映画 日記   (2001年3月28日から)     池田 博明 


 
 これまでの日記(このページの下段に作品名)


2007年12月以降に見た 外 国 映 画 (洋画)
見た日と媒体 作  品        感  想     (池田博明)
2008年5月30日

DVD
クルーレス

1995年
USA
97分
 エイミー・ヘッカリング監督が脚本も担当し、ジェイン・オースティンの『エマ』を現代風にアレンジした青春映画。他人ををハッピーにすることを生きがいにする主人公を描いた脚本が、大好きな『エマ』と似てくるのは当然だったと監督は語っています。主人公はビバリーヒルズ高校に通うシェール(アリシア・シルバーストーン)。原題のクルーレスCluelessは字幕では「ダサイ」と振り仮名されていました。辞書によりますと、「手がかりClue・なしLess」。「すっかりとまどった、わけがわからない、馬鹿な」といった意味のようです。「イケテない」という訳をしている映画評もありました。
 仮免許しか受かっていないのに、ジープを運転してゴミ缶をハネ飛ばしながら通学するシェールと、奇抜な服装で登校するディオンヌ(スティシー・ダッシュ)は、転校生タイ(ブリタニー・マーフィ)のダサいセンスを変えて、クラスのヒーロー、粋な恋人エルトン(ジェレミー・シスト)を世話しようと奮闘する。しかし、スケボー狂いのジャンキー、トラヴィス(ブレッキン・メイヤー)がタイに関心を持って声をかけてきたり、エルトンがタイよりもシェールに気があったりと、なかなかうまくいかない。やがて、シェール自身が学校を半年休んでいたクリスチャン(ジャスティン・ウォーカー)に惚れて、身を捧げる、つまりバージンを捨てる決心をしたのだが、なぜか彼は彼女に手を出さない。ジェームス・ディーンばりの50年代ファッションで決めている彼は“ケーキ・ボーイ”、つまりゲイだったのだ。夢破れたシェールはタイが自分の義兄ジョシュ(ポール・ラッド)に関心を示したのを見て、突然自分の本心、つまりジョシュに対する恋心に気がつくのだった。義兄といっても、弁護士の父親の4人目の別れた妻の連れ子なので、シェールとジョシュの血はつながっていません。
 金持ちのお嬢さまの熱心な縁結び行為や勘違い、ヒーロー名がエルトンであること、義兄への恋心に気づく点など、人物設定は『エマ』ですが、展開は『エマ』とは異なりました。ロスト・バージンの機会を探る女の子や、軽いノリで高校生活を送るお調子ものの登場人物が描かれますので、監督のエイミー・ヘッカリングが『クルーレス』は、人種に対する偏見もなく、友情や信頼が成立する高校の青春の理想形を描いたものだと話しているのに驚きました。ボディコン(ボディコンシャスネス、身体の線を意識させる衣服のこと)、そしてミニスカートで、構内を闊歩するシェールにはあまり知性が感じられないからです。
 生徒どうしの意識に関しても、原作にある階級観が無くなっている分だけ平板になっていると言えましょう。

[参考書]
 ジェイン・オ−スティン『エマ』(阿部知二訳,1965年.中央公論社・世界の文学6)
 ポール・ププラウスキー編著『ジェイン・オースティン事典』(向井秀忠監訳、2003年.鷹書房弓プレス)
2008年5月15日

DVD
エド・ウッド

1994年
USA
126分
 史上最低の映画監督に選ばれたエド・ウッドの映画作りの様子を描いて、シネマフリークの心意気を描いたティム・バートン監督作品。白黒。エド・ウッドの映画を見ていなくとも、エド・ウッドに「関する知識がなくとも、自分で映画を作りたいという青年の意欲は伝わります。また、作品を完成させるために妥協に次ぐ妥協を重ね、その場しのぎの改変で作品がモザイクになっていく過程は悲喜劇の様子を呈しています。そんな“出たとこ勝負”で、“いい加減な”監督エド・ウッドをティム・バートンは断罪するでもなく、賞賛するでもなく、独特の距離を置いて描写していきます。そんなバートンの批評精神が面目躍如の作品です。エド・ウッドが偶然ベラ・ルゴシに遭い、忘れられた怪奇俳優ルゴシに単に商売になるだろうという打算だけではなく、敬意を示し続ける様子には、胸が熱くなります。
 映画に憧憬を示す男の物語としてはロベール・アンリコ監督『ラムの大通り』があります。リノ・ヴァンチュラが主演し、ブリジット・バルドー最後の映画出演作となっている、このちょっと“ゆるい”傑作を私は愛していますが、『エド・ウッド』もそのような男の映画として数えてみたくなりました。
 ティム・バートンには、傑作『バットマン・リターンズ』、『スリーピー・ホロウ』のほか、『チャ−リーとチョコレート工場』『ナイトメア・ビッフォア・クリスマス』『コープス・ブライド』などがあります。
2008年5月11日

DVD
エディット・ピアフ
愛の讃歌


2007年
フランス
140分
 シャンソンの国民的歌手エディット・ピアフの人生に大きな影響与えた少女時代と壮年時代を中心に描いた映画。ピアフについて予備知識がなくとも、監督・脚本オリヴィエ・ダアンの「アーティストとして自分の人生を描いた」という言葉で、理解できる作品になっています。交流のあったイヴ・モンタンやシャルル・アズナヴール、ジャン・コクトーなどはほとんど省略されています。原題は「La Mome(おちびさん)」で、キャバレーの支配人ルプレが「小さなスズメ(ラ・モーム・ピアフ)」とピアフを売り出した史実にちなんでいます。アメリカ題は「La Bien Rose バラ色の人生」。
 母親から棄てられ、父親の母(カトリーヌ・アレグレ。シモーヌ・シニョレの娘です)が経営する娼婦館で育ち、角膜炎で失明しかかってしまう少女時代の経験は、あまりにも切ないものです。実際に経営していたのはこの祖母ではなかったそうですが。やがて巡礼した直後に、奇跡的に目が治ります。このときから、ピアフは十字架を離すことはなかったそうです。
 目が開いたことで(実際には売春を見ることになった環境の悪さから)、エディットを溺愛する娼婦ティティーヌ(架空の役。エマニュエル・セニエ。ポランスキーの奥さん)から離され、娼婦館から父親に連れ出されて、大道芸(足技)の助手として働き始めます。ある日、足技の大道芸の後で何かやれと言われたエディットが人々の前で初めて歌う歌が「ラ・マルセィエーズ」。そこで初めて自分の歌声の力に気がつきます。フランス国歌の歌詞の残虐さがきわ立ちます。10歳のピアフを演ずるのはポリーヌ・ビュルレ。
 名声を博した後に酒と薬物でボロボロになる生活、わがままで刹那的な発言など、ピアフのマイナス・イメージの点描が多いのですが、ピアフの歌声そのものがもたらす迫力とそれを生み出す人生は尋常ではありません。40歳代とは思えない老醜を描き出した特殊メーキャップ技術と、主演のマリオン・コティヤールの熱演が印象的です。撮影監督は永田鉄男。
 山下憲子「ほんとうのエディット・ピアフ」から、“自伝でピアフはマルセルがどんなにすばらしい人間だったかを書き連ねている。彼はピアフに限らずだれにでも親切な、心からやさしい人物だった。結核に苦しむ子どもたちのために慈善試合を行い、目の見えない友人のために献身的に尽くし、またあるときは、気分が乗らなくてサインに応じないピアフをたしなめることもあった。彼女はその日以来、どんなことがあってもファンのサインには応えるようになったという。
 ピアフはさらにこうも語っている。私は人生は無意味と思っていた。男たちはみんな野獣と思っていた。できるだけ早く死んでしまいたい、死ぬまではいい加減に生きて、酒を飲み、心ゆくまで逸楽にふけるのが賢い生き方だと思っていた。ところがマルセルが現れて、初めて生きることを教えてくれたと。
 二人の愛が絶頂のときにマルセル・セルダンは飛行機事故に遭い、帰らぬ人となる。
 その絶望ぶりは目に余るものがあった。交通事故をきっかけにピアフは麻薬におぼれ、それが約4年間続いた。”
 ニューヨークで試合帰りのマルセルを待っていたピアフは、手紙で「船では待ちきれない。飛行機で来て」と懇願していたくらいですからその絶望ぶりは激しく、ドキュメンタリーによれば、事故の夜の公演では5曲を歌い、次は「愛の讃歌」というところで倒れてしまったそうです。セルダンが事故で亡くなったのは、ピアフが34歳のとき。ピアフの「愛の讃歌」は試合が12月に延期されてしまい、マルセルをニューヨークで待ち続けていたピアフがその想いを歌ったものだそうです。
 酒場で歌う歌手で出演しているマイヤ・バルソニは、特典映像『エディット・ピアフ 欲望のあいまいな理由』で、ピアフの人生の修羅場が歌を生み出した、経験に裏付けられた歌だから感動する、「谷間に三つの鐘が鳴る」は経験にもとづかないピアフらしくない、感動しない歌だと、発言しています。若い歌手がきちんと自分の意見を持っていることが素晴らしいと思います。特典映像で、社会学者のカトリーヌ・デティュ=プサンは流行歌は神話だ、逸話の総体が神話なのだ、波乱万丈の人生も含めてピアフ神話は申し分のないものだと指摘していました。

