャンベル)。しかし、売る者はいない。オマハビーチ、朝。いわゆるノルマンディー上陸作戦である。スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』も同じ状況を撮影している。
 死者の時計が事の推移を表す。隊は進退きわまった。工兵隊もバズーカ砲も全滅。パイプ爆弾をつなげて使うしかない。突撃番号順に爆弾パイプをつなげていくが次々に撃たれる。グリフは8番だ。いったんは砲撃され、足が止まる。後方から軍曹が近くの鉄兜を銃撃する。グリフは前進し、爆弾を敵地に突っ込む。突破口が開かれ、連隊長にザブはE1の突破口が開かれたことを報告する。途中で内臓を露出した兵士の新しい葉巻と鉄兜を取る。連隊長は「ここにいていいのは死者ともうすぐ死ぬ者たちだけだ。さあ、海岸を出て陸で死ぬぞ」と声をかける。実際の言葉だそうだ。
 ノルマンディー上陸作戦の後、町で休息のとき、ザブは自分の小説「The Dark Deadline」が出版されていて、それを読む補充兵カイザー(ペリー・ラング)を見かける。
 シュローダーは女に体をもんでもらっている。女は傷の意味を尋ねる(追加場面)。
 フランス中部、軍曹が第一次大戦で苦い殺人を犯した場所である。木製の磔像はまだそのままだ。ドイツ軍の戦車の周囲にシュローダーはわざと兵士の死体を置き、兵士を死んだふりをして散らばらせて1個分隊をせん滅しようと計画する(追加ショットで拡大された)。第1歩兵師団のカイザーは斥候で死体の山を見て驚く。彼に続いて敵地に入った軍曹は戦車の中の死体の襟章を見て不審に思う。戦車兵じゃない、歩兵だ、これは罠だ!彼は兵士を声をあげさせずに殺し、分隊に注意を促す。連隊長の中尉に死体の状況を無線で連絡すると(軍曹の名前がポッサムだということが初めて分かる)、お前らだけで処理しろとの命令。短い戦闘で軍曹は戦車に飛び込んで戦車砲でドイツ兵を全滅させる、十字架に隠れていたシュローダーは生き残った。
 シッケルが言う「本作でもっともクレイジーなシークエンス。予想外だが、とてもいい」が続く(ショットを追加)。フランス兵のサイドカーが来る。運転していた男は傷で息を引取ったが、女は陣痛を起こしていた。傷の手当ての手際のよさからジョンソンが研修中の医師だったことが分かったので、軍曹は彼に分娩を命ずる。やったことがないと躊躇するジョンソンに軍曹は命令。コンドームを指にはめて手袋にし、チーズを包んだ布をマスク代わりにしてジョンソンは出産を補助する。女がいきまないのでなかなか赤子が出て来ない。フランス語で「いきめ」とは何だ?軍曹「プッセィだ(いきめ)」、ジョンソン「プッシー!(おまんこ)」、軍曹「違う!プッセィだってば」、ジョンソン「プッシー!」、軍曹「(あきれて)俺が言う」。無事、赤子を出産。この戦闘の手柄で彼らは勲章をもらった。十字架に隠れていた司令官は夕陽をバックに逃走。
 1944年9月、ベルギー。精神科の療養所に使われている修道院がドイツ軍の本部だ。シッケルがヘラー『キャッチー22』を連想させるシークエンスと表現(そして、『まぼろしの市街戦』だろう)。そこを襲撃する。軍曹「患者は殺すな。正常なら殺してもいい。ワルーン(シュテファーヌ・オードラン)という女が味方のスパイだ」。患者を装ったワルーンが軍曹を見て見張りのドイツ兵の喉を剃刀で切っていく。一瞬の静かな突撃で中へ入った分隊は食堂でドイツ兵との銃撃戦になる。グリフはワルーンをかばって机の下へ。患者のひとり(セルジュ・マルカン)が機銃を拾って乱射する。軍曹はその患者を“正気を名乗ったので”撃ち殺す。
 グリフはワルーンを抱かない。年上だからという。ザブがベンジャミン・フランクリンの言葉を教える。熟女とのセックスを奨励した言葉だ。その夜、ワルーンがグリフを誘うと、グリフは「俺には最後のセックスだ」と彼女を抱く(追加場面)。
 1944年10月、ドイツ。街では手持ちカメラで子供たちと兵士を撮影している通信兵(フラー本人)がいる(追加場面)。第1歩兵師団はヒュルトゲンの森で休息していた。そこへドイツ軍の砲撃。バズーカ砲を拾ってドイツの重砲を破壊する。カイザーが撃たれて死んだ。カイザーは「俺を撃った奴は死にましたか」と軍曹に聞いた。そして死んだ。
 ベルギーのホテルでの出来事(追加場面)。女主人はマーベイズ(マルタ・ヴィラロンガ、フランスのTVの大女優)。ザブは自分の書いた小説が映画化され、その金をベルギーフランに交換してくる。その金でビッグ・パーティを開こうというのだ。パーティでザブはマダムに「太った女のでかい尻を窓に押しつけ凍らせて、抱いて溶かす」というカイザーの夢を実現するように依頼する。大騒ぎのパーティ。適当なところで軍曹はお開きにする。マダムはピアノを弾き、軍曹が聞いている。そこへ若い兵士(マーク・ハミルのいとこ)が出陣を伝えてくる。
 ドイツ軍の反攻で米軍は押し戻された。バルジ大作戦の雪の森。戦車隊と歩兵をやり過ごすビッグ・レッド・ワン。
 補充兵を装って紛れ込んだドイツ兵がマダム・マーベイズの機転でバレる(追加場面)。ドイツ語で話しかけるとドイツ語で答えてしまったのだ(『大脱走』を思い出した)。軍曹は食卓をひっくっり返しドイツ兵を抑え込み、激しく怒る。兵士の死体が片づけられる。この撮影の日、マーヴィンの親友のロバート・ショウが亡くなり、彼は動揺していたという。その日の撮影は中止になった。
 ベルギーの奪還に冬中かかった。ヒトラーに米兵を通すなと言われたという市民たち(追加場面)。ヒトラーの肖像の看板を手に手に持っている(実際はイスラエル人のエキストラがドイツ人を演じている)。軍曹は「三つ数える、どかなければ(リーダーらしき)緑シャツの男を撃つ」と宣言。三つ数えて後、銃を空に向けて撃つとたちまち市民は総崩れ。
 女と休息する兵士たち(追加場面)。「戦争では人殺しが許されるんですよね」という若い兵士に、軍曹は「君主がペンを取って署名したときから、人殺しになる。それまではドイツ兵を殺しまくれ」。敗走するドイツ軍を追った。途中の城に爆弾をしかけるシュローダー(追加場面)。城の持ち主である貴族の女(クリスタ・ラング。フラーの妻)はナチスに反攻した夫を撃った気丈な女だが、シュローダーの情婦になっている。しかし、本当は大のヒトラー嫌い、あのオーストリアの田舎者がと軽蔑、シュローダーに生き残る取引を持ちかける。爆破を阻止しようとあなたを撃つ、ケガをしたあなたは戦線から離脱、わたしは城を守ると。しかし、シュローダーはヒトラーを盲信するナチス、話を聞いた後で銃を取った彼は・・・城内に銃声が響く。フラーは「いかに立派なドイツ人でもヒトラーに従った」ということを主張したかったのだとシッケルの解説が言う。
 次はカメラ・フィルムからの追加シークエンス。城(実際はアイルランドの城)からの狙撃で補充兵ストイルスキー(ダグ・ワーナー)が撃たれる。城に侵入してみると狙撃兵は子供だった。誰も子供を銃殺できない。軍曹は子供の尻を叩く。くり返し、くり返し。子供は最初は「ハイル、ヒトラー」と言っていたが最後には「パピ(パパ)」と呼ぶ。
 1945年5月、チェコ(フラーは実際にはチェコで終戦を迎えた。ファルケナウ収容所を解放した。追加ショットを加えて拡大した)、敗色が濃いドイツ軍。収容所には飢えた人々がいた。死体を焼く火葬場の焼却炉の扉をひとつずつ開いていくグリフ。骨が入っている。その隣りではドイツ兵が機銃を構えていた、しかし引き金を引いても弾は出ない。撃ち尽くしたようだ。グリフは正対するドイツ兵を撃つ、何度も何度も。銃声を聞いて傍に来た軍曹はグリフを止めない。「やれ」と言う。
 軍曹はホロコーストを目前にした少年を横抱きにして運んでいる。少年はユダヤ人なのかポーランド人なのか、まったく口を開かない。ベッド脇にあったオルゴールを聞かせるが心を開く様子がない。しかし、外へ出た軍曹に暗闇から出て少年はついてきた。渡したリンゴをかじる。軍曹の鉄兜をかぶってみて、少しだけ微笑む。“普通に戻った”のだ。オルゴールをポケットにしまい、少年を肩車した軍曹の背中で死んだ。
 解説のシッケルはこれは反戦映画ではないと言う。戦争を生き延びることを描いた映画だと。ナチズムを終わらせるのはアンチ・ヒーロー的なやり方だ。フラーは戦争ではどこでも取り残された子供を見たと証言。
 「戦争は終わった」ビラを見てシュローダーは銃を捨てる(ショットを追加)。夜、「戦争は終わった。撃つな」と近づいてきた彼をオルゴールを見つめていた軍曹は刺す。争った彼らが踏みつけてオルゴールが壊れる。若い兵士たちが来る。4時間前に停戦になりましたよ、知らなかったんだと言われて、軍曹はつぶやく。「知っていた」と。シュローダーを見たグリフが「まだ生きている」と叫ぶ。軍曹は駆け戻って、「なんとしても助けよう」と言う。
 「このドイツ兵も運良く生き残った、俺たちも。この戦記は生き残ったやつに捧げよう」とナレーターのザブが言う。「生きること(survival)が兵士の本分」。“長い物語、辛抱強い展開、偉大な映画だ”とシッケルのメッセージ。

          映画川柳 「身近な死 突然来ては 去っていく」 飛蜘 

 特典のなかの「The Real Glory」(製作秘話)で、フラーは軍曹は「死と衰えの象徴だ」と語っている。編集のブライアン・マッケンジーが再製作版のきっかけになったのはプロモーション映像に公開版にはないシークエンスやショットがたくさんあったからだという。例えば騎馬隊や手榴弾リレー、雪のなかドイツ兵が米兵と偽って侵入(再製作版でも使用されなかった場面。ズボンにシャツを入れているのはドイツ兵だと軍曹)、12歳の城の狙撃手、去勢用の地雷、戦車の中の出産、後退する四銃士、フランクリンの言葉をザブが話す、グリフとワルーン、ホモの医師といった場面が原版には無かったのだ。スタッフは具体的に再製作の苦労を話す。デジタル処理で色調を調整したり、つなぎで失われるカットを復元したりした。爆発音はすべて新しい音で、もとの音に新しい音を重ねた。その結果、音はみちがえる出来になった。
 「この映画を作った男」(製作・監督リチャード・シッケル、ナレーターはなんと!シドニー・ポラック)で、ゴダール監督の『気狂いピエロ』に映画監督役で出演していたフラーは「映画とは戦場(battle field)のようなものだ」と言う。続けて「愛、憎悪、アクション、暴力、死、つまり感動だ」と。観客の期待を裏切り、原初的な衝動と向き合わせる。それが彼の映画だ。彼の作品群、 『東京暗黒街・竹の家』・『拾った女』(1953)・『A Park Row』・『 I Shot Jessi James』・『戦火の傷跡』・『鬼軍曹ザック(The Steal Helmet)』(1950)・『折れた銃剣』(1951)・『赤い矢』・『四十挺の拳銃』・『ショック集団』(1963)・『裸のキッス』・『最前線物語』等には彼の経験が生かされている。
2009年9月5日