参考書
 『スクリーン+プラス』No.13“エデイット・ピアフ”(2007年,近代映画社)
 『エデイット・ピアフ コンサート&ドキュメンタリー』(東宝、DVD)

2008年5月4日

録画
無頼の谷

1952年

USA

(日本公開は1955年)
 フリッツ・ラング監督の異色西部劇。ラングの原案をもとにダニエル・タラダッシュがオリジナル脚本を書いた。マレーネ・ディートリッヒが西部のならず者たちの隠れ家の女主人を演ずる。初めての主題歌入りの西部劇。主題歌でストーリーを説明する方法を取った作品でもある。テクニカラー。
 カウボーイの若者ヴァーン(アーサー・ケネディ)と雑貨店の娘ベス(グロリア・ヘンリー)のキスで始まる。近く結婚するはずの二人だったが、ヴァーンが去った直後、店に2人組の強盗が入り、売上金をさらった上、ベスを撃ち殺して去った。ヴァーンは強盗を追ったが州境から先はスー族の地だ。ヴァーンは独り仇を求める。仲間割れで瀕死の強盗から「チャック・ア・ラック」という手がかりを得た。さらにオルター・キーン(マレーネ・ディートリッヒ)という女の名前も聞く。
 ヴァーンはオルターの恋人フレンチ(メル・ファラー)がある町で留置場に収容されていることを知り、故意に乱暴を働いて捕まり、フレンチと一緒に脱獄した。フレンチはヴァーンと無法者が集まる谷に帰った。そこがチャック・ア・ラックだった。無法者が生活を共にしており、オルターはその女主人だった。そこでのルールは「過去を詮索しないこと」だった。
 ヴァーンはオルターの胸にベスのブローチがつけられているのを見て、その出所を知るためオルターに取り入った。そして遂にヴァーンは犯人キンチを見つけ出した。決闘を提案するが、キンチはヴァーンにかなわないからと、銃を抜かない。酒場での諍いを聞きつけて、保安官が来たため、ヴァーンはキンチを保安官に引き渡した。しかし、仲間の無法者たちは、キンチを救出し、犯人の名前を明したと誤解してオルターを責めた。銀行強盗で怪我をしたフレンチが彼女を救おうとしたが、銃を向けられる。ヴァーンが応援に来て烈しい撃ち合いとなった。
 無法者たちは撃退されたが、オルターはフレンチの身代わりになって死んだ。フレンチとヴァーンは牧場を後に去って行った。

2008年4月29日

DVD
傷だらけの挽歌

1971年

USA

128分
 原題はThe Grissom Gang。ハドリー・チェイスの処女作『ミス・ブランディッシの蘭』(1938年)をアルドリッチが製作・監督して映画化。原作は『No Orchids for Miss Brandish』で「ミス・ブランディッシには蘭はない」とすべきだが、題名としては長すぎるのでこの訳にしたという(翻訳者の井上一夫による)。映画は原作をかなり変更している。
ミス・ブランディッシの蘭
訳書の創元推理文庫の初版は1959年。1972年版のカバーは映画より。
蘭の肉体『蘭』の続篇はチェイスの7作目で1942年刊行。訳書の創元推理文庫の1972年版のカバー装画は杉浦康平による。


 富豪ブランディッシの令嬢バーバラ(キム・ダービー。原作では娘の名前が表記されることは無い)が、パーティからの車での帰途、フランキー(マイケル・ベースレオン)一味に男友達を射殺され誘拐された。途中で立ち寄ったガソリン・スタンドで、一味はグリソム家のエディ(トニー・ムサンテ)と出くわしてしまう。娘を家に送るところだとウソをついて別れたものの、ラジオから事件が放送されて、エディは成り行きに気がつく。フランキーは仲間の黒人ジョニー(ドッツ・ジョンソン)の家に忍び込んだものの、朝になってグリソム一家がやってくる。
 フランキーとサムは抵抗して撃たれ、逃走しようとしたジョー(マット・クラーク)も、スリム(スコット・ウィルソン)のナイフを背中に浴びて殺られる。
 グリソム一家を仕切るのは“ママ”グラディス(アイリーン・ディリー)。その夫サム(アルヴィン・ハマー)、スリム、エディ、ドク(ドン・キーファー)、デブのワッピー(ジョーイ・フェイ)。“ママ”は身代金を受け取ったら娘は殺すと主張するが、娘に一目惚れしたスリムは娘を守り、手を出す奴は「ママでも友達でも殺す」と言う。百万ドルの身代金を払ったブランディッシ(ウェズリー・アディー)は手がかりをつかめないので焦っていた。
 “ママ”は性的不能のスリムを直す好機と考えて娘を監禁しておくことにする。「ナメクジのような」スリムが嫌いだと避けていたバーバラだったが、スリムにすがるしか生きる道は無いのだった。スリムは女に異常に入れあげ、金で手に入れたクラブの地下室に女と二人のためのスィート・ルームと台所を作った。もっとも、バーバラは「料理はしないわ」と断る。
 容疑者をフランキーとみていた警部(ハル・ベイラー)は、娘は既に殺されていると予想するが、捜査官フェナー(ロバート・ランシング)は、フランキーの女でクラブ歌手のアニー(コニー・スティーブンス)に接近する。アニーは行方不明のフランキーに代わってエディの女になっていた。ニューヨークのエージェントを装ってフェナーはアニーからフランキーがジョニーの家から電話してきたのを最後に行方が途絶えたことを聞き出す。部屋に拳銃を置き忘れたエディが戻って来て、フェナーと鉢合わせ。フェナーに殴られて、一瞬失神したエディだったが、情報をもらしたアニーを罵り、成り行きが理解できずに怒るアニーを撃ち殺す。これまでも誘拐の情報を知る者を冷酷に撃ち殺してきたエディだった。(原作ではエディは警察に逮捕される)
 次第に捜査が絞られてくる。フェナーが捜査に乗り込んだジョニーの家では、スリムらの襲撃で銃撃戦があり、ジョニーは死亡、フェナーも傷を負った。スリムの留守に、エディは娘に言い寄るが、ちょうど帰宅したスリムの怒りを買い、刺殺されてしまう。
 グリソム家のクラブの周囲を警察が包囲する。“ママ”は降伏しようとする夫を撃ち、警官隊と激しい銃撃戦の末、死亡。ドクもワッピーも撃たれて死亡する。
 スリムとバーバラは外出していて、銃撃戦に合わずに、車で逃走した。ある農家の納屋に潜む。夜になって、スリムにバーバラは「死んではだめ」と話すのだった。しかし、農夫の通報により警察に包囲される。父親は娘が汚れたことを知って、拒絶する。(原作では父親は潜伏現場には行かず、カンサスで待っていることになっている)
 早朝、スリムは一斉射撃で倒れる。茫然としたバーバラは倒れたスリムの手を取る。父親は「汚らわしい。その手を離せ」と命じる。娘は「怒らないで。生きるためよ。逆らえば殺されていた」と言うが、父は「そのほうがよかった」と答え、「後はフェラー君に任せる」と離れていく。新聞記者たちが押し寄せる。フェラーは娘を車に乗せ、現場を去る。茫然とした娘が後ろをふり返ってストップ・モーション。

 ギャングのママ、アイリーン・ディリーがギャング団をたばねる暴力的な母親を演じて迫力。異常性格者を演ずるスコット・ウィルソン、目的のためには手段を選ばず、人を殺すトニー・ムサンテなどの代表作。