DVD
合衆国最後の日

USA(ヘラルド)
1977年

ノーカット版144分
 風の音が響く黒バックにタイトルが始まる。この作品は架空で実在の人物とは関係ありませんと字幕。次に、落日を背景に立つ自由の女神。 音楽はジェリー・ゴールドスミスで、ソウル歌手ビリー・プレストンが「マイ・カントリー」を歌う。 アルドリッチ監督が『ハッスル』(1975)と『クワイヤ・ボーイズ』(1977)の間に撮った作品。撮影は題材からアメリカでは困難で、ミュンヘンで行われた。 製作はマーヴ・アデルソン。
 1981年11月16日(日曜日)、ホワイトハウスではスティーブンス大統領(チャールズ・ダーニング)がヒゲを剃っていた。そこへ訪問者が来る。 一方、ミサイル基地に向かう軍の車が脱獄犯人四人に乗っとられる。テロリストのザバートを命乞いに来た教授の要請を大統領は断る。
 四人はゲートを越え基地に侵入、やたらに軍曹を殺すホクシーをデル(バート・ランカスター)は「使えない男だ」と撃ち殺す。 デルとガルヴァス(バート・ヤング)、パウエル(ポール・ウィンフィールド)の三人は発射センターへ侵入。 サリン管を斜めにしないように取り外す。信管を抜き絶縁体をはさむ。デルは「サイロ3は我々が占拠した、ミサイル9基が発射可能、 マッケンジー将軍(リチャード・ウィドマーク)を呼べ」と宣告。
 デルは空軍の将校だったので、マニュアル通りに行動する軍の動きを読んでいた。 戦争の真実を明かすように進言したデルを将軍は無実の罪をきせて投獄したのだ。ベトナム戦争時の同輩、 サイロ9の駐在員タウン大佐(リチャード・ジェッケル)との会話からはベトナムに関わることらしい。 ガルヴァスらは捕えた駐在員のカネリス中尉(モーガン・ポール)を罠にかけ発射キイの金庫を開く番号を聞き出す。
 大統領は直接サイロ3に電話、デルの要求を聞く。犯人の安全な逃走確保と身代金、大統領自身の人質、安全保障会議9759号の公開だった。 安全保障会議(国防長官をメルヴィン・ダグラス、国務長官をジョゼフ・コットン、CIA長官をリーフ・エリクソン、オルーク将軍をジェラルド・S・オルソーリン、 法務長官をウィリアム・マーシャル、ほか)はこう着状態。
 将軍は監視カメラの死角からゴールド作戦と呼ぶ突撃作戦を準備。大統領は再度デルに交渉するが文書公開は絶対に譲れない条件だという。 戦車などの動きが長く止まっていることに不審を持ったデル。実はゴールド作戦で制御室の扉の前まで原子爆弾が運び込まれていた。 作戦の一瞬のミスで警報装置が鳴り始め、デルは発射ボタンを押す。大統領は将軍に作戦の停止を命令。 捕えていた駐在員が縄を抜けて飛びかかって来た。ガルヴァスがカネリスに撃たれて死亡、デルはカネリスを射殺した。 大統領命令で発射8秒前でミサイルを停止。大統領はモンタナ行きを決意、死出の旅になるかもしれないとの覚悟を持って出発、 国防長官ガスリー(メルヴィン・ダグラス)には自分になにかあったら機密文書の公開を託した。 機密文書はベトナム戦争が米国の犠牲者を増やすことが分かっていたのに、国家の威信を保つためには継続し、虐殺も厭わないという会議を記録した内容だった。 略して「威信」文書と呼ばれている。
 大統領の行動に希望をもつデルに対し、パウエルはおめでたいなと批判する。国家の頭脳と闘っているんだ、 大統領さえ使い捨てさと。ほんものの大統領がやってきて人質となる。デルとパウエルは大統領に密着してくるくる回りながら空軍機に向かって歩いた。 将軍の配置した狙撃兵が三人、銃を構えていた。将軍の命令が狙撃兵に伝えられる。狙撃兵のリーダー、スパロウが撃てと合図、三人が倒れる。 大統領にも当たってしまったのだ。目撃していた人々は顔を被う。大統領を励ましていたオルーク将軍は大統領を抱いて泣く。大統領は国防長官ザックを呼ぶ。 「国民に伝える約束を果たしてくれるだろうな」が大統領の最期の言葉だった。
 日活発売の2枚組DVDには日本公開時のパンフレットの縮小版が付いている。DVD解説の新田隆男「ロバート・アルドリッチの描いた “最後のたそがれの輝き”」によれば、ウォルター・ウエイジャーの原作に付け加えられた部分は国家機密文書の公開要求、 そして衝撃の最後の結末だという。脚色はロナルド・M・コーエンとエドワード・ヒューブッシュ。撮影はロバート・ハウザー。

           映画川柳 「開かれた 政府へ一歩 前進を」 飛蜘 

 公開時に劇場(小田原中央劇場)で見ました。それ以来です。公開時はミサイル基地の規模の大きさが実感できず、 話についていくのもやっとだったのですが、DVDで見返すと息もつかせぬ面白さでした。
 84分のTV放映版が特典ディスクに収録されています。カット場面は最初の方の大統領と教授や将軍の会話、 サリン管の取り外しや絶縁体の設置、マッケンジー将軍が教会からポケベルで呼び戻される場面、デルとタウンの会話、 最初に奪った軍の被害者の捜査の場面、デルの罪を仕組んだ過去、首脳会談など。 
2009年9月4日


DVD
ガン・ファイター


USA(ユニバーサル)

1961年
112分

 撮影監督がアルドリッチのいつものスタッフ、バイロックでなく、『ヴェラクルス』『アパッチ』を撮ったアーネスト・ラズロ。音楽もデ・ヴォールでなくアーネスト・ゴールド。脚本は赤狩りでハリウッドを追われていたダルトン・トランボで、かなり変な話である。原題は「Last Sunset (最後の日没)」。決闘は朝、行われるので奇妙な題名である。原作が『クレイジー・ホースの日没』だったのを引きずったのであろう。DVDの解説(セルジオ石熊)によると、“カーク・ダグラスによれば、ユニヴァーサルは『引き金で語れ』『銃こそ俺の命』『俺のミドルネームは死』など、いかにもB級西部劇的な題名を次々と提案してきたが、必死で対抗し、なんとか納得できる形で『最後の日没』に収まったのだという。おかげで映画が公開されたのは完成から1年たってからだった”。
 赤狩りの影響でヨーロッパに“亡命”していたアルドリッチがユニヴァーサルに呼び戻されて、『ヴェラクルス』の二番煎じを作れと要請されて撮り上げた作品。『スパルタカス』(1960)の後でカーク・ダグラスが自分のプロダクションで制作した大作西部劇である。
 保安官ストリブリング(ロック・ハドソン)がメキシコまで追いかけて行ったお尋ね者のオマリー(カーク・ダグラス)と一緒に、酔いどれの牧場主ブリッケンリッジ(ジョセフ・コットン)の牛を連れてテキサスまで移動する羽目になる。オマリーはブリッケンリッジの肉感的な妻ベル(ドロシー・マローン)と訳ありで、1000頭もの牛を無事運び終えたらあんたの女房をもらうなどと奇妙な約束をしている。娘のメリッサ(キャロル・リンリー)は16歳、男っぽい(ワルっぽい)オマリーに魅かれ始めている。これは相当、ねじれた話になりそうだという予感がしますが・・・。
 オマリーは射程距離の短いディリンジャーを持ち、口笛を吹く癖がある。しかし、この銃のことも口笛も途中で無くなり、話にまったくからんでこないまま終わる。あれれ?オマリーの持つ銃は最後までディリンジャーだが。
 途中の町の酒場で南北戦争の南軍の将軍に祝杯をあげたブリッケンリッジは言いがかりをつけられる、お前は逃げたと。負傷していたんだ。証拠の尻を見せろ、ズボンを下せ。ベルトを外したところへ、オマリーら二人がやって来て止める。帰ろうとした三人を後ろから撃ったカウボーイを二人は倒す。ブリッケンリッジを埋葬する。早々とジョゼフ・コットンが消えてしまった。
 オマリーが撃ったジミーはストリブリングの妹の夫だった。オマリーは、ジミーは食って寝るだけのろくでなしで、お前の妹は誰とでも寝る女だったと侮辱して二人は殴り合いになる。ベルがウィンチェスター銃で止める。妹はジミーの死後、首を吊ったという。
 ならず者三人(ジャック・イーラムら)が旦那に雇われたと言って来る。彼らは女を狙っている。黄色のドレスを着た少女を忘れられないオマリーはベルに思いを打ち明ける。夜中に起こった牛の大群の間のセント・エルモの灯が美しい。翌朝、古い教会跡で、ベルはストリブリングに思いを打ち明けられる。
 先住民がしかけてくる。オマリーが一人を撃つ。ストリブリングが牛の5分の1を渡すことで和解。5分の1はオマリーの取り分だった。
 嵐が来る。途中で流砂に呑まれるストリブリング。いったんは見捨てようとするが、戻ってロープを投げるオマリー。機会到来とばかりにならず者たちは女を奪おうとする。馬車を奪われそうになって、ベルは男を撃ち殺す。馬は暴走、ストリブリングが乗り移って止める。オマリーは拉致されかかるメリッサを助ける。雨の中、馬車のなかで抱き合うベルら二人を見つめるオマリー。
 目的地を目前にして国境で野営した晩、黄色い母のドレスを着たメリッサ。靴が無いので裸足だった。カーク・ダグラスが踊りながら愛の歌“黄色いドレスの可愛い娘”(ディミトリ・ティオムキン作曲)を歌う。メリッサは国境を超えずにメキシコに残るとオマリーに告白。オマリーは躊躇するがメリッサの真剣さに打たれる。
 川を超えて牛たちが国境を超える。二人の決着は落日どきにつけようと決まる。ベルはオマリーを忘れてくれと頼むが、ストリブリングは憎んでもいないが許すわけにもいかないと態度を保留。ベルはオマリーに娘とは年が離れすぎていると言うが、オマリーは愛していると言う。ベルは「あなたの娘なの」と衝撃の告白、オマリーは「嘘だ」とベルを殴る。そのあとで、オマリーはメリッサを見つめる。永遠にあなたを愛するわというメリッサに、オマリーは俺に注いだ愛を他の人に注げと忠告する。落日だ。
 翌朝、それぞれが決闘の場所に歩く。ベルが駆け付けるが・・・銃声。オマリーの銃は空だった。こと切れたオマリーの傍に駆け付けたメリッサにフランク(ネヴィル・ブランド)がオマリーに頼まれたという紙袋を渡す。中には約束のプリムローズが入っていた。昔、黄色のドレスを着たベルが付けていたコサージュがプリムローズだったのだ。嫉妬に狂ったオマリーがむしりとったといういわくつきの花であった。

 カーク・ダグラスの黒づくめの衣裳といい、決闘場面の決着といい、まさに『ヴェラクルス』の二番煎じでした。彼はアルドリッチに“次々に注文をつけた。アルドリッチは『ガン・ファイター』について、「最高に不愉快な経験だった。最悪に始まり、最悪に終わった」と語っている。彼によれば、ダグラスは画面によく映ろうと注文ばかりつけ、一方でロック・ハドソンは演出に忠実な上にまじめな努力家だったという”。砂嵐やほこりで顔をスカーフで半分隠したり、猛然たる砂ほこりでほとんど人が見えないシーンが結構多いが、これはアルドリッチの抵抗かもしれません。それにカーク・ダグラスの激しい乗馬シーンや犬を絞めつけたりするシーンはすべてスタントマンが演じています。カットを変えて撮影していますが見え見え。当然といえば当然でしょうが。
 赤狩りの最中に非米活動委員会の主任調査官はロバート・ストリリング。ロック・ハドソンの演ずるかたくなに逮捕状を守るストリリングと一字違い。ずいぶん長い名前だが映画ではいちいち、ちゃんと名前が呼ばれる。そのたびに心ある人々はイヤな思いを甦らせただろう。メキシコへ逃げたオマリーは、実際に赤狩りでメキシコに隠れたトランボらの象徴。
 このたび発売されたDVDには日本公開時の縮小版パンフレットが付いています。