 ミステリ作家の北村薫が試写会で見た『傷だらけの挽歌』のラストは別だったと言う。
 “救出された時には、彼女はぼろくずのようになっている。父親はそんなになっても生きているのか、と冷たい言葉を浴びせ、娘に背を向ける。ラストシーン、川に身を投げた娘を見て、探偵は何ともいえない表情をし、その場を去ろうとする。驚いて、助けないのか、という声がかかる。彼は、一言いうー《アイ・キャント・スイム》。
 実に苦く、また見事な台詞である。まさしく《出来ない》のである。
 ところが、−今も鮮やかに覚えているー《泳げないんだ》という字幕が出た途端、胸を衝かれた我々の、二列ばかり後ろで吹き出した観客がいたのである。その人は本当におかしかったのだ。本当にj《泳げない》と思ったのだ。
 これは誤りである。・・・(略)・・・泳げる探偵が、その局面だからいったのでなければ、この台詞は無意味だ。考えてそこに行き着くのではなく、瞬時にそう感じなければいけない。
 残酷なことだが、時として作品は人を拒む。・・・(略)・・・
 ・・・(略)・・・衛星放送では・・・(略)・・・何と肝心なラストがカットされていた。・・・(略)・・・局が切ったのではない。別バージョンなのだ。”傷だらけの挽歌

 1971年日本公開の際のパンフレットを入手した。はっきりは書いていないが、このときのラストシーンは北村薫が見たラストシーンは娘が自殺するものになっていたようだ。映画プロデューサー・田中文雄氏が「井上一夫氏の訳ではラストで、ミス・ブランディッシは自殺などはせず、生き続けることになっている。映画のラストシーンが初版の内容に従ったのかどうかはわからない」と書いているからだ(2010年11月追記)。

 翻訳者の井上氏が解説でこう書いている。“スリムが性的不能者で幼いときから、さび鋏で動物を切りさいなむ残虐性があったことや、ライリー[註:映画版ではフランキー]がマゾヒズムで、ナイフで刺された瞬間オーガズムに達する話、さらにジョン・ブランディッシが当局に贈賄したり、不能なスリムがミス・ブランディッシに暴行を果たすというような、どぎつい描写があって、最後にミス・ブランディッシはホテルの窓から飛び降りて死ぬことになっているらしい。あまりひどすぎて問題になったらしく、初版本は絶版になって、イギリス本国でも寄こう本になって手に入らないので、やむをえずエヴォンの普及版に従った”と。普及版の原作には上記の描写や、ミス・ブランディッシが自殺を試みる描写は無い。ただし、映画ではスリムのナイフに対する偏愛や残虐性が描かれている。
 チェイスの続編『蘭の肉体』では、「ブランディッシの娘は・・・父親が駆けつける前に窓から飛び降りたんですが、重傷でしばらくたってから死んだんです。死ぬ前に彼女は女の子を生んでたんです。子供の父親は誘拐犯人のグリッソンです。・・・生まれた子のキャロルというのが・・・十になるころから、陰気で癇癪もちの乱暴な子になり、友達と遊ばなくなった」。精神分裂病の一種と診断された娘が続編の主人公である。

 ジョージ・オーウェルは「ラフルズとミス・ブランディッシュ 探偵小説と現代文化」(1944年)で、粗筋を紹介しているが、この内容は初版のものであった。そして、オーウェルはチェイスの読者の戦後の道徳的価値観が後退した、タブーのない精神世界を指摘していた。
 “『蘭』は権力闘争に狙いを定めている。・・・それが権力への道ならば「何をしてもいい」。あらゆる柵がとりはらわれ、あらゆる動機が大手をふってまかりとおる。チェイスは・・・力は正義なりという説を、みごとにとりこんだ大衆作家なのである。こういう大衆作家はアメリカにはたくさんいても、英国ではまだきわめて少ない。この「現実主義」の隆盛ぶりこそ、われわれの時代の精神史の大きな特徴なのだ。その原因は複雑である。サディズム、マゾヒズム、成功礼賛、権力崇拝、ナショナリズム、全体主義ーこれら相互のあいだの関連という問題はほとんど誰もとりあげていないし、こんなことを口にすれば、それだけでも顰蹙を買う結果になる。・・・比較的新しいのは、(一)勝ち負けにかかわらず正しいものは正しい、(二)弱者をいたわれ、という従来当然とされていた考え方が、大衆文学の世界からさえ消えつつあるという現象なのだ。・・・今では純文学作品を読んで英雄と悪漢を区別しようなどと思う人はいないだろう。だが大衆小説となれば、依然として善と悪、合法と非合法が明確に区別されているはずだと考えて読む。一般大衆はだいたいにおいて、知識人たちがとうに捨ててしまった絶対の善と絶対の悪の世界に生きているのだ。だが、『蘭』やこれによく似たアメリカの書籍雑誌の人気を見れば、「現実主義」なる思想がどれほど急速に強まりつつあるかは歴然としている。
 『蘭』を読んで、「これはまさにファシズムだ」と言った人は、いく人もいた。まさに正確な批評である。・・・いかにも全体主義の時代にふさわしい白日夢なのである。空想的なギャングの世界で、チェイスはいわば現代の政治の世界の精髄を描きだしたのだ。そこでは爆撃による市民の大量殺戮、人質の利用、白状させるための拷問、秘密牢、裁判抜きの死刑、ゴム棒による殴打、糞溜めに沈めて殺すような行為、記録統計資料の体系的な改ざん、裏切り、買収、売国行為、こういうことが正常であり道徳的善悪とかかわりがないとされる。いやそれどころか、大掛かりにかつ大胆にやれば称賛さえされるのだ。ふつうの人は政治に直接関心を持ってはいないから、政治のことを読むとすれば、現在の世界の抗争にしても、それを個人をめぐる単純な物語に置き換えたものでないと興味が持てない。・・・庶民は自分に理解できる形の権力を崇拝する。”(『オーウェル評論集』岩波文庫より)
 『名探偵ホームズ』のホームズより、『蘭』のフェナーを崇拝する読者は、リンカーンよりスターリンを崇拝するのである。オーウェルは現代の精神世界をあぶり出す鏡として、『蘭』を使っていた。
 
 映画版『蘭』=『傷だらけの挽歌』は、1960年代後半のアメリカン・ニューシネマが実存主義に足場を置き、個人の欲望が社会と相容れない不条理な現実を描き、組織と人間の問題を浮かび上がらせたのに呼応した作品である。ほんの些細な成り行きで、虫けらのように殺されてしまう組織のなかで、異常性格者の恋愛を通して実存的な人間性と、名誉にこだわる富豪の非人間性が描写される。救済の無い物語であった。

[参考書]
 ハドリー・チェイス(井上一夫訳)『ミス・ブランディッシの蘭』(創元推理文庫,1959年)
 ハドリー・チェイス(井上一夫訳)『蘭の肉体』(創元推理文庫,1972年)
 ジョージ・オーウェル(小野寺健訳)『オーウェル評論集』(岩波文庫,1982年)
 北村薫・小森収『ベスト・ミステリ論18』(宝島社新書,2000年.品切)  

2008年1月26日

DVD
乱闘街

1947年
英国
79分
 マイケル・バルコン制作、イーリング・スタジオのチャールズ・クライトン監督、脚本T・E・B・クラーク、音楽ジョルジュ・オーリックのジュブナイル・ミステリー。原題は「Hue and Cry」。
 少年ジョーは新聞の連続探偵小説の漫画に魅かれます。偶然に物語に登場するのと同じ番号のトラックを目撃し、積荷の木箱には死体が入っているはずでした。しかし、箱の所有者はジョーを盗みに入った不良として警察に通報します。警部は少年の空想癖を諌め、働き口を紹介します。けれども、ジョーの推理はおさまりませんでした。作者に会って、原作が改ざんされていたことを知り、物語がギャング団の暗号に使われていることを確信します。出版社の社員ノーマンを友人にして翌日の原稿を入手したジョーは、大きなデパートへ窃盗団が侵入すると予想し、子供たちで張り込みます。しかし、悪党たちのほうが一枚うわてでした。警察に子供たちの一団がデパートへ盗みに入ると、密告したのです。
乱闘街 ジョーたちが泥棒を捕まえたと思ったのも束の間、それは夜警と通報を受けて張り込んでいた警官でした。万事休す。子供達は下水道に逃げ込みます。初めのうちは、パトカーがマンホールの上に停車していたため、下水道から出ることが出来ず、絶望する子供もいました。やっとのことで外に出られた子供たち。
 翌日、両親からひどく叱られた少年たちは責任をめぐって喧嘩になります。しかし、なぜ少年たちの計画が洩れたのでしょうか。出版社のノーマンの情報から社の女秘書が小説に暗号を入れていると推理したジョーは、彼女を尾行する案を出します。尾行作戦は彼女に巻かれてしまって失敗しますが、別の情報から彼女の自宅が判明。女を縛りあげて、探したもののそこに改ざんの手がかりはありませんでした。少年たちが立ち去ろうとしたとき、手の甲に刺青をした男が拳銃を構えて出現。やはり一味は存在したのです。パチンコで彼を一度は倒したものの、警察を呼ぼうとした隙に、二人に逃亡されてしまいます。
 いよいよ強盗団が動き出したらしく、一網打尽にする作戦をジョーは考えます。作家に直接交渉して一味が集結するように物語を変えてもらうのです。その計画をジョーは得意になって自分が働く市場の親方に話しました。親方は警部と友人なのです。
 さて、口コミで集めた少年の大群が関係する大捕り物が始まります。