         映画川柳 「裁判に かけるつもりが なぜ決闘」飛蜘
 
2009年9月2日


DVD
攻撃

USA

1956年

108分
 アルドリッチ製作・監督の名作で、TVでニ度見たことがあります。20世紀フォックス・ホーム・エンタテインメントのMGMスタジオ・クラシックスのDVDで、2009年7月に発売されました。白黒映画。
 この作品が公開されたのはハリウッドに赤狩りが吹き荒れていた1956年で、反軍隊的作品として上映禁止となった。
 原作は実話をもとにした、ノーマン・ブルックスの舞台劇、脚本ジェームズ・ポー。撮影はジョゼフ・バイロック、音楽はフランク・デ・ヴォール。
  1944年のヨーロッパ戦線、アーヘンのトーチカを攻撃する分隊を援護せず見殺しにするクーニー大尉(エディ・アルバート)と無線で援軍を呼びかけるジョー・コスタ中尉(ジャック・パランス)。タイトル前の冒頭でストーリーの骨格が明らかになる。後はもう目が離せない。
 歩兵隊の中隊長クーニーの父親は判事で実力者、父親を喜ばせるために隊長に任命されたのだ。ハリー・ウッドラフ中尉(ウィリアム・スミザース)はクライド大佐(リー・マーヴィン)に話してクーニーを前線から外そうとするが、ジョーはクーニーと大佐は同郷のひとつ穴の仲間、無理だと判断する。大佐とポーカーをしながら突撃で優秀な同僚を失ったことを批判するコスタ。怒るクーニー。仲裁する大佐。ジョーやクーニーが席を外したところで、クーニーを変える提案をするハリーに大佐は中尉をはめこむ場所がない、そして今後、戦闘は起こらないと断言する。戦争も終わりに近い時期だ。
 ハリーはジョーに大佐との会話を伝えるがジョーは悲観的。ジョーの見方を裏付けるように前線が突破されて出動命令が出る。
 クーニー大尉はラネル占拠のため、村はずれの掘っ立て小屋を占拠し拠点にするという計画。もし敵兵がいたら援護するというが、口先だけの可能性がある。ジョーはクーニーに部下をお前のせいで失ったら、お前を生きては返さないと告げる。
 実際にジョーたちが突撃してみると町はドイ兵が隠れていて、機銃掃射で次々に撃たれてしまう。小屋にたどりついたのは、ジョーと古参のトリヴァー軍曹(バディ・イブセン)、若いリックス、冗談が絶えないバーンスタイン上等兵(ロバート・ストラウス)、スノーデン上等兵(リチャード・ジェッケル)のたった五人だった。無線で援軍を頼むが、クーニーは敵中に軍を投入することを認めない。
 地下室に隠れていたドイツ軍大尉を外に出すとドイツ兵の機銃掃射を浴びた。戦車も出動してきた。
 ジョーは撤退を決意する。ハリーに砲兵隊の援軍を依頼する。砲兵隊が砲撃するなか、次々に飛び出す兵士たち。しかし、リックスは胸を撃たれた。ジョーは最後に飛び出し、途中までリックスをおぶって運ぶが、リックスは死ぬ。
 中隊では、大佐は大尉に中隊が来るまで、1、2時間前線を死守しろと命ずる。ハリーは大尉の態度を非難するが、大尉は自分は軍隊になんか来たくなかった、父親が怖いんだ、殴られて男になれと言われたが無理だ、俺は臆病なんだと嘆く。
 死んだと思われていたジョーが戻って来た。ジョーは大尉に復讐しようとするが、ハリーは彼を止める、やつは普通の状態じゃないんだと。争う二人のもとへ、敵が攻めてきて、戦車がトリヴァーのたてこもった家を攻撃していると伝令が伝えられる。ジョーは戻って来ると言い置いて、仲間を救出に行く。ジョーは対戦車砲で戦車を一台撃退するが、二台めを撃とうとしたとき、引き金を引いても弾が出ず、戦車に腕を轢かれる。
 建物にたてこもったトリヴァーやスノーデン、足を負傷したバーンスタイン、無線兵のジャクソンらは絶対絶命。ハリー中尉やクーニー大尉も飛び込んでくる。大尉は降伏しようと出ていこうとする。そこへ入り口から入って来たのは腕をなくしたジョーだった。ジョーは最後の力をふりしぼって大尉を撃とうするが果たせず息絶える。SS(親衛隊)は負傷兵を殺すという忠告にもかかわらず、外へ出ようとする大尉を撃ったのは中尉だった。トリヴァー軍曹に犯人は俺だと証言してくれと頼むハリーに、トリヴァーは黙って大尉の体に弾を撃ち込む。他の面々も撃ち、トリヴァーはこれじゃ誰が犯人かわからない、大尉はドイツ兵に撃たれたんだと言い張る。
 援軍が到着して、地下室に大佐がやって来る。大佐は事態をのみこみ、ハリーを新しい隊長に任命し、大尉に昇格を約束、その代わりに真相を大将へのハリーの直訴をけん制する。ハリーは迷う。大佐は大尉に名誉の戦死で勲章をやろうと提案。しかし、ハリーは納得しない。大佐はハリーに賢くなれと忠告する。
 ジョーとクーニーの死体を前にハリーはジョーに教えられたと、大将へ通信するのだった。

       映画川柳 「臆病を 男らしさで 隠そうと」飛蜘  
2009年8月31日

DVD
ドニー・ダーコ


USA

2001年(日本公開2002年)

113分
 リチャード・ケリー原作・脚本・監督の傑作。藤田真男氏に薦めていただいた。
 山の夜が明ける。道路に倒れている自転車の青年。起き上がってニッコリ笑う青年がドニーである(ジェイク・ギレンホール)。タイトル「ドニー・ダーコ」が出る。マサチューセッツ州ミドルセックス。青年は自転車をこいで自宅へ帰って来る。スティディカムによる水平移動のパンが続く。アルトマン監督の『ロング・グイッドバイ』のように。そして、一瞬のスロー・モーション撮影が通常の撮影に続けられる。不思議な感覚を引き起こす映像。
 ドニーは父エディ(ホルムズ・オズボーン)、母ローズ(メアリー・マクドネル)の両親とふたりの妹と同居する高校生。しかし、上の妹エリザベス(マギー・ギレンホール)に「Fuck ass(字幕は「ゲロアマ」)」などとかなり汚い言葉を投げつけ、「Suck ass(ケツを吸え)」と言い返されている。精神科のセラピーに通い、安定剤を飲んでいて、心配する母親ローズを「bitch(ババア)」と呼び捨てる。安定剤を飲んで眠るが、真夜中に「起きろ」という声がして外に出る。声の主は外にいてはっきりしないが後でも出てくる銀色の悪魔ウサギ(仮にそう呼んでおく)だ。ドニーに「あと世界の終末まで28日6時間42分12秒」と告げる。これが1988年10月2日の出来ごと。
 目覚めるとゴルフ場でねていたドニー。帰宅すると家には真夜中に飛行機の機体の一部(エンジン部分)が落下して、ドニーの部屋はつぶされていた。一時的に一家はホテル住まいになる。
 高校の授業で英語の担当の美人教師カレン・ポメロイ(ドリュー・バリモア。製作総指揮も)はグリーンの短編「破壊者」を読ませている。転校生の少女(ジェナ・マローン)がやって来ると、教師はドニーの近くに座らせる。
 ドニーは精神科医サーマン(キャサリン・ロス)のセラピーに通っている。後で出てくる説明によるとドニーは放火したことがあり、その治療でセラピーを受けているのだ。体育の授業で生徒たちは「恐怖克服セラピー」などというつまらないビデオを見せられている。このビデオ・セラピーを主催するのはジム・カニンガム(パトリック・スウェイジ)でこの学校のいわば顧問格でもあるようだ。ジムは自己啓発および修養教育のプロであるようだ。
 10月6日、予告された世界の終末まで24日。学校の水道管が壊れて水浸しになり、ブロンズ像には斧が打ちこまれ、像の周囲には「奴らがやらせた」と落書き。警察はイタズラの犯人を探す。ドニーは高校の不良にからまれている転校生のグレッチェンを助けて話をし、つきあうきっかけを得る。サーマン医師はドニーに催眠療法を試す。女の子を話題にすると、ドニーの頭のなかはセックスのことで頭がいっぱいだ。手淫をしようとするので医師は手を打って目覚めさせる。ドニーは高校のトイレで不良のセス(アレックス・グリーンウォルド)にからまれる。
 ドニーと彼の友だち(ロナルドとショーン)から「死神オババ」と呼ばれている老婆(ペイシェンス・クリーヴランド)がいる。ぼんやりしていて自宅の前のポストをのぞきに来るので、エディは車でひきそうになる。
 事件の説明でPTA緊急集会が開かれる。集会で体育のキティ先生(ベス・グラント)はグリーンの『破壊者』を非難し、それを使った授業を非難する。翌日、彼女は感情線エクササイズの授業で「恐怖から愛へ」のラインの上ですべての行動は分類できると説明し、生徒に渡したカードの行動例を分類させる。ドニーは拾った財布を返したが中の金を抜き取ったという例について、このラインでは分類できないと答えるが、キティは回答を無理強いする。その結果・・・・両親が校長に呼ばれる羽目になる。ドニーは先生に「ラインをお前のケツにねじこめ」と言ったのだと。
 10月10日。物理学のモニトフ先生(ノア・ワイリー)がドニーの質問に答えて、タイム・トラベルの説明をし、『タイム・トラベルの哲学』を書いたロバータ・スパロウがこの高校のもと教師であったことを伝える。スパロウは死神オババだ。彼女はドニーに「生き物は孤独に死ぬ」と告げる。
 夜の居間でドニーは家族の胸から流動状の液体が飛び出したり引っ込んだりするのを目撃する。自分の胸からもその物体は飛び出す。このゲルは後でハロウィーンのパーティでも見られる。
 10月18日。ドニーとグレッチェンは二人でデートするが、キスをしようとするドニーに彼女はもっと適当な場所でと拒否する。変な男に監視されているのだ。監督のコメントによればこの男はFAAの監視員。サーマン医師はドニーの友人だというフランクが奇妙なウサギだと両親に話す。
 学校ではジムの講演会が開かれた。講演後の質疑応答でドニーはジムを侮蔑し、校長らに罰を受ける。
 ドニーとグレッチェンはホラー映画二本立て(『死霊のはらわた』『最後の誘惑』)を見る。寝入ってしまった彼女の隣りに悪魔ウサギが出現する。ドニーが仮面を取って素顔を見せろというと、フランク(ジェイムズ・デュヴァル)は面を取る。右目に傷を受けている(この傷は後でドニーが撃ったために開いたもの)。ドニーは学校でジムの身分証明書を拾い、彼の自宅を知っていた。
 地域のタレント・ショーの舞台(司会はジム)では太った中国人のシェリータの秋の踊り、その次にチア・リーダーたちの「スパークル・モーション」(音楽は「ノートリアス」)。チア・ダンスは大好評。ドニーはジムの家に石油をまいて放火した後で映画館に戻る。この消火活動でジムの部屋からは児童ポルノが発見され、ジムは逮捕される。 
 10月24日。カレンは校長に教え方が問題だと言われ、馘首される。彼女は外で「畜生!(Fuck)」と叫ぶ。ダンス・チームは地域の大会に出場できることになった。キティは自分の娘もチームの一員なのだが、ジョンの弁護のために引率をチーム・リーダー、サマンサ(デヴィー・チェイス)の母、ローズに依頼する。母は息子の部屋で悪魔ウサギの絵を見て心配する。自分が不在の間、妹に送り迎えを頼む。
 10月26日、あと4日。カレンとドニーの会話。カレンは黒板にある言語学者が選んだいちばん美しい言葉、cellardoor(地下室の扉)と書き残して去っていく。ロッカー室でシェリータにドニーは「いつかきっと君にも幸せが来る」と言う。シェリータは驚愕して逃げる。彼女が落としたノートにはドニーの名前があった。セラピーの催眠療法でドニーは「学校を水浸しにし、変態の家を焼いた」と話す。「タイムマシンを作り、タイムトラベルをする」と話す。 
 10月29日、あと1日。ドニーの妹がハーバード大学に合格。ハロウィーンのパーティを開く。グレッチェンが部屋が荒らされ、母が居なくなったとやって来る。暴力的な義父が来たのだと話す。慰めるドニーは彼女と二階の部屋で抱き合う。サーマン医師が心配で電話してくるし、母親はチームが準々決勝に進出と伝えてくるが、留守番電話だ。
 10月30日、あと6時間。ドニーはグレッチェンと仲間を連れ、死神オババのところへ行く。地下室に入る。そこへセスが襲って来る。彼女は突き飛ばされ道路に転がる。赤い車がやってきてセスたちは逃げる。車が彼女をひく。悪魔ウサギの面を持ったフランク、「道の真ん中で何をしてたんだ。バカだよ」、ドニーはフランクを撃つ。妹の車に死んだ彼女を乗せて走る。黒い雲が現れる。
 山の上で終わりの時を待つドニー。ローズたちが乗った飛行機が突然エンジンを落とす。グレッチェンの言葉が響く、「もし過去に戻れて楽しい時と交換できたらいいのに」。
 部屋で笑うドニー。突然エンジンが落下してきた。1988年10月2日に戻る。うなされ目覚めるサーマン医師、ドニーが関わった人々が寝室で休んでいる。“マッド・ワールド”の歌が流れる。翌朝、悲しむ家族の姿があった。自転車で通りがかったグレッチェンが隣家の少年に訊ねる。「(エンジンの下敷きになって死んだ人の)名前は」。少年「ドニー・ダーコ。知ってる人?」、グレッチェン「いいえ」。彼女はローズに手をふる。ローズも手をふり返す。
 ん? いったい、どういうこと。あ、そうか、パラレル・ワールドものだったのか。
 感情線エクササイズにせよ、ジムの講演に対する批判にせよ、スマーフの解釈にせよ、ドニーの批判は他の青年に比べてずっと成熟している。いったい何が彼をそうさせたのだろうか。特別、本を読んでいるわけでもないし、セラピーで表面に現れる無意識の世界にもそんな成熟を思わせるところはないのだが。あと数日で世界が終るという末期の眼を持ったからこその認識というしかない。

       映画川柳 「(監督の意図) 見た後で 考えさせる 作品を」飛蜘 

 2004年にディレクターズ・カット版がUSAとUKで公開されている。20分ほど場面が足されているという。特典にある上映時間の関係でカットせざるを得なかったというシーンが復活されたのだろう。
2009年8月13日

DVD

ドン・ジョヴァンニ

ゴーモン社
1979年(2006年)
169分
 歌劇の映像のことは別に記録しているので、ふだんは映画日記には書いていないのですが、本作はオペラ映画としては、ゼッフィレッリ監督やポネル監督の映画とともに、ジョセフ・ロージー監督の作った唯一のオペラ映画で、傑作として有名な作品です。もっとも公開当時は賛否両論があったようですが。修復で見違える出来になっていましたのでぜひ紹介したいと思います。
 ネット上の細川晋「世界映画DVD発見」(第10回)によると、“2006年5月5日に、フランスのゴーモンから発売された、限定版豪華DVD・BOX(3枚組)。ディスク1&2は、撮影監督ジェリー・フィッシャー(1926年生まれ)監修のHD修復版による本編。音声は入れ直され、ジャン=ルイ・デュカルム監修によりジャン=ポール・ルブリエがDTS96/24のドルビー2.0でエンコード。”(略述)
 ヨーロッパはDVDがリジョン2仕様なので日本でも問題なく見ることが出来ます。辛口の音楽評論家アッティラ・チャンバイが映像は素晴らしいが音がBGMに後退してると批判していましたが、修復で音は見違える出来上がりになっていました。
 英国のアマゾンukから購入しましたが、価格は2400円という安さ!ただし解説書は付属していません。
 アマゾンukのレビューによると、映画自体は素晴らしいがDVD製造工程に問題があり、ディスク2には不良品があるようです。また、英語字幕が消せない問題点とか、ディスク3の特典収録時間は短くて不要だと評するレビューアーもいます。聞いてみるとディスク2は問題がありませんでした。英語字幕が焼きこみになっているのは確かに残念です。比較的小さく、しかも最小限度に入っていますが。
 この映画はほんとによく出来ています。歌手がそれぞれ役柄にぴったりですし、衣装もロケ地も雰囲気を盛り上げます。ドン・ジョヴァンニは大邸宅を借りて住んでいる高貴な貴族で、使用人も多い。舞台ではこれほどたくさんの使用人は出てきません。厨房も広く、やはりたくさんの人が働いています。日本語字幕版はドリームライフから出ていましたが、高いし、映像と音質からしたら、外国からこのボックスを購入したほうがずっとお得です。 詳しい内容紹介は私のモーツァルトの歌劇の『ドン・ジョヴァンニ』映像紹介のページに書きました。

       映画川柳 「猟色家 エロスがモラルを 超えたとき」飛蜘
2009年8月12日

録画

天のろくろ

カナダ(アライアンス・アトランティス)
2001年
95分
 アーシュラ・K・ル=グィンの『天のろくろ』は、サンリオSF文庫で脇明子の名訳で紹介されました。一種のマッド・サイエンティストもので、フランケンシュタインに相当するのが、主人公の青年オアです。オアは夢を見ることを恐れていますが、その理由は、自分が見た夢の通りに現実が改変してしまうからです。しかも、誰も夢の前後の変化に気がつかないのです。世界を破壊してしまう夢を見ると、この世界が壊れてしまう。オアはセラピストの補助で、自発治療(ヴォランタリー・ペイシェント)を受けます。このセラピスト、ヘイバー博士がふとしたきっかけから、オアの話が真実であることに気がつきます。それはクリニックの壁にかけてあった一枚の絵でした。オアが来訪する前は山の絵だったのですが、オアが夢から覚めた後には裸の女性ゴダイバ夫人が馬に乗っている絵に変わってしまったのです。オアは絵が変わっていると指摘するのですが、博士は最初は否定します。秘書のペニー(シェリア・マッカーシー)も覚えていません。彼女の服はセクシーなものに変わっていますが、オアがそう言っても博士は信じません。しかし、オアが帰った後、博士は記憶の片隅に残っていた意識を掘り起こし、「そうだ!山の絵だった!」と気がつくのです。さあ、それからは、博士はオアの夢をなんとかコントロールして世界を自分の理想に近づけようとします。
 映画には、このヘイバー博士(ジェイムズ・カーン)がオア(ルーカス・ハース)の真実に気がつく瞬間が描かれていません。この小説でもっとも大切なところ、つまり転換点が、そこなのですが・・・・。したがって、締りのない展開になっています。オアは夢と変化した後の現実社会をなんとなく彷徨することになってしまっているのです。博士が脳波に影響を与える器械で「いい夢」を見るように指示を出します。例えば自分が有名になって景色のいいオフィスを持つ夢を見ることだったりします。オアは眠った後に現実が指示された通りに変化しているのに気がつきます。しかし、映画では博士がオアのパワーに気づいたことが描かれていないので、博士自身が改変に気づいていないように見えるのです。作者たちは(脚本アラン・シャープ、監督フィリップ・ハース)、この小説を迷路彷徨の話だと捉えているようです。その浮遊感というものが前面に出てしまっています。オアは第三者、公選弁護人の女性ヘザー(リサ・ボネット)に、プライバシーの侵害を訴え、診療の視察を依頼します。新型のウィルスの流行により人口が減少しています。原作では、これは博士の理想の実現なのですが、映画ではその点が不明瞭です。
 この物語は青年の迷路彷徨の話ではありません。真の主人公はあくまでもマッドな(それゆえ、理想主義的な)博士の方なのです。映画ではオアを自発治療から強制治療に変更しようとするあたりから、博士が夢のパワーに気づいていることが分かります。博士はオアの夢を自分の脳に投射します。ふたつの脳の機能が一致して、街では暴動が起こります。戒厳令が発令されますが、暴動は激化します。
 一方、目覚めたオアの世界では平和が保たれています。病院に行くとペニーは医師で博士が記憶を無くした患者。博士は「オア(Orr)はORか」と冗談を言う。食堂のウェイトレスはヘザーです。隣人だったり看守だったり警備員だったりして、いつもオアの傍にいるマニー(ディヴィッド・ストラットハーン)が客。彼女は、記憶を無くした博士を「今を生きているのね」と評します。「今を生きる」とは前夜、恋人だった彼女が彼に言った言葉でしたが。
 もっと勢いのある展開で、かつ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のサクラ先生のようなしっかりした理屈がないと、迷宮のなかで翻弄される主人公の分裂症的な意識は表現できません。いや、映画はオア中心のきちんとしたストーリーで、しかもヘザーとの恋愛もからんで、分裂症的な展開や崩壊感覚というものはありません。ポイントのおきかたがちがうようです。
 TVの「うる星やつら」シリーズの傑作『みじめ!愛とさすらいの母』は飛躍した展開が刺激的で優れています。あるいは、テリー・ギリアム監督の『未来世紀ブラジル』。
 押井守監督の『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』を見たときに、夢の力が現実を崩壊させる理想を語る押井監督の熱いメッセージに感動しました。当時、このアニメの批評にもル=グインの『天のろくろ』を引用しましたが、『天のろくろ』の根幹を生かした映画化としては押井さんの方が上でしょう。

     映画川柳 「壊れよ 世界 崩れよ 現実」飛蜘

【参考資料】
 藤田真男氏の私信より、“アメリカで製作されたTVムービーとは別物らしい、カナダ製のリメイク作品。脚本が『ラスト・ラン』『さすらいのカウボーイ』『ワイルド・アパッチ』のアラン・シャープ!と知って見た次第。ちょっと期待はずれのところもあったけれども。”。
 藤田氏にDVDを貸していただきました。冒頭にクラゲが出てきます。海の中を意志もなく漂うクラゲ。その浮遊感がオアの立場をよく表しています。ナレーターが「心(mind)は陸上の種が己に似た種を見出せる大洋である。しかし、心はこれら有象無象を超え、はるかに異なる世界と海を創り出すのだ」と解説。
 『崖の上のポニョ』にもたくさんのクラゲが登場しましたが、あちらのクラゲは海の豊饒さを表現していました。



2009年8月-9月に見た 日 本 映 画 (邦画)
見た日と場所 作  品        感    想     (池田博明)
2009年9月13日

DVD
じゃりん子チエ
劇場版

東宝
キティ・ミュージック
東京ムービー
1981年
110分
 監督・高畑勲、脚本・城山昇、作画監督・小田部羊一と大塚康生、キャラクターデザイン・小田部羊一、美術・山本二三、音楽・星勝。TVアニメより先に制作された劇場版です。公開当時に見ていますが、内容はすっかり忘れていました。
 テツがおジイからチエが病気だという理屈でホルモン焼の仕入れ金をせびる場面から始まりますが、これはTVアニメの第1話と同じ。セリフも同じです。劇場版を転用・拡大して、TVアニメの第1話~第3話・5話~10話になったのだった(7話~10話は見ていませんが、題名から想像して)。
 ただし、野良猫だった小鉄がチエにホルモン焼きをひと串もらう場面、チエとヨシ江が一緒に映画『ゴジラの息子』を見る場面、小鉄が瓦を手刀で割る場面はTVアニメにはなかった。
 関西お笑い芸人総出演の声優たちが圧巻。TVアニメとはチエ、テツ、巡査ミツル以外はちがっています。TVアニメの声もかなりキャラクターに合っています。中山千夏は子供らしく(?)「岸壁の母」や「北の宿から」も歌いこなして唖然とするような出来ばえです。ホンマにスゴイ。
2009年9月9日

DVD
じゃりん子チエ
TVアニメ


毎日放送
東京ムービー新社
1981年-1983年
各25分
 はるき悦巳の原作(漫画)はガンで亡くなった弟が愛読していて、最初の子供にチエと名付けたほどだった。 高畑勲監督の劇場版アニメーション(1981年)は、映画館(小田原東宝)に見に行った。難波あたりの大阪の新世界の町なみや心斎橋、道頓堀川が印象的だった記憶がある。 劇場版が好評だったため、TVアニメ化された。

 DVDの1枚目には6話が収録されている。脚本は城山昇(1-4話)・篠崎好(5話・6話)、 作画監督は才田俊次(1話・4話)・宇田川一彦(2話・3話・5話)・小田部羊一(6話)、 演出は佐々木正広(1話・4話)・武元哲(2話・6話)、横田和善(3話)、秋山勝仁(5話)、 チーフディレクターは高畑勲。キャラクター設計は小田部羊一。

 第1話「決めたれチエちゃん」、チエ(声は中山千夏)は小学生ながらホルモン焼き屋をきりもりしている。本来の経営者の父親テツ(声は西川のりお)はやくざあがり。光三の堅気屋の二階でバクチをうつのが生きがい。母親ヨシエはテツに愛想をつかし、「出て行け」と言われたのをきっかけに出て行ってしまった。チエは自称、日本一不幸な少女である、とはいうものの、まったくしおれたところはない。テツの両親、チエにとってはおバアとおジイが近くに住んでホルモン焼き屋を営んでいるが、テツはこのおバアには頭が上がらない。学校で≪大人は働いてくらしをたてる≫と学習したが、チエの家庭には当てはまらないのだ。
 第2話「テツは教育パパ!」では授業参観日を知ったテツが学校に来て、手を上げないチエをどやしつけたり、チエにあてない先生を脅したり、チエはすっかり恥をかいたと、家を出る決心をする。一方、喧嘩に強い放浪の野良猫はそろそろ喧嘩道から足を洗おうと思い始めている。
 第3話「激突!小鉄対アントン」、花一輪を目印にして母親と会うチエ。放浪の野良猫がチエの猫になり、チエは小鉄と命名する。光三がテツの借金を取りに来るが光三の愛猫アントニオが小鉄と喧嘩。アントンは負けて飼い主もろとも退散。
 第4話「テツの薬はゴロンバー」、大晦日。水かけ不動で裸で水をかけてもらい金を取ろうとしたテツは風邪をひいてしまう。熱にうなされ、チエやヨシエの名前を呼ぶテツに同情しておバアとおジイはヨシエに再会させようとするも、ちょっと熱が下がって仲間とバクチをしているテツに怒るおバア。
 第5話「おバアのテツ救出作戦」、テツの仕事を探すチエ。光三はお好み焼屋に転換していた。アントニオは小鉄に負けてキンタマを1個取られ闘志をなくし犬にかみ殺されたという。剥製になっていた。テツをお好み焼き屋のやくざよけに雇ってもらうチエ。もと遊興倶楽部の四人組がテツに意趣返しをして、おバアに身代金を要求して来る。おバアは実はものすごく強い。アっという間に四人を殴り倒す。
 第6話「テツと運動靴とマラソン」、縁日で寅さんがタンカバイをしている。テツは縁日でチエとヨシエが会っているのを見て嫉妬する。すねて家出してみたもののさびしい。チエがゲタをはいて走って昨年のマラソン大会で三位だったと聞いて、テツはチエに運動靴を買って与える。その靴でダントツ一位になるチエ、夕食を作ってテツを待つチエ。疲れて眠ってしまう。その頃、テツはチエにペースが早すぎると助言して警察官の自転車を奪って追跡、途中で電柱に衝突して気を失い、留置所にいた。