2008年1月23日

DVD
敬愛なるベートーヴェン

2006年

USA
104分
 原題はCopying Beethovenで、Copyは「(ベートーヴェンの楽譜を)写譜する」という意味の他に、映画の中でも使われていますが、「(ベートーヴェンの音楽を)模倣する」という意味もあります。ともに主人公アンナの取る行動です。
 馬車に揺られて女性アンナ(ダイアン・クルーガー)が、マエストロの危篤の場にかけつけます。女性は来る道々、「大フーガ」を聞いたと言います。死に瀕しているマエストロはベートーヴェン(エド・ハリス)でした。ベートーヴェンは「分ってくれると思っていたよ。・・・嵐が私に近づいてくる」と答え、明るくなった窓辺を見て、「朝か」とこと切れます。1827年、溶暗。
 1824年、ウィーン。アンナはシュレンマー氏を訪れます。シュレンマーはいわばマネージャーで、4日後に初演が迫っているのに合唱のパート譜ができていない交響曲第9番のために優秀な写譜師・コピーストを要請したのでした。音楽大学の優秀者を送ってもらう筈が、なぜ女性がといぶかるシュレーマン。アンナは自分は首席だったと告げます。作曲にも関心が高いアンナは猛獣(beast)と恐れられているベートーヴェンの調性について「ベートーヴェンならこうするはず」という修正を施して写譜をしており、ベートーヴェンに認められます。耳が聞えにくくなっているベートーヴェンはオーケストラを指揮でうまくコントロールすることができません。
敬愛なるベートーヴェン 第9番「合唱」の初演の日、アンナは指揮者のスタンド・インを務めます。弦楽器の後ろのアンナの指揮を見てベートーヴェンが指揮をするのでした。第4楽章の合唱ではアンナはベートーヴェンの存在を忘れて目を閉じ、恍惚として指揮をし、ベートーヴェンもシンパシーを感じて自身の内部の音楽によって振りぬき、初演は大成功を納めます。聴衆は総立ちで、大きな拍手。けれどもベートーヴェンには聞えません。アンナは彼を聴衆の方に向かせます。すると割れんばかりの拍手。しかし、このクライマックスはまだ映画の半分でしかありません。監督や脚本家たちはむしろこの後半の「大フーガ」の章に作品の主張をこめたようです。
 ベートーヴェンが「神の意志」を聞き、書き付けた曲は「大フーガ」。感想を求められたアンナは「醜いわ(ugly)」。彼は「醜いが、美しくもある。分らなければ美意識を鍛えろ。腹の底をえぐるような音楽だ。新しい言葉だ。神の言葉だ。二人で完成させよう」と答えます。彼は交響曲第9番の譜にアンナへの献辞を書いていました。アンナは自分の作曲を見せますが、ベートーヴェンは「理知的だが、オナラの連発みたいだ」とオナラ節を口ずさみながらピアノ演奏してみせる。いたたまれなくなって立ち去るアンナ。ベートーヴェンは自分の無神経さを必死に謝るがアンナの怒りはおさまりません。ベートーヴェンはアンナが身を寄せる修道院にまで来て、アンナの曲を評価し、手直ししたことを告げ、謝罪します。写譜を続けることにするアンナ。ベートーヴェンは構造にこだわらない曲を作り出します。彼は、耳が聞えなくなって、無音(silence)の世界に入り、魂の声を聞けるようになったのだと言います。アンナはピアノで弾きながら自分の曲を譜に書き付け、理解しようとします。
 アンナの恋人で工学士のマルティンの設計した模型の橋を品評会で、ベートーヴェンは「魂が無い」と酷評し、突然持っていた杖で打ち壊します。大公も「あの橋は好かぬ」と批評。面目をつぶされたマルティンは、アンナに「あの男に近づいたら縁を切る」と宣言。
 アンナはベートーヴェンを批難します。しかし、ベートーヴェンはアンナもマルティンの橋を評価していなかったことを見抜き、アンナの曲を「単純で力強い」と評価し、「ベートーヴェンを模倣(コピー)しているのが欠点だ。ベートーヴェンは一人でいい。大フーガを完成させれば君は私から解放される」と告げるのでした。
 弦楽四重奏曲、大フーガは完成しましたが、演奏は聞き手が途中で次々と立ち去るほどの不評。聞き手の大公は難聴のせいだと言います。しかし、ベートーヴェンは気にしませんでした。その場で突然倒れた彼はベッドの上からアンナに指示し、弦楽四重奏の新しい曲を書き取らせるのでした。「調性は無い。仕事の完成に対する神への感謝の歌(讃美歌)だ」と言って。彼の魂は天に上り、神とひとつになる。
 冒頭に戻って、ベートーヴェンが亡くなった翌朝、アンナは外に出ます。夜明けの草原に交響曲第9の合唱が響きます。「大フーガ」は最初は難解な失敗作だという評価でしたが、次第にその真価が認められてきました。

 大フーガをクライマックスとするハーゲン弦楽四重奏団のCDがあります。モーツアルトが編曲した5つの4声フーガ(原曲はバッハの平均律クラヴィーア曲集の2番・5番・7番・8番・9番のフーガ)、モーツアルトの弦楽のためのアダージョとフーガ(KV546)を経て、ベートーベンの弦楽四重奏曲第13番変ロ長調(作品130)と初演時に第13番の最終楽章だった大フーガ(作品133)が収録されています。荒々しく力強い演奏です。
 吉田秀和氏はこんな風に書いています。
 “音楽であって、音楽を越えているものを含んでいて、しかも、『マタイ受難曲』みたいに直接宗教的でないもの。そう、それはベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲だ。作品127以降の五曲の四重奏曲。・・・これが、かつて、私には「究極の音楽」であった。これをきくたびに、私は、音楽には、これ以上はないと信じさせられたのだった。・・・ベートーヴェンの創造の奇蹟は、こうして、彼が一方で「普通の人間」の心を表現するのに成功すればするほど、それを通じて、作品それ自身が、ますます精神化され、品格を高めていった点にある。構造はより自由になり、振幅を増し、一つ一つの声部の動きは表現の浸透性を深め、その訴えかけはますます痛切になる。・・・けたはずれに大きな存在は、おそらく『大フーガ』だろう。これは『ディアベッリの主題による変奏曲』『ハンマークラヴィーア・ソナタ』とならんで、ベートーヴェンの書いた超絶的な大きさ(とそれに見合った内容)をもった作品で、音楽の歴史を通じて、ほかに比べるもののないような、まったく独自の領域をつくりだし、したがって自分たちだけで一つの領域を独占している、といった作品である。巨大で、測りしれないもの。”(『私の好きな曲』より)
 井上和雄氏は大フーガに原初的な怒りを聴き取ります。“これは暴力である。しかしこの剥き出しの暴力の何という美しさであろうか。この怒りの何という壮絶な美しさであろうか。彼はこれまで生きてきたあらん限りの悲しみと怒りを込めてフーガの中へ入っていったのである。”(『ベートーヴェン 闘いの軌跡』より)

[参考書]
 井上和雄『ベートーヴェン 闘いの軌跡』(音楽之友社,1988年) 絶版
 吉田秀和『私の好きな曲』(ちくま文庫,2007年.もとは1977年)

2008年1月12日

DVD
ヘブンズ・アバーブ

1961年

英国
115分
 ピーター・セラーズ主演の英国喜劇。セラーズはキートンのように表情を変えずに奇妙なふるまいを何の苦も無くやってのけてしまうところに可笑しさがあるのですが、その可笑しさは翻訳の字幕で見ている私たちには理解できないところがあります。
 この映画でも、見境いも無く人々の善意を信じる牧師(ピーター・セラーズ)が引き起こす大騒動を扱っていますが、セリフの可笑しさや間など日本人には理解できないところがあるように思います。
 村に派遣する牧師の名前はスモールウッド、副司教の秘書が名簿カードの順番から同姓の別人に依頼してしまいます。刑務所で囚人の教誨師をしていた牧師が突然、村の牧師に任命されます。彼は妥協の無い、聖書に忠実な信仰心の厚い牧師でした。
 大雨の日に自分を車で駅から教会まで送ってくれたゴミ収集車の運転手を感謝の気持から教会の管理人に任命してしまう。工場建設のため地上げで立ち退きにあったホームレスの一家を教会に住ませてしまう。金満家に慈善心を起こさせ無料で人々に際限なく食料を配給させてしまう。社会の約束を無視した、牧師の良心が引き起こす迷惑が描かれています。
 村の人々にいわばたたき出されて、彼はロケット発着場で宇宙飛行士に説教する仕事をすることになります。宇宙飛行に気乗りしない飛行士の話を聞いていた彼はある計画を思いつきます。それは文字通り、神に近づく道でした。

2008年1月11日

DVD
マダムと泥棒

1955年

英国
90分
 アレグザンダー・マッケンドリック監督の傑作のDVDを入手できました。イーリング・コメディの代表作。監督はその後渡米して、傑作『成功の甘き香り』を撮ります。マダムと泥棒 ケイティ・ジョンソン
 警察を訪れては些細な事件報告をするウィルバフォース老婦人(ケイティ・ジョンソン)は、警察にとっては、ちょっと迷惑な存在でした。
 そんな彼女のもとへ下宿を頼みに来たのは教授と名乗る男(アレック・ギネス)。そして、弦楽五重奏の仲間だという男たちは実は銀行の現金輸送車の金を狙う盗賊団。中年の少佐(セシル・パーカー)、殺し屋ルイ(ハーバート・ロム)、若手のロビンソン(ピーター・セラーズ)、愚鈍なローソン(ダニー・グリーン)。彼らが住む2階の部屋では、レコード・プレーヤーでボッケリーニのメヌエットをかけて、練習しているふりをします。マダムと泥棒 アレック・ギネス
 現金を強奪した後、金属ケースを大きな皮箱に入れ、いったん駅に預けた直後に、老婦人に依頼して引き取らせる。まさか老婦人の荷物に盗まれた大金が入っているとは思われないため、警官や職員のチェックもほとんど無い。老婦人当人も教授に依頼されただけで中身を知らないため、淡々としたもの。
 ところが、無事難関を通過したと思ったものの、タクシーから突然降りた老婦人は馬をたたく農場の青年を注意し始めます。遠巻きに見守っていた盗賊団の面々は焦ります。注意されて憤慨する青年と勢いで喧嘩に巻き込まれるタクシー運転手。周囲の人々も一緒になって大騒動。とうとう警察沙汰になってしまい、くだんの大荷物はなんと警察署の入り口に置かれたままです。盗賊団の面々が成り行きに一喜一憂する反応が可笑しい。マダムと泥棒 ロム、セラーズ
 警察官が老婦人のためにわざわざ家まで荷物を運んでくれます。盗賊団は中身を確認して箱いっぱいの紙幣に大喜びします。翌日、部屋を引き払う5人は演奏会に出かけるという名目ですが、最後に出たローソンのチェロケースのひもが玄関に引っかかってしまいます。無理に引っ張ったところケースが開いて中の紙幣が散乱。老婦人に目撃されてしまいます。
 困った盗賊団は老婦人の口封じを考える羽目に。しかし、賊の面々は婦人の友人のお婆さん連中の相手を命じられたり、婦人の殺害役を誰にするかで仲間割れしたりと、予想もしないトラブルが次々に起こります。集まってきたお婆さんたちが声をそろえて「年寄りの人生はつまらない」と合唱する皮肉な場面もあります。
 「crazy」という言葉でカッとなる首領にアレック・ギネス。もっとも凶悪な性格のロム、やや気の弱いセラーズなど、盗賊も個性的。

[参考書]立川談志『談志映画噺』(朝日新書,2008年11月)より

 ストーリーを簡単に言えば、「泥棒たちの仲間割れ」とでも言っておこうか。よくあるパターンだが……。
 こちらは名優アレック・ギネスの独壇場。あのアレック・ギネスだよ。「サー」と称号のつくギネスだ。その彼の怪演の一挙手一投足が“いい”なんてものじゃない、アステアのダンスと同じように“タ・マ・ラ・ナ・イ”のだ。
 長い時間をかけてソフィスティケイティッドされた、欧米の舞台文化、エンタティンメント・テkゥニックの奥深さが感じられるのであります。
 若きピーター・セラーズもちょいと顔を出しているが、こちらはどおってこともない。だいたい、ピーター・セラーズとか、イタリーのアルベルト・ソルディなんてなア、家元、からっきし駄目なのだ。興味がない。ついでにフランスの馬面フェルナンデルも、ルイ・ド・フィネスもね……。イギリスで一時ノーマン・ウィズダムというのを売り出そうとしたが、これもダメ。(中略あ9
 ただ、ピーター・セラーズの「さほどでなかった」あたりが、アメリカ人には程がよいのだろう。アメリカ人は何でも笑う。(2008年11月14日付記)

2008年1月10日

DVD
シャーロットのおくりもの

2006年
USA
97分
 シャーロットはクモの名前。子ブタとクモの友情を描いた名作童話の映画化。
 原作のモデルになったクモはコガネグモの一種ですが、映画化に当たって監督らは女性的でないコガネグモは採用せず、コモリグモのイメージを尊重したといいます。ただし、コモリグモは網を張らないクモです。シャーロット 蜘蛛
 小さく生まれた11匹めのブタを育てる少女ファーンを演ずるのはダコタ・ファニング。ブタのウィルバーの声はドミニク・スコット・ケイ。
 春生れの子ブタはクリスマス前には燻製にされるしきたり。納屋のクモ、シャーロットは友達になったウィルバーのために、なんとかそれを阻止しようとします。シャーロットは網に「特別なブタ SOME PIG」などの文字を紡ぎだすことで注目をあつめ、奇跡のブタを演出します。農場も納屋も一時的に話題にはなりますが、ヒトの噂はやがて立ち消えます。「最高 TERRIFIC」という文字を経て、品評会に出たウィルバーのためにシャーロットが紡いだ文字は「ひかえめ HUMBLE」でした。品評会で特別賞を受賞したウィルバー。シャーロットは産卵して力尽きますが、ウィルバーは卵のうを納屋に持ち帰ります。冬が過ぎ、春に出のうした子グモは、バルーニングで飛び立っていくのでした。
 動物たちの映像は実写とCGとアニマトロニクス(模型動作)を合わせたもので、口の動きはCGで作ったそうです。動物たちが口を動かして英語で話すのは奇妙な感覚ですが。
 オーウェルの『動物農場』では、ブタは悪知恵の働くリーダーでした。本作には善意の動物たちだけが登場します。

2008年1月8日

DVD
ラベンダー・ヒル・モブ

1951年

英国
78分
 『カインド・ハート』同様のイーリング・スタジオ製作のイーリング・コメディのひとつ。『ワンダとダイヤと優しいやつら』のチャールズ・クライトン監督、T・E・B・クラーク脚本、撮影ダグラス・スローカム、音楽ジョルジュ・オーリック。
Lavebder Hill Mob モブとは一味のことです。南米で大金を使っている英国紳士がいました。英国で金塊を運ぶ仕事をしていたホーランド(アレック・ギネス)です。彼は連れの男に自分が金持ちになった経緯を語り始めました。
 鉛のエッフェル塔を製作するペンドブリー(スタンリー・ホロウェイ)と知り合った途端、ホーランドは盗んだ金塊を外国へ輸出する手段を思いついたでした。仲間二人の協力も得て、金塊強奪計画は上手くいきます。ホーランドは体を張って金塊を守った英雄扱いされる始末です。陰でこっそりエッフェル塔に金塊を鋳造し、販売保留品としてパリに送ったところまでは良かったのですが、エッフェル塔のキオスクで問題の塔が6個販売されてしまいました。購入したのは英国の少女たち。なんとか取り戻そうと奔走するホーランドとペンドブリー。あと少しのところで1個だけ塔が警察に渡ってしまいます。強引に奪取してパトカーで逃走しますが。・・・・ペルーに高飛びして金塊を売りさばき、大金持ちになったというのですが、エンドタイトル直前、連れの男はやっとホーランドを捕えた刑事だったことが分ります。
 無情なシック・ジョークはこめられていませんでした。良質のクライム・コメディ。最近のアメリカ映画の早いテンポに比べると、テンポが遅いのが特徴です。オードリー・ヘップバーンが最初の方で、ホーランドが使うチップをもらう女性チキータとして登場します。ほんの1分ほどの出演。