       映画川柳 「じゃりん子よ 親はなくとも 子は育つ」飛蜘
2009年9月9日


DVD
長崎犯科帳

日本テレビ
1975年
各45分
 ユニオン映画の製作により、日本テレビ系列で1975年4月6日から同年9月28日の間に放送された全26話の時代劇。 全体のストーリー作成は池田一朗が手がけたようである。森崎東監督が3回ほど演出した。幕末の長崎を舞台に法の裁きとは別に人々の恨みを晴らす闇奉行が存在したという ≪必殺≫ドラマで、長崎奉行・平松忠四郎役をを萬屋錦之助が演じる。その後、森崎作品を多く企画する梅谷茂の企画。。
 ≪闇≫の裁き人は奉行のほか、 丸山遊郭の客引き三次(火野正平)、蘭法医・木暮良純(田中邦衛)、良純といい仲の居酒屋「せいろむ(象のこと)」の女将・おぎん(磯村みどり)、短刀を使うお文(杉本美樹)。
  レギュラー・メンバーは同心・加田宇太郎(新克利) 、通詞・一馬(太田博之)、同心・三島与五郎(御木本伸介)。ナレーター・城達也の「空に真っ赤な雲の色、梁に真っ赤な酒の色、なんでこの身が悲しかろ」と始まる。

 第3回「彼奴は医者か殺し屋か」(脚本・下飯坂菊馬、監督・大洲斉)。丸山遊郭で奉行を接待し、カスティラと称して賄賂を贈る商人たち。上海丸の船底に更紗を隠しての密輸を企んでいる。中心は音羽屋徳兵衛(横森久)。引田屋甚右衛門(香川良介)は密輸仲間に入らず、秘密を知ったために殺される危険が迫る。胸の病気の源七の娘・お美代は女郎に身売りし、いまや美里(佐野厚子)と名乗っていた。与八にいれあげて騙され、朝鮮人参持ちだしの手札を唐人屋敷から持ちだそうとするが与力に発見され仕置きを受けることに。奉行は百叩きの刑に処する。が、引田屋が孝行娘が父親の病気を治したい一心でしたことと弁護し、刑を身代わりに引き受けると申し立てる。奉行は百叩きを一叩きに変えて処罰する。暗闇に乗じて引田屋の暗殺に与八らが来る。引田屋は殺されてしまったが与八は三次が刺す。白頭巾をかぶった奉行が悪人を呼び出し成敗する。しかし、お美代の父は死んだ。救えない生命。良純は自分を責める。監督の大洲斉には松田優作主演の異色時代劇『ひとごろし』がある。『長崎犯科帳』をかなりたくさん演出しています。

 第6回「虎の罠を噛み破れ」(1975年5月11日放送、脚本・池田一朗、監督・森崎東)。撮影は伊佐山巌。白頭巾が斬った町年寄りの葬式(葬連)で闇奉行退治を請け負った商人・要屋(竜崎勝)は、闇奉行を引き出す罠をしかけようとする。裏事情に詳しい岡っ引き・佐吉(浅若芳太郎)の女房・子供を短銃で流れ者・松造(郷鍈治)に殺させる。捕り方は騒然となるが、黒頭巾をかぶった奉行に凧で呼び出された良純は、手口が派手すぎる、罠かもしれないと助言を受ける。盗み聞きをしていた熊吉を射殺。奉行所を見張っていた熊吉の消息不明で奉行所に仕掛け人がいると推測した要屋は第二の罠に進む。短銃を持った男を見たというタレ込みを相模屋(坂本長利)にさせて、でもぐら長屋で大捕り物。捕り方や野次馬の男女を無差別に撃った松造に奉行は獄門の沙汰を下すが、松造は不敵に笑う。笑いを気にしていた奉行の耳に松造脱獄の知らせが入った。  
 最後の罠は銃のせり市におびき出すことだ。せり市の情報を得た三次は良純に市に参加し銃をせり落として来いと言われる。しかし、新参ものだったので、捕えられて水責めに会う。せいろむへ来て、焦る良純を止める奉行、しかし、良純は耳を貸さない。相模屋へ乗りこむお文と良純。しかし、あえなく捕まって水責めに会ってしまう。
 相模屋から要屋への移動のときにも何も起こらなかった。納屋に閉じ込められたお文と良純は縄抜け、三次も縄をほどかれる。奉行が加勢に来て、最後の大立ち回り。出演者h他に森みつる、中島正二など。
 森崎作品らしいところは・・・特にない。松造のむやみに短銃を撃つ“狂った”精神が興味深い。

 第23回「風の噂の孫七郎」(1975年9月7日放送、脚本・猪又憲吾、監督・森崎東)。佳作である。
 二十年前に商売がたき西国屋の謀事で磔になった十文字屋の遺児・孫七郎の噂が長崎の町でささやかれる。彦太(大門正明)は西国屋の瓦をはがしたり、自分が孫七郎だと宣言したりして噂に拍車をかける。西国屋の番頭が斬られていく。奉行は良純に孫七郎に会って「本当に海の向こうからやってきたのか」と聞いてくれと頼む。お文は二番番頭が斬られる現場を見た。頭巾で顔を隠した眼光鋭い男だった。三次はもと西国屋の下男だった彦太が、妾を嫌がった女中おなか(野村けい子)を西国屋・長兵衛(須藤健)と一番番頭の徳助(山本清)が殺した恨みをはらそうとしていることを聞く。長兵衛は用心棒を探すよう徳助に依頼、しかし徳助が連れてきた用心棒の溝口(浜田晃)こそ、孫七郎を騙る浪人ものだった。それまで一のつく日に孫七郎を登場させてきた二人は警戒の裏をかいて七の日に長兵衛殺しを計画する。七の日の晩、溝口は長兵衛を斬り、徳助にもひと太刀浴びせて逃げる。逃走の途中で良純に会う。良純は件の質問をするが男はもちろん答えない。争った良純は相手が相当の剣の使い手だと感じる。腰を痛めてしまった。徳助が西国屋の主人に収まったので三次は不審に思う。彦太は孫七郎ニセモノ説を信じない。一方、奉行は密かに十文字屋の子守おきくを探しだし、真相を聞いていた。良純・お文・三次・彦太はおきくに確かめにいく。生き証人のおきく(牧よし子)は海にさらわれた孫七郎は死んだと証言し、無縁仏の墓の下から位牌を取りだす。それでも信じない彦太。三人が説得しようと油断している隙に、おきくは溝口によって崖から突き落とされてしまう。
 おきくの為にも徳助の陰謀を暴こうとする良純たち。一方、彦太は留守番を言いつけられている間に頭巾を縫い、刀を盗んでひとりで西国屋に殴りこみ。溝口に斬られて息を引き取る彦太の目に映ったのは白頭巾の男が徳助や溝口を成敗する姿だった。彦太が「あんたは誰だ?」と聞くと、男が答える。「十文字屋孫七郎だ」と。彦太は微笑んで死んでいった。修羅場を去る奉行と良純はお互い声もかけない。おぎんがこの回も次の回も登場しない。
 
 第24回「悪い奴らをあぶり出せ」(1975年9月14日放送、脚本・池田一朗、監督・森崎東)
 白昼、油問屋・山城屋(庄司永建)の若旦那が射殺される。下手人は虎松(潮健志)一家のもの。背後で糸を引いているのはもう一軒の油問屋・赤松屋(内田稔)だ。山城屋の鬼熊一家の熊吉(高杉玄)は入荷してくる油をひっくり返す報復措置に出る。暴力団同士が争う“仁義なき戦い”である。山城屋は油が無くなったと喧伝、値の上がるのを待つ。町には灯りの油もない。庶民は困ってしまった。良純のもとに女郎・小春が盲腸炎で運び込まれる。丸山遊廓は赤々と点燈しているが、灯りが不足する中、良純の手術は失敗、小春は死んでしまった。
 金持ち同士の喧嘩は放っておけという奉行の判断に怒る良純は奉行所前で無料の油を配るという風聞を流す。奉行は仲間だ主張する三次と自分だって信じられない時勢だという良純は大喧嘩。
 奉行は油問屋ふたりを呼ぶ。ふたりは在庫がないの一点張り。奉行は蔵を改めるがいいか、と確認。さらにもし油が見つかったらそれは両人のものではないことを確認する。
 鬼熊と虎松の争いが続く。争いの下手人に双方が一人を出す。奉行は虎松と鬼熊も白州へ呼びだし、騒ぎの代人には引き回し・獄門の刑を、監督の虎松らには謹慎を申し渡す。
 奉行は同心に隠し油を見つけるよう厳命。オランダ屋敷と唐人屋敷も捜査する。一方、油問屋の争いには仲裁人の頭取(見明凡太朗)が口利きに入り、手打ちの段取りが進む。お互い兵隊を集めて出入り。町人が巻き添えになって死亡。良純は怒って、ひとりで手打ちの式に殴りこむと意気巻く。
 その夜、唐人屋敷で遊ぶ奉行は隠してあった百樽の油の一部に火をつける。手打ち式を途中で中断した油問屋は手勢を油樽の運び出しに注ぐ。町方は運び出された樽を押収、同心たちは「これではまるで我々は火事場泥棒ではないか」と思いながらも奉行の大胆不敵な計画に感心。
 手勢の減った両問屋たちに裁き人たちが襲いかかる。危ないところで奉行も加勢に来る。やはり仲間だ、来てくれたと喜ぶ三次に、良純は一番大変なところに来ずに、楽になってから来てカッコつけやがってと不平をぶつけ、唐人屋敷が都合よく火事になってくれたからいいがと言う。お文が奉行の腕のひどい火傷に気づく火事を起こしたのは奉行だったのかと理解する良純、奉行は微笑む。
 三次と良純がお互い悪口を歌で言い合うシーンが森崎さんらしい。三次は良純・田中邦衛を「青大将め!」と非難するがこれってアドリブだろうか? 殺陣シーン、アクション・シーンも秀逸。

 第26話「さらば長崎また来るぜ」(1975年9月21日放送、脚本・池田一朗、監督・渡邊祐介)で長崎奉行は江戸に帰る日が近づく。当時の長崎奉行は一年ごとに江戸と交代。この一年で闇奉行の手にかかって町年寄20人が殺された。町年寄・加賀屋(川合伸旺)は奉行への注進に反対する。奉行に想いを寄せる江戸の芸者お夕(佐野厚子)は加賀屋の言うことを聞かず、地元の芸者に折檻されそうになる。置き屋の元締・太郎佐(梅津栄)は眠り薬を飲ませて唐人に芸者を売り飛ばす。裁き人たちがご公儀の船ぐらに隠した女郎衆を解放する。芸者たちは江戸へ帰る、奉行も。「一年たったらまた来る」という言葉を残して。

     映画川柳 「指パッチン 仲間の合図の 音がする」飛蜘  
2009年9月6日


DVD
ホーホケキョ
となりの山田くん


スタジオジブリ
1999年
104分
 いしいひさいちの四コマ漫画を長編アニメーションにするという挑戦的な企画。 脚本・監督は高畑勲。演出は田辺修と百瀬義行。
 のほほんとした家族の日常が描かれます。最後の方に登場するののちゃんの小学校の担任の先生、藤原先生の書き初めの言葉、 「適当」が全篇をいろどっており、その辺りの世界観に共感できるかどうかが、見る人を選ぶ作品だと思います。 ペンギニストの私はもちろんとても面白く見ることができました。藤原先生の声を演じている矢野顕子がつけた音楽も挿入歌も主題歌も雰囲気を盛り上げていて、絶品。
 いくつかのエピソードに挿入される芭蕉や蕪村、山頭火の俳句も(たぶん高畑勲の才気によるものでしょうが)、 適切に配置されていて「おかしみ」を誘います。俳句の世界で重要視される「諧謔」の精神が横溢しています。 挿入されているハナ肇とクレイジー・キャッツの歌(作詞・青島幸男、作曲・萩原哲晶)、 「だまって俺についてこい」(金のない奴ぁ、俺んとこへ来い、俺もないけど心配すんな)がピッタリ。
 シンプルな線が動き出す、ノーマン・マクラレンの短編アニメをお手本にしたようなアニメーションは大変生き生きとしています。
 映画を見た後で家族で「うちでもあった」思い出話に花が咲きそうな、そんな気がします。