2008年1月6日

DVD
カインドハート

1949年

英国
102分
 刑務所の死刑執行前夜から始まります。明朝処刑される予定の囚人は公爵ルイ(デニス・プライス)だ。公爵は犯罪に至った経緯を書き残す。
 貧しいイタリア人歌手と駆け落ちして勘当されてしまった母親のもとで育てられたルイは、母の死をきっかけにダスコイン公爵一族への復讐を誓いました。標的になる公爵家の人々をアレック・ギネスが8役で演じます。Kind Heart舟の繋留を解いたり、発火装置を使ったり、毒薬を酒に入れたり、気球を弓矢で打ち落したりと、ルイの殺人はなんの感傷もなく次々に成功して、ルイはとうとうダスコイン家の相続人になり、美しい未亡人イディス(ヴァレリー・ホプソン)の後がまにおさまりかけます。やや高飛車なところもあるイディスが、ルイのわざとらしい思いやりの言葉に簡単にだまされてしまいます。ところが、幼馴染みで恋人でもあったシベラ(ジョーン・グリーンウッド、奇妙な声です。英国のコメディでは有名な女優)の夫ライオネルを殺したという容疑がかけられ、有罪になってしまいます。
 死刑を目前にしたルイにシベラが面会に来ます。彼女は借金で行き詰まったライオネルの自殺の遺書を隠しているようです。しかし、それを公開する条件として言外ではありますが、自分との結婚とイディスの殺害を持ち出します。ルイは承諾します。
 さて、死刑執行直前に執行中止の命令が下り、晴れて刑務所を出たルイの前にはイディスとシベラ、二人の女性が待ち構えていました。さて、どっちを取るか、「女か、虎か」というような選択肢です。ふとルイは思い出します、刑務所内の机上に徹夜で書いた殺人告白書を置いたままにしてしまったことを。
 監督・脚本ロバート・ハーメル、撮影ダグラス・スローカム。英国にはKind hearts are more than coronets 優しい心は宝冠に勝るという諺があります。この場合のカインド・ハートには殺人者の皮肉がこめられています。

2007年12月以降に見た 日 本 映 画 (邦画)
見た日と媒体 作 品        感  想       (池田博明)
2008年5月12日

DVD
有頂天ホテル

2006年
136分
 三谷幸喜脚本・監督作品。多くの役者が登場するものの、キャラクターがよく描き分けられているので、 理解しやすい物語になっていました。
 大晦日のパーティでYOUが『スィート・チャリティ』のナンバー「If My Friends Could See Me Now」を歌う。 “ギャング仲間のみんなに 今の私を見てもらわなきゃ、・・・・ルンペン仲間のみんなに 今の私を見てもらわなきゃ、・・・・ 今夜生まれ変わった新しい自分がいる”、この歌を使う映画を作りたかったというのが三谷監督の言葉です(DVD特典のコメンタリーより)。 
 登場人物それぞれが抱えている問題がぶつかり合って、少し形を変えます。映画の中の時間が実際の時間とほぼ同じ時間で進行します。
 客室係の堀内敬子とボーイの川平慈英の早い会話がとてもよいテンポを作り出しています。はにかみやの筆耕係がオダギリジョーとか、役者さんが意外な役割で登場してくるので楽しめました。
 5月14日、三谷監督最新作『ザ・マジックアワー』が完成したそうで、これも楽しみな作品。
2008年5月8日

録画
ロマンス

2008年1月 
WOWOW
 井上ひさしの戯曲で、演出は栗山民也、チェーホフの半生を描いています。 世田谷パブリックシアターでの2007年9月の舞台を収録したもの。
ロマンス 井上ひさし この戯曲が面白かったので、チェーホフの小説も戯曲をすぐにでも読んでみたくなりました。大学時代にロシア語のテキストでチェーホフの短編を使ったことがありますが、それ以上は読んでいなかったのです。
 遅筆の井上ひさしのことです。モスクワ芸術座の女優でチェーホフの妻となるオリガ役の大竹しのぶのコメントから推測しますと、 台本が完成したのは本番直前だったようです。兄チェーホフのマネージャーに徹した妹マリヤ役に松たか子、少年チェ−ホフを井上芳雄、 青年チェーホフを生瀬勝久、壮年チェーホフを段田安則、晩年チェーホフを木場勝己。唄入りの喜劇芝居、 つまりボードビルのスタイルで、ピアノ伴奏は後藤浩明、音楽は宇野誠一郎。チェーホフ役を複数の役者が演じる、 それも医学生チェーホフを生瀬が演じていた時に指導教授の役だった段田が、 次の場の壮年時代のチェーホフを演じるのが自然に見えてしまうところが、たった6人の芝居でありながら、 舞台に多くの人々を登場させることになり、劇としての広がりを感じさせる結果となります。
 医者でありながら作家でもあったチェーホフ。少年の頃、ボードビル見物にうつつを抜かし、 一家の家計を支えるためにせっせと投稿小説に励んだチェーホフは、作家としての名声を得た後、 小説らしい結構の物語に厭きて、劇作に挑戦します。複数幕の劇作の第四作『喜劇・かもめ』で成功した 彼は『田園生活の情景・ワーニャ伯父さん』『戯曲・三人姉妹』『喜劇・櫻の園』と ボードビルの精神を生かした新しい芝居を書きましたが、同時代のスタニスラフスキーの演出により、 それらの劇は悲劇として上演されており、チェーホフの本質を生かしたものではなかったと、井上ひさしは主張します。 チェ−ホフ自身も知人の手紙に「12分しかつづかない芝居を40分もかけてやっている・・・ スタニスラフスキーは僕の芝居を台無しにしてしまった」と書き送っているそうで、 つい先日、集英社から発行された本『ロマンス』に引用しています。
 晩年のチェーホフ(木場)に逢いに来るトルストイ(生瀬)の苦しみを和らげるための12ケ条が無類に可笑しい。 「何事ももっと悪いケースを考えれば楽観的に考えられる」というアドバイス。例えば、 “指にトゲが刺さったら、「よかった、これが目じゃなくて」と思うこと”、これが第一条です(観客、苦笑)。 そして、第二条は“泥棒に入られて金を盗られたら、「よかった、命まで盗られずにすんで」と思うこと”(観客、爆笑)。 晩年のトルストイはかなり偏屈な老人となり、奇妙な主張をするようになったようですが、それが見事に現れていました。

 さて、チェーホフ劇の台本、例えば『桜の園』を読んでみますと、登場人物が多く、 表面的には小さな駆け引きが中心で、舞台上演でのメリハリが無ければ、主題の把握が難しいと思いました。
 チェーホフの劇が暗い基調の“静劇”かといえば、新演出について新潮文庫の解説にロシア文学者・ 池田健太郎が指摘しているように、“『三人姉妹』は単なる暗い悲しい劇ではなくて、悲劇的な基調と、 喜劇的な色彩の交錯した一種混合的な人生劇であると言うことができるだろう。・・・ チェーホフが『桜の園』を喜劇と呼んで、モスクワ芸術座の人びとを驚かせた話は有名である・・・ その深刻なテーマを別にすれば、実際にボードビルあるいは笑劇的な手法によって書かれている。・・・ 作中人物は確かに笑劇的な人物で、また各幕の各場に喜劇的な所作が繰返されている。”
 チェーホフの劇の中心にボードビルがあるという指摘は以前からあったようです。
 阿刀田高は、チェーホフが13歳のときにオッフェンバックのオペレッタ『美しきエレーヌ』 を見て芝居のとりことなったと紹介しています。チェーホフは、『ハムレット』も『検察官』も軽演劇もなんでも見ただけでなく、 彼は中学の仲間を誘って劇団を作り、上演さえしました。
 チェーホフは傑作短編『可愛い女』では、夫に同化する妻に、こんなふうに言わせています。
 “『裏返しのファウスト』を出しましたら、どのボックスもほとんどがらあきでしたが、それがもしわたしたちヴァーニチカと二人で何か俗悪なものを出したとしたら、さだめし小屋は大入り満員だったに相違ないんですわ。明日はヴァーニチカと二人で『地獄のオルフェウス』を出しますの。”と言わせています。この『地獄のオルフェウス』はオッフェンバックの傑作オペレッタですが、それをあえて「俗悪」と称し、さらには主人公の可愛い女を材木問屋と再婚させて、「自分の腕で御飯をいただいております者には、時間つぶしをする余裕なんかございませんわ。芝居なんぞどこがいいんでしょうねえ?」。
 なかなかチェーホフの真意を理解するのは難しいと言いえるでしょう。この“可愛い”女という形容は皮肉ですから彼女の台詞は上辺だけの言葉でしかありません、真意は逆にあると読む必要があります。
 文芸評論家・佐々木基一はチェーホフの作品世界を“絶妙のイロニー(反語)”というキーワードで解説しています。