     映画川柳 「しかたない しょうがないけど 青い空」飛蜘 

【参考資料】 高畑勲『漫画映画の志』(2007年、岩波書店)より、

 “わたしは日本の長編アニメ映画の傾向に逆らっていしいひさいち氏原作の『ホーホケキョ となりの山田くん』を大真面目につくり、リアリティは捨てないけれど、簡素なスタイルによって見かけ上の≪本当らしさ≫は捨て去りました。笑う、ということも、少し引いたところから見るのでなければ不可能なことだからです。ちなみに、過去、『カリオストロの城』など、笑わせることを得意としていた宮崎氏の『千と千尋の神隠し』で、あれほど奇想天外なものが次から次へと出てくるのに、劇場で笑う人はほとんどいませんでした。すっかり千尋と一体化してドキドキしながら見るようにできているからです。笑う余裕など与えられていないのです。むろん、それに問題があるどころか、逆に驚くべきことで、奇想天外なものがリアルな心理的存在感をもって心に迫ってくること自体、宮崎氏の才能と力量の大きさをよくあらわしているわけです。けれどもそれが、同時に、日本のアニメーション映画のひとつの傾向の到達点をはっきりと示していたこともたしかです。
 その傾向とは、主人公の置かれた状況を客観的に示すことなく、観客を主人公についていくしかないところに追い込む傾向のことです。主人公の見る視野でしか世界を見ることができないので、主人公と同じようにドキドキしっぱなしになるけれど、その世界の仕組みがどうなっているかは知らされない。観客は判断力を封じられ、「我を忘れる」しかなく、主人公の行動を状況に照らして批判的に見たり、その行動にハラハラすることはできないのです。・・・現実の世の中で、状況を判断しながら強く賢く生きていくうえでのイメージトレーニングにはほとんど役に立たないのではないでしょうか。”
2009年9月5日


DVD
おもひでぽろぽろ

スタジオジブリ・東宝
1991年
119分
 いちどTV放映版を見たことがあります。 『崖の上のポニョ』を見てから、ひょっとするとこれまでの宮崎作品や高畑作品を見誤っているのではないかと思い始めて再見してみようと思ったのです。

 脚本・監督は高畑勲。サティの曲を思わせる主題曲、音楽は星勝。原作には10歳のころのエピソードしかありませんが、 このアニメは27歳の岡島タエ子が、姉の夫の山形の実家に農業の手伝いに行き、農作業をする合間にときどき10歳の頃の思い出が甦るといった構成になっています。 10歳のワタシと一緒に旅をしたという設定。

 昭和41年に小学校5年生ということは昭和30年か31年生まれ。小学校時代の思い出場面はハイキーの白っぽい色彩。 時代の要素も巧みに取り入れられ、憧れの少年と対話して空に舞い上がる場面には「おはなはん」のテーマが流れます。 学校の劇でちょっとした演技が注目され、日大演劇部から声をかけられるシークエンスではタエ子はTV『ひょっこりひょうたん島』に夢中、 TV画面ではドン・ガバチョやトラヒゲの演技や歌が再現されています(故・藤村有弘や熊倉一雄が協力しています)。

 山形の実家は山形駅(現在の駅ではなく平成元年ごろの駅)から行きは車で移動しますが、 帰りは高瀬駅から電車に乗っています。高瀬駅は仙台と山形を結ぶ仙山線で山寺駅の隣りの駅、山形市のもっとも天童市寄りのあたりです。 タエ子は本家の息子トシオの指導で、紅花摘みや花餅(紅花から染料を作る行程のひとつ)作り、田植え、トラクターの運転、りんごの袋かけなどを手伝います。 紅花はとげの柔らかい早朝に摘むのがいいなど、かなり詳しい取材をもとに脚本が書かれています。 顔の筋肉の動きにこだわったという高畑監督や近藤喜文作画監督の丁寧な絵作りが素晴らしい。紅花栽培の実際を指導した井上さんは天童市の西の河北町の方です。

 10歳の頃の思い出はどのエピソードもほほえましいもので、タエ子をとりまく小学校時代の友人たちもそれらしい。 学級会の様子なども抱腹絶倒ものです。たしかにあんな感じだったなあ。私は小学校の児童総会で運動会にはみんなおにぎりを持ってくるようにしましょう、 お寿司なんか持ってきたらいけませんなんて議論した経験があります。私は別になにを持ってきてもいいじゃないか (うちはいつもおにぎりだったけれども)と強く主張したのですが、不公平になるという絶対おにぎり派に負けました。 他人がお寿司を持ってきたって他人のお弁当なんか別にうらやましくなんかないよという信条は母の教育方針だったのです。 夢想しがちな少年だったもので、他人のお弁当のなかみなんか関心が無かった。
 算数の分数の割り算にこだわって3分の2を4分の1で割るってどういうことかを具体的に考えるところも可笑しい。 年の近い八重子ねえさんはタエ子の頭はどうかしちゃったんじゃないかと心配し、 小さい頃に頭を打ったのが今頃影響が出てきたんじゃないかと言います。八重子ねえさんのエナメルのハンドバッグにこだわってお出かけしない!と言ったり、 突然さびしくなり気が変わって靴をはかずに飛び出して父親に頬を張られるエピソードも痛切。
 本家のおばあちゃんから突然トシオの嫁に来てくれと言われ、うろたえてしまうタエ子。 まねごとの農作業をしているだけで、腰がすわっておらず、なんの覚悟もできていない自分と向き合います。 転校生で汚なかったアベ君のことを思い出します。タエ子の隣りの席につかされたアベ君はいつもタエ子に強がってみせていました。 夏休み直前にまた転校していってしまったのですが、クラスのみんなと握手することを担任から強制された アベ君は最後にタエ子にだけは「お前とは握手してやんねえヨ」と拒否したのです。タエ子はいちばんアベ君をいやがっていたのは自分だったんだ、 そのことを見透かされた、あたしはいい子ぶってたのと反省しますが・・・・話を聞いたトシオは男の子が分かってないなあと批評。 アベ君はタエ子さんにはホンネが出せたんですよと解釈します。これは正しい。
 今井美樹(27歳のタエ子)と柳葉敏郎(トシオ)はプレスコ録音。エンド・タイトルが終わるまでドラマは続きます。

     映画川柳「体育を 休むべきかで 悩める娘」飛蛛 

【参考資料】 高畑勲『漫画映画の志』(2007年、岩波書店)より、

 “観客を完全に作品世界に没入させるのではなく、少し引いたところから観客が人物や世界を見つめ、「我を忘れ」ないで、考えることができるような工夫をしてきたつもりではいたのです。ドキドキさせるだけでなく、客観的に状況を示し、ハラハラもさせたい。場合によっては主人公を批判的にも見てもらいたい。そしてグリモーに会った直後から制作を始めた『平成狸合戦ぽんぽこ』では、はっきりとそういうことを意識してつくりました。”
2009年9月2日


DVD
火垂るの墓

完全版

新潮社
1988年
88分
 野坂昭如原作の名篇を高畑勲が脚本・監督した傑作。 『となりのトトロ』と二本立て上映だった。しかし、その段階では『火垂るの墓』は未完成。色が塗っていない場面があったと思います。
 焼夷弾による火災の様子や焼け跡の情景、当時の庶民の暮らしの様子、自然描写、4歳児のセツコの仕草など、 どこをとっても非の打ちどころのない作品である。アメリカ版のDVDに付された映画評論家ロジャー・イーバートは、 実写でなく、アニメで表現したことによって純度が保たれた、水彩画風の描き方も素晴らしいと評している。

 物語は単純。昭和20年の夏、神戸の空襲で母親を失ってしまった14歳の清太と4歳の節子の兄妹は、 おばの家に寄宿するも、戦時下、食い扶持が増えるのを疎んぜられ、二人だけで池の近くの防空壕で生活することにする。 敗戦になり、父の所属する連合艦隊も滅びたらしい。幼い節子は栄養失調から来る機能不全で衰弱死、清太も9月に栄養失調で野垂れ死にしてしまう。

 高畑勲は、「兄と妹の二人がどう生きたのかを描く映画だ。清太はある意味で現代っ子に似ている。 お金(母親の貯金)があればなんとかなると思ってしまった。あの当時、お金はなんにもならなかった。 清太にはおばさんと折り合いをつけて頭を下げてでもやっていくという選択ができなかった。 日本では清太に同情的な人が多かったのは意外だった」と言う。節子の声が秀逸だが、これは5歳の白石綾乃ちゃんの声をプレスコで取ったもの(音響監督・浦上靖夫)。 声に合わせて動画を描き直したのだ。キャラクターを故・近藤喜文、絵コンテ清書は百瀬義行が担当。 高畑はカット割りはするが絵は描かないという。かなりこまかい色指定をすることで知られている色彩設計の保田道世は「故意に彩度を落とした。 微妙な色の絵具を絵具の技術の人が作ってくれた」と証言。「野坂自身が現地を案内してくれた。色彩にはかなり神経を使った」(レイアウトの山本二三)という。 間宮芳生の音楽もさりげなく使用されているが大傑作。

     映画川柳「夜泣きする 母のない娘を 背負いては」飛蛛
2009年9月1日

NHK総合

22:50~
爆問学問

台本のない音楽会

NHK
40分
 爆笑問題のニッポンの学問。坂本龍一が紹介する音楽、時代や国の境を超えて・・・:13世紀の宗教曲、アフリカの音楽、アイヌの「鶴の舞」、「花」、ジョン・ケージ「4分33秒」、ボブ・マリー、相対性理論「テレ東」、「Still Life」。坂本龍一は歌詞はあまり耳に入って来ないという。彼の言うことには、“ごく限られた聴衆しかいない現代音楽の作曲は意外に簡単、人に理解してもらえる感情をこめる音作りが難しい、赤ちゃんに母親が話しかける声は自然と歌になっている、未分化の状態が音の原点かもしれない、9・11のとき、ニューヨークから音が消えた、ほんとうに打ちのめされたとき、音楽は出て来ない、78時間くらいたって外で聞いたのはギター伴奏の「yesterday」だった。仕事をし始めて「音で体が溶かされる」感覚を味わった。”。
 田中の紹介した曲は黛ジュン「天使の誘惑」と「グリース」の中の曲。太田の曲はミリ・ヴァーノンの「Spring is here」とサザンの「彩~Aya」。最後に『戦場のメリー・クリスマス』のテーマ曲「メリー・クリスマス、ミスター・ローレンス」をピアノで弾く。

     映画川柳「音楽は 聞く人によって 見い出さる」飛蛛
 
 池田小百合が坂本龍一プロデュースによるCD「にほんのうた」に歌の解説で協力しています。
2009年9月1日


DVD

小原庄助さん

新東宝
1949年
90分

 戦後の清水宏の代表作。製作は岸松雄、脚本は清水宏・岸松雄、撮影・鈴木博、照明・石井長四郎、録音・中井喜八郎、美術・下川河原友雄、助監督・内川清一郎、編集・笠間秀敏、音楽・古関裕而、製作主任・金巻博司。タイトル・バックに赤坂小梅の「小原庄助さん」の歌。杉本佐平太の家を聞いても分からないが、小原庄助さんといえばだれでも知っているとの字幕が出る。あだ名で呼ばれているらしい。大きな家で杉本佐平太の表札。佐平太(大河内伝次郎)が朝風呂に入っている。妻おのぶ(風見章子)が朝酒を準備している。女中(飯田蝶子)が働く。以下、佐平太を庄助さんと表する。
 野球のユニフォームを寄付した庄助さん、ユニフォームを着て投手をやるが、打った球が急所に当たり・・・。
 寄付購入したミシンが家に入る。洋裁の先生、マーガレット中田(清川虹子)が挨拶に来るが、庄助さんは応対が苦手だ。早々にロバに乗って散歩に出かける。ロバに乗る大柄な大河内伝次郎のまったりした像がこの映画を象徴している。
 金融業者・紺野(田中春男)が借金の取り立てに来る。けれども払える現金が無い。妻にヘソクリの無心をするが、既に出し切った後で、まったくお金が無い。人のいい庄助さんは金が無いのに人に寄付したり、購入したりしているのだ。
 村を出てコールガールになっているおりつ(宮川玲子)の説得に出かけたり、ヒモの小六(鳥羽陽之助)を相手にしたりと≪なんでも屋≫の庄助さんである。
 ヒモに連れられてダンスホールで戸惑う庄助さん。
 27回目の仲人をつとめる夫婦二人。借金の算段を女中に相談するおのぶ。かなり家計がひっ迫している。
 村長選挙に出るので応援してほしいと、吉田次郎正(日守新一)が話す。吉田は農村にダンスやのど自慢などの新文化を持ち込もうとしているが、家柄のいい庄助さんに立候補されると困るので、あらかじめ牽制してきたのだ。吉田は料亭の店のものに酒はもういらないと言うが、庄助さんは自分のツケにしろと陰で言っていて、どんどん持って来させる。
 部落の衆は庄助さんに村長に立候補してほしいと頼みに来る。しかし、庄助さんは既に立たないと約束してしまったので、偶然来た和尚・月岡海空(清川荘司)にその役割をふる。女中は旦那さんが村長さんになると喜んでいたのだが。
 選挙の結果、吉田が当選。祝賀会に呼ばれるが、庄助さんは村の有志で和尚の残念会を企画していてそちらへ出ると断る。意気の上がらない残念会だ。翌日、庄助さんは和尚に「おめでとう」を言う、吉田が選挙違反で逮捕されたのだ。庄助さんの家には借金とりが来て、ロバだけ先に返すものの、家で待ち伏せしている借金取りにつかまってしまう。家柄を示す財産を全部売り払って金を作る決心をする。すっかり空っぽになった家。女中は大旦那のころから務めていたのにとうとう身上をつぶしてしまったと旦那を批判する。
 村の衆が家柄の紋のある品物を道具屋に売るより良いだろうと競売にする提案に来る。庄助さんは和尚に一任する。競売の日、妻の兄(坪井哲)が「(亭主は)あい変わらず料理屋で飲んでいる。料理屋で紀伊国屋文左衛門をきめこんでいる」と亭主を非難する。
 料理屋で赤坂小梅が酌をしながら小原庄助さんの歌を歌う。借金取りが来て、奥さんがお兄さんに連れていかれましたよと報告、さすがの庄助さんもショックを受ける。 
 残した本を村の衆にあげ、ロバを少年たちにあげる。その夜、泥棒が入る、庄助さんは二人を投げ飛ばした後、酒をおごって、家柄にこだわり見栄を張って、小原庄助さんとおだてられ、散財して身上をつぶしたと話をする。
 すっかり身軽になった庄助さん、一番列車に乗ろうと歩く。彼を追って妻の姿があった。庄助さんは妻に声をかける。

      映画川柳「善人の 夫を見限る 妻でなく」飛蛛
2009年9月1日


DVD
平成狸合戦ぽんぽこ


スタジオジブリ・東宝
1994年

119分
 多摩丘陵の宅地開発で住むところを失うタヌキたちがそろって抵抗をくり広げる。 化学復興(化学ではなくバケ学と呼び、タヌキがいろんなものに化ける術のこと)、人間研究を合言葉に皮肉な、 そして辛口の物語が展開する。
 宮崎駿企画、高畑勲原作・脚本・監督のアニメーション。予告篇だけで本篇を見ていませんでした。
 瞬間的に変化(へんげ)するタヌキが印象深い。秋や春の自然、花、植物が細密画で描かれる。タヌキのキンタマが大活躍します。開発を阻止するために、お化けに変化して怪異現象を起こしているうちにそれ自体が面白くなってしまうタヌキのやや間抜けなキャラクターがいい。
 四国の長老たちの協力を得た妖怪大作戦も新興アミューズメント施設、ワンダーランドのPRイベントだと言い張る人間との抗争は、権太らの機動隊との暴力対決での玉砕を経て、タヌキ側の敗北に終わります。最後にタヌキたちが全エネルギーを使って現出させる里山風景は高度経済成長以前の日本の里山風景、つまり『となりのトトロ』の世界です。住民は懐かしい思い出の人々をその風景のなかに発見し、会ったりします。これは、ブラッドベリの名作『火星年代記』の換骨奪胎でした。
 また、ぽんぽこ年号によるタヌキたちの闘争年代記は(クライマックスがぽんぽこ33年の秋と設定されている)、三里塚闘争のアナロジーでもあります。
 タヌキたちは開発を阻止することはできませんでした。変化術をマスターしたタヌキはキツネ同様、人間に化けて人間として暮らしています。変化できないタヌキたちは人間社会の片隅でほそぼそと生きています。このタヌキ=三里塚の農民たちは都会のなかでタヌキ祭りの夢を見ます。

        映画川柳「たぬきそば たぬきねいり たぬきばやし」飛蛛 
2009年8月14日

録画
(時代劇専門チャンネル。2009年5月)
座頭市物語・忘れじの花

勝プロ、フジテレビ
1974年
45分
 TV版「座頭市物語」第8話。脚本は奥村利夫(カツシンのこと)・東條正年、監督・勝新太郎、撮影・森田富士郎。
忘れじの花  暑い夏である。河原で顔を洗った市だったが、汗がふき出る。女郎のお菊(十朱幸代)が赤い帯を樹にかけて首をつろうとしている。 市は女郎を助けるが、大芝一家のやくざが女郎を連れに来る。市は後ろから石を投げつける。向かって来たやくざ四、五人を斬り捨てる。 市は大芝辰蔵(鈴木康弘)から年季奉公の証文を奪い返す。
 お菊はもう男はこりごり・・・江戸住まいで、問屋の若旦那と駆け落ちした、若旦那は竜宮城へ連れてってくれたが・・・ 亀に乗るどころか、こっちが浦島さんに乗られちゃって・・・と身の上話。
 「ひどい霧でなんにも見えやしない」とお菊が嘆くと、市は「見えないところへくりゃ、こっちのもんだ」と お菊の手を取ったまではよかったが、市が一歩踏み出した先は崖だった。けれども、崖下へ落ちた市はうす紫の菊を取って上がって来る。 「あんたと同じ名前の花だ」と。お菊は「三味線がひける」と言う。
 場面変わって、宿場はずれの一軒家である。おばあさん(武智豊子!)が出迎える。・・・風呂に入っているお菊。 市も風呂場で三味線の音を聞く。哀しい音である。その夜、市とお菊は連れ立って、町へ出る。市はあんま、お菊は三味線の門つけ。 お菊は「どっちが先になってもこの柳の下で待っていようね」と約束する。そのうち、お菊にも声がかかる。 飲み屋でもみ療治中の市の耳にも、お菊の小唄が聞こえてくる。
 この宿場をあずかる親分・松三(高木均)は、お菊に誰のゆるしを得て商売しているのかと難癖をつけるものの、いいんだいいんだと寛容なところを見せ、 一分の祝儀をはずむ。高木均のいやらしさ演技が光る。柳の下で待ち合わせる市とお菊。ふと見上げると、満天の星である。 お菊「・・・きれい。・・・(市に)ごめん」。
 翌日は畑で、芋を掘る市とお菊と婆さん。芋に子がいっぱいついていると意味ありげに笑うおばあさん。
 松三の賭場で、江戸は紫屋の息子・佐吉(山城新伍)がイカサマで捕まる。佐吉が口走った≪田舎やくざ≫という言葉に松三は怒り、 「簀巻きにして捨てちまえ」と命令する。
 酒屋でくつろぐ市たち二人。外をやくざが探し回っている。佐吉が逃げたのだ。材木が立てかけてある材木置き場に隠れていた佐吉は「わたしだよ」とお菊に声をかける。 お菊は「・・・・」。
 農家に連れて来た佐吉に「誰だい、あの男は?」と聞かれて、お菊は「亭主」と答える。佐吉は信じない。 「あいつのホクロがどこについてるか知ってるかい」と市に聞く。お菊は佐吉を「出てって!」と追い出す。 佐吉の捨てゼリフは「なめるなよ、おまえがなぜここにいられるかわかってるのか、てめえ座頭市だな! 生涯かけて不幸せにしてやるぞ」。このセリフは可笑しい。
 市にお菊は話す。市「亭主だなんて・・・ビックリしちまいました」、お菊「ものを教わったこと、ないんだよ、 生きてることがこんなにいいもんだってこと。親にも教えてもらったことないんだよ」。市「オレの歩いて来た道なんぞ、もっと汚ねぇよ」。 本編の決めゼリフはこのお菊の言葉でしょう。
 町では、大芝が子分を連れて宿場へ来て、松三へ挨拶に来る。ちょうどそこへ、佐吉が訪ねて来る。 佐吉はお菊と市の隠れ場所を教えて、代わりにイカサマの件をチャラにしてほしいと頼む。 松三「(オレたちやくざは)渡世の筋道を通さないといけねえ。てめえ、イカサマやったな、田舎やくざって言ったな。こりゃ許せねえ」と剣を佐吉へ突きたてる。 佐吉はよろめき倒れて死ぬ。
 農家の庭先、洗濯をしているお菊のもとへ、松三の手下が親分がお呼びだと声をかけに来る。
 夜である。三味線をひきながら歩くお菊のうしろ姿。唄が途切れる。お菊を拉致した松三。市も拉致されかかるが、一瞬の居合で組ものを斬り捨てる。 大芝はお菊に逃走した恨みを述べ、てめえに「十年の年季をくれてやらあ」と言う。お菊「帰りゃいいんでしょ。帰りますよ。 あの人は関係ないじゃありませんか」。辰蔵はお菊を殴る。そこへ、市がやって来た。市はお菊に「オレの傍を離れるんじゃないぞ」と伝え、 居合いで子分たちを斬り、外へ出て行く。殺陣が続く。見つめるお菊。やがて、浪人が槍を突き出すスキをうかがっている。 その槍の前にお菊が飛び出す。市をかばって背中を刺されたお菊。市は浪人を斬り捨てる。子分たちが逃げていく。町の人々が見つめるなか、 市は「だいじょうぶ」と言うお菊を横抱きにして運ぶ。立ち止まると満天の星が見える。お菊がつぶやく、「きれい・・・あした、晴れるわね」。 そして、こと切れる。市は絶望する。
 スタッフ・クレジットが出る。街道に忘れじの花が立ててある。その遠景で市が追いかけてからむ子分たちを一瞬に斬り捨てている。音楽・富田勲。
 次の第9話は大傑作「二人座頭市」である。

        映画川柳「生きている 夫婦ごっこに 稚気ありて」飛蛛

 8月12日に山城新伍が誤嚥性肺炎のため、特別養護老人ホームで、逝去。70歳。追悼の意味で、新伍が『さびしんぼ、おこりんぼ』に書いている 『忘れじの花』を見直しました。新伍が撮影したと書いている佐吉とお菊の駆け落ちの場面や賭場で負けがこむ場面、 松三が佐吉を殺さずに五日間待とうという場面などは、本篇に使われていません。合掌。
2009
年8月12日