[参考書]
 井上ひさし『ロマンス』(集英社,2008年) 舞台写真収録
 阿刀田高『『チェーホフを楽しむために』(新潮社,2006年)
 チェーホフ(神西清訳)『かもめ・ワーニャ伯父さん』(新潮文庫,1967年)
 チェーホフ(神西清訳)『桜の園・三人姉妹』(新潮文庫,1967年)
 チェーホフ『世界文学全集28』(河出書房新社,1961年) グリーン版

2008年5月1日

録画
扉は閉ざされたまま

2008年3月29日/4月5日
90分
WOWOW
 ドラマWシリーズの1本。原作は石持浅海の倒叙ミステリー。脚本・深沢正樹、撮影・高間賢治、監督・村本天志。
 ミステリーなので詳細に内容に触れるわけにはいきませんが、動機の設定、犯人の女性関係、解決方法などを、変えています。原作の特徴だった閉ざされた扉の前での伏見(中村俊介)と優佳(黒木メイサ)の推理合戦は後退して、殺人の動機が詳しく描かれます。
 伏見には心臓の病気を持つ恋人がいて、移植以外に助かる道はありませんでした。幸い心臓の提供者が現われ、移植手術そのものは成功し、いったんは希望が持てたものの、彼女は移植臓器による肝炎ウィルスの感染から劇症肝炎で命を落としてしまいます。伏見はあらためて強く、ドナーは汚れた臓器を提供してはいけない、患者に不幸をもたらしてしまうからと考えます。
 原作では扉が壊されますが、映画では外から窓ガラスが割られます。また、原作では犯人が犯罪を告白する場面はありませんが、映画では犯人がその理由とともに犯罪を仲間の前で告白します。

[参考]石持浅海『扉は閉ざされたまま』(祥伝社文庫,2008年)

2008年4月30日

ビデオ
斬り込み

1970年

88分
日活
 澤田幸弘監督の第一作、脚本・永原秀一、音楽・鏑木創、撮影・高村倉太郎。
 日活ニューアクションの傑作のひとつ。全編にわたって、郷田組の若頭・花井(郷瑛治)に象徴される役者の深刻な表情が続く。気を抜けるところが無い。全篇、「殺し、殺される」という異様な緊張感が画面にみなぎっている。

 直人(藤竜也)が川崎駅前でチラッと太陽を見上げる、そのサングラスに「斬り込み」のタイトル。競馬や競輪の上がりでしのいでいる小さな組・郷田組のシマを狙って関東連合会が乗り込んでくる。酒場でケンカをしかける。争いで鉄砲玉が刺殺される。その葬儀を郷田組内の寺で大々的に行い、手打ちで地元の組を傘下に入れていく。勢力拡大のためには邪魔者を徹底的に消す。手段を選ばぬ謀略が始まる。関東連合会の参謀は椿(青木義朗)である。郷田組長(高城淳一)が詫びの印に持ってきた指を、椿は「我々はそういうものは好まない」とあっさり拒絶する。「お宅のシマが欲しい」と単刀直入に言い放つ冷静さが不気味である。
 映画が始まって15分ほど立って初めて渡哲也が登場する。関東連合会の会長・松永(小堀明男)らを襲撃しようと料亭の菊亭に忍び込んできた郷田組の組員たち(藤竜也、岡崎二朗、沖雅也、藤健次)を、警戒が厳重だから危険と諭して帰す。見張りから奪った匕首を鴨居に突き刺して去る見事さで、主役の登場が鮮烈に印象づけられる。斬り込み
 関東連合会・松永に組をつぶされて、一人生き残った庄司新(渡哲也)は、郷田組の様子を見ながら復讐の機会をうかがっていた。次第に郷田組の組長(高城淳一)や代貸(長弘)は関東連合会の言いなりになってしまい、街の支配の勢力均衡に影響力をもつ隠居した組長(中村竹弥)までも組員に殺させてしまう。佐伯港運のシマを分捕るために関東連合会は再び同じ手口を使う。鉄砲玉の死体が必要だ。郷田組の猛(藤健次)が、関東連合会の暗殺者・白井(曽根晴美)に殺される。花井は組長に付いて行けないと宣言、花井に同調した次郎(岡崎)や雅美(沖)が、そして花井の妻(扇ひろ子)までが殺されていく。集団就職で岩手から出てきた少女(青木伸子)に、同じ岩手から出てきた次郎は「幹部になって金持ちになる」と夢を話していたが、所詮そんな夢は虚妄だったのだ。暴力団の組織の中で消耗品のように殺されていく若者たち。非情な殺戮に合う若者たちは渡哲也主演の『無頼・黒匕首』(小沢啓一監督、1968年)にも描かれていた。
 夜の決闘で新は白井を倒した。翌日、猛の葬儀の式場に、花井や新、そして直人(藤竜也)が最後の落とし前をつけるために乗り込んでいく。激しい闘いの末に、最後に生き残ったのはまたしても新だけだった。ラストの俯瞰ショットは、新の孤独を浮き彫りにする。
 義理や人情が省みられない権力闘争と、勝った者が正義だという非情な世界を背景に、暗闘の無意味さを描いた傑作。ジョージ・オーウェルがハドリー・チェイスの『ミス・ブランディッシの蘭』を論じた状況と同様のことが、日活ニューアクションの時代にも言えるのだ。

[参考]西脇英夫の名著『アウトローの挽歌』)(白川書院,1976年。『日本のアクション映画』現代教養文庫として改版)より、引用。
 “69年8月、当時の日活の状況から監督昇格もまず無理かとあきらめていたおり、小沢啓一などの推薦もあって、とにかく一本撮らせるからという話が来た。その前に、会社からは藤原審爾の『赤い殺意』はどうかという話があったが、やるならアクション映画、それも鉄砲玉を主人公にした<チンピラ特攻隊>のようなものをやりたいからと退け、材料を集める。こうして企画の段階から入り込みながら、第一回作品『斬り込み』が完成した。・・・沢田幸弘の作品にトータルに見られる男のイメージは、ファーストシーンからラストシーンまで、まるで変わろうとしない攻撃のエネルギーである。思いとどまるということを知らないチンピラどもの熱気はほとんど悲劇的とも見られるほどだが、それこそが、より現代的な男のロマンチシズムであるとも言える。”

2008年4月2日

録画
マエストロ

3月28日
110分
WOWOW
 WOWOWの2006年12月5日放送のドラマWの再放送。篠田節子原作の美人バイオリニスト・神野端恵の栄光と転落の物語。監督:星護、脚本:平見瞠、音楽:佐橋 俊彦。
  ロイヤル・ジュエリーの広告塔、女性バイオリニスト神野瑞恵(観月ありさ)は、自身の実力を一流半と思い、日々納得の行かない生活を送っていた。ある日、6千万円のグアルネリの音色がおかしいことに気がついた瑞恵は、楽器商の営業の柄沢(中村俊介)の紹介で、バイオリン修理の保坂(長塚京三)と知り合う。
 保坂は代わりのバイオリンを貸す。そのバイオリンが気に入った瑞恵は、確か2千万円と言っていましたねと購入を申し出るが、保坂は熊野の神社のはめ板をはがして作製した自作のバイオリンで、2百万円だという。騙されたと思った瑞恵は購入を拒絶する。しかし、実は瑞恵にコレルリのソナタを弾いてもらうために、保坂が全身全霊を賭けて作った作品だった。
 国立の教育大学で講師として教えることにした瑞恵は生徒の一人・郷田(佐藤めぐみ)から演奏家になりたい、本物のバイオリンが欲しいという依頼を受けて、楽器商の柄沢に探索を依頼する。6百万円で名器が見つかり、いつものように謝礼を受け取る瑞恵。しかし、公人の立場ではこのような謝礼は賄賂に当たることを瑞恵は知らなかった。そのバイオリンは奇妙な音を出すようになった。ニセモノだったのだ。事件はスキャンダルになってしまう。なぜ名器がニセモノにすり変わったのか。そこには保坂の復讐心があった。
 満身創痍となりながら、新しい出発に賭ける瑞恵を再び見つめる保坂の姿があった。