録画
隣りの八重ちゃん

蒲田映画
(松竹キネマ)
1934年
79分
  監督・島津保次郎。助監督は豊田四郎・吉村公三郎・清輔彰・佐藤武。撮影・桑原昂。撮影助手は寺尾清・木下恵介・蟹文雄・小峰正夫。録音・土橋晴夫・橋本要、録音助手は神保幹雄・西山整司。作詞・大木敦夫、作曲・早乙女光、独唱・矢追婦美子、指揮・高階哲夫。美術・脇田世根一・木村宣雄・三田秀雄・三島信太郎・中村二郎・*原幾・杉本静。現像・納所歳巳・阿部鉱太郎。配光・高下義雄。字幕・藤岡秀三郎。藤田真男氏より借りたDVDで見ました。
 家の全景からゆっくり右にパンするとキャッチボールをしている兄弟がいます。投手は弟の清二(磯野秋雄)、捕手役は兄の恵太郎(大田方傳)。「もっとスナップをきかせて」と兄。弟は「・・・自分で投げてみろ」とブツブツ。弟はもうグロッキーだし、腹が減ったというが、兄はもっと頑張れと答えます。中学生(旧制)の弟は野球部の投手、甲子園を目指しているのです。兄が勢いよく返したボールが暴投で隣の窓ガラスを割ってしまいました。隣りの服部家の八重子(逢初夢子、18歳)がまた割ったの?と登場します。兄は「清二の球がそれて・・・。お前、ガラス屋呼んで来い」と言う始末。そこへ八重子の母・浜子(飯田蝶子)が戻って来て、「お湯が空いてるから行っといで」。八重子と恵太郎はてくてく歩いて湯屋へ向かいます。途中で帰宅してくる恵太郎の父親・幾造(水島亮太郎)に会いますし、弟が追い付いてきます。幾造は妻の松子(葛城文子)から事情を聞き、隣へお詫びに行きます。松子が言うには「隣りは男の子が好きとみえて、窓を壊されても喜んでいるみたいですよ」。浜子はガラス屋(阿部正三郎)に酒屋への言伝を頼む親しさです。
 翌日。大学の午後の講義をサボって帰って来た恵太郎は家が閉まっているので隣の服部家へ顔を出します。ちょうど浜子は市場へ買い物に行くところ、恵太郎に残りご飯や漬物を出し。恵太郎は茶づけを食べ始めます。そこへ女学生の八重子が友人の真鍋悦子(高杉早苗、15歳)と一緒に帰って来ます。浜子は悦子に恵太郎なら気にすることはないと上がらせます。「だれ?帝大の?」「トッポウよ」。二人は隣の部屋で着替えをしながら、「おっぱいが小さいわね」等と話し合っていて、恵太郎は気になって仕方がありません。二人がやってくると、あわてて漬物をひっくり返してしまう恵太郎。八重子は恵太郎の靴下の破れを目ざとく見つけ、繕ってあげるから脱ぎなさいと気安い。そして「汚い足!」と非難します。早々に垣根を越えて自分の家へ戻る恵太郎。悦子は「フレドリック・マーチに似てるわね。あんた好きなんでしょ」と評価。八重子「そんなこと聞くもんじゃないわ」。
 繕いものをする八重子。ドイツ語のリートを練習している恵太郎。飲みながら議論する両家の父親どうし。新井幾造は会社の仲間の不満を述べます。そこへ八重子の姉で金田家に嫁いだ京子(岡田嘉子)が泣いて帰宅します。出戻ってきたのです。幾造に挨拶に出た京子に場所もわきまえず、父親の昌作(岩田祐吉)が無遠慮に問い質すと・・・。
 一方、繕った靴下を持って八重ちゃんが隣りへ来ています。恵太郎と八重子は他愛のない会話を交わします。恵太郎は細君に毎朝、靴下をはかせてもらうんだと主張、八重子は細君てそんなものじゃないわと不満。酒がすっかり冷めてしまい、戻って来た幾造から、姉が帰って来たと聞いて八重子は自宅へ戻ります。気まずい家族のところに八重の「ただいま」の声。フェイドアウト。
 数日後。キャッチボールをしている兄弟のもとへ服部家での親子喧嘩が聞こえてきます。京子は金田へは帰らない、夫は女にダラシない、女中に手をつける、カフェで働けば食べていけると言いますが、母親は「とんでもない。世間に顔向けができないよ」。京子は「どうしていいんだか分からない」と訴え、浜子もイライラしています。
 浜子は隣の松子へ愚痴を言いに行きますが、下駄を片ちんばに履く始末。一方。恵太郎は京子を元気づけてやろうと話しに行きます。そこへ八重子が帰ってきて二人を見て動揺、清二を誘ったりします。八重子は「映画でも見にいかない?」と提案、四人で帝劇へ映画鑑賞へ行くことになります。入場券代は京子が出しました。上映されていたのは「ベティ・ブープ」で、字幕もなく、吹き替えでもない!映画館では恵太郎が京子の傍に座ったので、八重子は気が気ではありません。お菓子を京子を飛び越して恵太郎に渡すと、恵太郎はそれを清二にあげる始末。憤懣やる片ない八重子ですが、この時代ですから声を荒げたりするようなはしたない行動はありません。
 映画が終わって料亭で夕食、これも京子の奢りです。すっかり打ち解けて大学生の恵太郎とさしつさされつ、お酌し合う京子。清二は喜んで食べるばかり。面白くない八重は「あたしも飲んじゃおうかしら」などと言いますが、未成年、京子に「とんでもない」と一蹴されます。
 一方、新井家では釣った魚を天プラにあげている新井。服部昌作と一緒に釣りに行ったようです。
 帰りのタクシーですっかり酔いつぶれた京子は恵太郎にしなだれかかっています。隣りで八重子は気が気でありません。清二は前の助手席で居眠りしているし・・・。
 数日後、明日は甲子園行きを賭けた試合があるという日。恵太郎が気になる八重子は新井家に花を持っていきます。「(恵太郎の部屋へ)花瓶ある?」と聞くと、清二「いつも貸家同然さ」、八重子「そんな洒落いうもんじゃないわ」。ところが恵太郎は部屋にいません。松子「(恵太郎は)散歩に行くって出てったよ」。
 隣りの服部家では昌作「京子は(どうした)?」、浜子「(最近は少し元気になってきたみたいで)散歩に行くって出かけました」、昌作「(そう心配してもしょうがない)。なるようになるさ」。京子と恵太郎が一緒であることが予想できます。
 案の定、川べりの土手で二人は恋人然として座っていました。京子は「最近、あたしの心に新しい芽が伸びてきたようよ。こっちへ来て。話が遠いわ。戸籍を抜いたら、すっきりしたわ」と告白。「わたし、(生まれ変わって)娘のようになろうと思うの」とドッキリするようなことを言います。恵太郎も京子に調子を合わせて「僕も純な愛が持てたら満足だ」などと答える、すっかり高揚してきた京子は「なんだか嬉しくなったわ。(恵さん)、わたしを愛してくれない? 苦しさを救ってくれない?」と迫ります。恵太郎は成り行きに躊躇して「帰ろう」と提案。
 翌日は野球の試合があります。応援席で応援する恵太郎と八重子。♪「応援歌」が響くなか、試合は進み、清二のチーム(SOUJITSU?早稲田実業でしょうか)が勝ちました。
 喜びいさんで帰宅した三人に、松子は「(あなたの)ねえさんが家出したんだヨ」と知らせます。浜子はすっかり動転しています。書き置きには「死んでしまいたい」なんて書いてあるといいます。 
 八重子と恵太郎は京子を探します。しかし、見つかりませんでした。帰宅した新井は「朝鮮へ転勤を命ぜられた」と伝えます。体のいい左遷でしょうか。新井は新聞社へ「居所を知らせよ」と広告を出すことを考えています。♪「なにかしらねど」。
 数日後。引っ越し準備に余念がない服部家。大きなトラックに家具をいっぱいに載せて出発。京子は見つかっていません。浜子はすっかり気落ちしています。八重子と浜子、昌作は車で出発し、見送るのは隣りの兄弟。別れでしょうか。ところが、しばらくすると、八重子ひとりが戻って来ます。八重子「停車場でかあさんに泣かれて困ったわ」。恵太郎は「君の荷物はもう運び入れてあるよ」と言います。八重子と兄弟は新井宅へ入っていきます。八重子は新井家へ寄宿することになったのです。八重子「もう隣りの八重ちゃんじゃないわ」。

      映画川柳「気がもめる 媚態をまねる わけもなし」飛蛛 

【参考資料】
 藤田真男氏の私信より、“すべての現代日本映画の原点ともいえる歴史的傑作。ドナルド・リチーはこの映画が大好きで、フィルムセンターで初めて見た後、「ヤエチャン! ヤエチャン!」と連発していたそうです。劇中、岡田嘉子の大時代な芝居だけが映画全体から浮き上がって見えるけれども、それは公開当時にも指摘されたようです。彼女の場違いな芝居が逆にこの映画の斬新さを証明しているともいえるね。もっとも、この映画についていけない人たちは、岡田嘉子だけがいい、なんてトンチンカンなことを言っていたらしいから、昔から見当はずれの批評家は多かったようで。
 ちなみに、山田洋次が元・撮影所長・城戸四郎に「今まで育てた監督のうち、誰を一番高く評価しますか?」と聞いたところ、城戸は言下に「そりゃ、島津だよ」と答えたそうで、小津安二郎でも清水宏でも、もちろん木下恵介でもなかったのは、なかなかの慧眼。山田洋次の『虹をつかむ男』のヒロインの名が十成(となり)八重子という。これはとても城戸四郎には見せられない凡作だったね。” 
 批評を紹介してもらって、池田の感想は、岡田嘉子の芝居然とした演技は演出の結果ではないでしょうか。「いかにも」な芝居がかった仕草と言葉で恵太郎にモーションをかけさせて、彼女の失踪も一種の芝居であると観客に安心させるのが目的だと思います。もし彼女の失踪が芝居でなかったら、映画を明るく終わすことができませんから。 
2009年8月11日

衛星劇場
録画
2008年7月?
サヨンの鐘

松竹
1943年

   「新・銀幕の美女」シリーズとして放映された。サヨン役が李香蘭。
 清水宏監督、脚本は長瀬喜伴・牛田宏・斎藤寅四郎、撮影および編集・猪飼助太郎、録音・妹尾芳三郎、美術・江坂実、装飾・井上常太郎、衣裳・柴田鉄造、編集(同)・斎藤寅四郎、字幕・藤岡秀三郎。
 挿入歌「サヨンの歌」(西条八十詩、古賀政男曲、李香蘭)、「なつかしの蕃社」(西条八十詩、古賀政男曲、霧島昇・菊池章子)、「サヨンの鐘」(西条八十詩、古賀政男曲、渡辺はま子)。音楽・古賀政男。一種のミュージカルである。
 ヤシやバナナが茂る台湾の亜熱帯林。高砂族は平和な山岳民族であると、生活が点描されます。歩きながら糸をつむぐ、機を織る。蛮刀で木工作をする。警察官は日夜、管理監督指導に当たっている。
 サヨンは黒い子豚のバアを呼んでいる。逃げた子ブタを子どもたちが追いかける。ナハン=太郎は矢をつがえて討とうとするのでサヨンにビンタをくらう。「ブタが大きくなったら売って野球道具を買うんじゃないか!」
 子豚は捕えられる。みんなは元気よく♪凱旋である。サヨンの弟のサーヤは、木にしばりつけておいた赤ん坊がいなくなっているので大騒ぎ。赤ん坊は警察に保護されていた。子豚は売られていく。♪クロよ、さようなら。
 サヨンは女友達ナミナ(三村秀子)とふざけあう。もうすぐ恋人の三郎(島崎溌)が内地の学校を終えて帰って来るのだ。村へ入る橋で子どもたちと三郎を待つ。万歳万歳で迎える。夜には♪祝いの踊り。踊りの輪を離れる男モーナ(中川健三)。ナミナはモーナを「サヨンが好きなのね」と責める。
 赤ん坊をおぶった集団が山に登っている。山の上には湖がある。湖から水路を引いて水田を作る計画がある。筏を浮かべるサヨンと三郎の二人。しかし、昔から女人禁制の湖だった。子どもたちがサヨンが三郎とばかり会っていて自分たちと遊んでくれなくなったので、老人たちにサヨンが湖に行ったと告げ口する。サヨンは獲物が取れるまで生贄として湖畔に留められることになる。その狩りの最中に三郎が怪我をする。ナミナは教官・武田(近衛敏明)にモーナが故意に三郎を怪我させた、モーナはサヨンのことで三郎に嫉妬しているのだと言う。教官がモーナに問い質と、モーナは自分と勉強などでライバルだった三郎が内地の学校に留学したことが悔しいのだという。モーナは僕にはナミナがいますと言う。教官はモーナにナミナを慰めてあげるように忠告する。
 サヨンのところには男の子たちが集まっている。義勇隊が来て三人の召集者を選びます。モーナも選ばれますが、三郎は選ばれませんでした。松明を掲げてサヤンが来る。召集者の妻は妻と子を忘れるように言う。ナミナはモーナに率先して手柄を立てて欲しいと言う。選ばれずに落胆している三郎をサヨンは元気づける。軍歌♪荒波もゆる、守りは我等台湾軍。
 月日が立って、赤子を抱くサヨン。しかし、これはサヨンの産んだ子ではない。山へ水路を掘りに行く三郎。♪海ゆかば。
 サヨンの豚が子どもを産む。サヨンはアヒルを追い立てながら、♪わたしゃ蕃社の娘。男の子はみんな赤児をおぶって湖に行く。武田先生に召集令状が来たとサヨンは届ける。♪出征を祝う踊り。
 雨である。武田先生を見送るサヨンは川のところで別れるが、濁流が木の渡り橋を流し、川に呑まれてしまう。
 サヨンの墓が立てられる。湖で男の子たちがサヨンを呼ぶ。鐘が響いてくる。
 子どもは男の子ばかりである。女の子がまったく出てこない奇っ怪な映画。日本人の俳優が演じている高砂族の人々やその生活に対する偏見や差別の目といったものが、みじんも感じられません。台湾の人たちにも戦争に協力してもらわなくてはという戦意高揚映画だから当然かもしれませんが。冒頭に外地で頑張っている警察官の方々に深甚なる感謝をささげるといったような言葉が出てきます。

      映画川柳「ガキ大将 高砂族の 美人姉」飛蛛 

【参考資料】
 藤田真男氏の私信より、“この映画は台湾の山岳民族の蜂起(1930年)後、それまでの「蕃族」を「高砂族」と改称して皇民化製作を進めていく過程で企画されたもの。もちろん、それは口実で、ミュージカル仕立ての楽しい和製ターザン映画、哀しいメルヘンを作るのが狙いだったと思う。企画されたのは撮影よりもずっと早い太平洋戦争前のことで、当初は岩崎昶も参加していたようです。松竹の監督や俳優たちは岩崎の左翼映画運動を支援していたこともあるから、そういう関係だろう。
 劇中、警察官が高砂族の村で司法から行政まですべてを管理しているのは、台湾の山岳地域が特別区に指定されていたため。この制度は現在に至るまで続き、山岳民族と自然を保護するために、山岳地域への立ち入りには許可が必要。日本の国立公園の名前だけのレンジャーとは違って、台湾の国立公園を管轄する警察官には違反者を逮捕する権利もある。日本より文明国だ。
 ちなみに戦前戦中、日本は数十万本もの台湾ヒノキの大木を伐採し、残っているのは数千本のみとか。たぶん、日本が支配するアジア全域には数千の神社を建てる際に使われたんだと思う。そんな愚かな自然破壊を繰り返さないために、わずかに残った台湾ヒノキの大木は今では大切に保護されてます。タテマエでは保護されている国有林の木まで国が率先して盗伐している日本とはタイヘンな違いだ。” 

シェイクスピア作品の映画化やその関連の映画は除く。
それらは別ファイルになっている。→ 『シェイクスピアの劇と映画


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