2008年3月22日・3月29日

NHK総合
21:00〜21:55
刑事の現場

NHK
 土曜ドラマ/第3話「運び屋を追え」(脚本・三上幸四郎=演出・土井祥平)。新米刑事・加藤を演ずる森山未来が新鮮で、先週の第2回に続き、見ました。脇を固める姉貴分の瀬戸山(池脇千鶴)、副署長・桐島(真野響子)、係長・伊勢崎(寺尾聡)らもそれらしい。加藤の父親は加藤が子どもの頃に殉職しています。瀬戸山も夫と別居して子育て中。第2回の裏テーマは「親と子」。
 殺人事件が起き、夫が犯人として自首して来た。息子は事件後に帰宅。けれども、子供部屋の明かりが点灯していたという情報に、若い刑事・古川(忍成修吾)は息子が現場に居た可能性を考察する。
 一方、2課の瀬戸山は覚醒剤の運び屋の張り込み。専業主婦(葉月里緒菜)をマークしていた。もと音楽大学出身の夫との間に小学生の息子がいる。本当に運び屋なのだろうかといぶかしむ加藤。伊勢崎は加藤に「動きはじめて確保まで気を抜くな」と助言する。いよいよ女が動き出す。尾行した二人は遂に覚醒剤の受け渡しの現場を押さえる。しかし、犯人確保の寸前に、気を許した加藤は後ろに接近していたやくざに殴れられて気を失う。
 ちなみに、第2話は「48時間の壁」(脚本・尾西兼一=演出・柳川強)。小学校での不審火が続く。加藤は良介と警ら中、校庭でライターを点けた不審者(原田芳雄)を捕まえる。男・鵜飼公平(原田芳雄)は啓吾の小学校時代の担任であった。タクシー運転手殺害現場に残されていた指紋の一つと彼の指紋が一致する。恩師は殺人犯なのか。・・・
 最終の第4話「バスジャック」(脚本・尾西兼一=演出・柳川強)。加藤の父親は拳銃を持って立てこもった犯人を説得しようとして殉職したことが分る。同僚だった伊勢崎が止めるのも聞かずに。そこで、伊勢崎は「生きて帰れ」と若い刑事たちに教えている。その伊勢崎が何者かに襲われ意識不明となる。捜査は県警中心で進められるが、所轄署でも独自に捜査を開始。伊勢崎が以前に捕えて更正中の宏(北村有起哉)が捜査線上に浮かぶ。宏の父親は殺人犯でそれが原因で宏も不良だったのだ。けれども、宏は結婚して男児がおり、その妻(星野真里)は二人目の子供を妊娠中だった。ときどき伊勢崎は宏を訪ねていた。宏は6月に起きた現金輸送車襲撃事件に昔の不良仲間に恐喝されて関わっているようなのだ。県警が宏を連行しようとすると、宏は逃走、バスを乗っ取り、運転手を人質に取った。加藤は宏を説得して人質の身代わりになろうとする。意識が戻った伊勢崎も現場に駆けつけてきた。  

2008年3月1日

フジテレビ

土曜プレミアム
21:00〜23:35
それでも、ボクはやっていない

2007年

フジテレビ・アルタミラピクチャーズ・東宝

143分
 2007年度の映画祭の賞を総なめにした周防正行脚本・監督作品。今夜の放送は「テレビ用編集版」ということだが、どこが劇場版と異なるのかは調査していません。
 身に覚えの無い痴漢事件で否認を続けた結果、起訴され、有罪率99.9%の裁判を受ける羽目になってしまったフリーターの青年(加瀬亮)。裁判官は正しい判断をしてくれるはずだという市民の意識が実は錯覚で、被告人の無罪は警察と検察、つまり国家に対する反逆だという認識が、判決に影響を及ぼすという実態を告発した作品です。
 アクション場面も事件もほとんどなく、出演者はちょっとした仕草や表情の変化で感情表現をすることが多い。それでも引き込まれてしまうのは脚本力と演出力の賜物でしょう。
 容疑者が留置所に収監されて受ける扱いも描かれています。無罪であろうと有罪であろうと、同じでした。つまり、犯罪者として取り扱われます。食事やトイレや私語で、まったく行動の自由はありません。この状況は無実の人間にとってはかなりツラいものです。
 被告の味方と敵をはっきりわけた脚本が効を奏して分りやすいドラマを作っています。味方は友人(山本耕史・斉藤達雄)、母親(もたいまさこ)、弁護士(役所広司・瀬戸朝香)、別れた恋人ようこ(鈴木蘭々)、目撃者(唯野未保子)。敵は取り調べの刑事(大森南湖)、検事(尾美としのり)、副検事(北見敏之)、室山判事(小日向文世)。ただし、悪人だから敵だというのではありません。自分の仕事に忠実で、認識がもたらす偏見を自覚していないだけです。高裁でくつがえされてしまう無罪判決を二度も出したため、担当を外されてしまう大森判事(正名僕蔵)の言葉、「刑事裁判で大切なことは無実の人を有罪にしないことだ」が、重く響きます。「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」「保釈制度」など、司法の原則は現実には絵空事にすぎなかった・・・・

2008年2月22日

DVD
腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

2007年
ファントム・フィルム
 吉田大八脚本・監督。石川県能登半島の、ど田舎に東京から帰って来た姉・澄伽(佐藤江梨子)、ネコを避けて起きた事故で両親が死んでしまった葬式の日でした。実家にしばらく滞在することになった姉。「女優になる!」と故郷を捨てて出て行った女を家族は誰も歓迎してはくれませんでした。
 妹の清深(佐津川愛美)は中学生のとき、女優の夢を実現しようと家族を犠牲にする姉をモデルにホラー漫画を描いて入賞していました。けれども、その漫画のおかげで家族の事情が村じゅうに知れわたってしまい、家族の誰もが肩身の狭い思いをしたのでした。
 兄の宍道(永瀬正敏)は最近、孤児院出身の待子(永作博美)と結婚したのですが、澄伽と肉体関係を持ったときに約束をさせられたらしく、待子はいまだに処女です。待子は歌を歌いながら手作りの呪いの人形を作るのが趣味で、夫に理不尽にいたぶられても「家族ができて嬉しい」と言っている奇妙な状況。
 澄伽の帰宅でフラストレーションを起こす宍道が、待子のおせっかいにイラついて、払ったソバつゆが待子のコンタクトレンズと目の間に入り、待子は失明しかけて入院する羽目になります。けれども、待子は「入院ってものを一度はしてみたかった」と逆境を気にしないそぶり。澄伽と宍道は母親が違うという設定だが、原作では母親が同じなので、近親相姦になるそうです。
 清深に対する澄伽のイジメは強烈です。風呂に熱湯を加えていき、風呂から上がる妹の裸を撮影しようとしたり、村人の前で「和合澄伽は美しい」などという賛嘆の歌をうたわせたり・・・じっと耐えている清深でしたが、実は新しいホラー作品を描き始めていました。
 ヨコハマ映画祭の主演女優賞(サトエリ)・助演女優賞(永作博美)・助演男優賞(永瀬正敏)・新人監督賞(吉田大八)・撮影賞(阿藤正一)を受賞。ベストテン第4位。CMで鍛えた吉田監督の映像は堅実で、松岡錠司が『バタアシ金魚』で鮮烈なデビューをしたときのことを思い出しました。

2008年2月18日

21:00〜23:25
TBS
犬神家の一族

2006年
東宝
 つい先日13日に92歳で亡くなった市川崑監督を追悼して、NHK教育テレビでは昨晩17日(日)に「映像美・市川昆」を再放送しました。今日はTBS系で、市川崑自身のリメイクで遺作となった『犬神家の一族』を放映しました。オリジナルを小田原東宝に見に行った記憶があります。満員でした。
 オリジナルと同じ脚本を使っているので同じような場面が出てくるのは当然ですが、石坂浩ニの金田一探偵を始めとして、弁護士・中村敦夫、警察署長・加藤武、刑事・尾藤イサオ、神主・大滝秀治、皆さん年を取ってきたので、画面に勢いがありません。高齢の割には頑張っていると思うのですが・・・。女優たちの顔ぶれが豪華で、松嶋菜々子(原版では島田陽子、以下同)、富司純子(長女;高峰三枝子)、松坂慶子(次女;三条美紀)、萬田久子(三女;草笛光子)、奥菜恵(三女の娘)、深田恭子(女中;坂口良子)、中村玉緒(宿屋のおかみ)、草笛光子(琴の師匠;岸田今日子)などそうそうたるものです。長女・松子役の富司純子の演技が見ものです。

2008年2月17日

21:00〜21:45
NHK総合TV
謎の海洋民族モーケン

2008年
NHK
50分
 NHKスペシャルの一篇、ディレクターは山本高穂・安川美杉。ミャンマー南部沖、メルギニ諸島海域で一艘の舟に乗り、素もぐりと銛で海の幸を捕って暮らす海洋民族モーケンのある一家の物語。
 ウタンさん一家は妻と3人の息子、3人の娘、そして生まれたばかりの4男の9人家族。真昼の漁だけではない。真夜中に潜って捕るのはナマコだ。燻製にして中国に高く売れるのだという。最近になり、政府はモーケンに定住生活を薦めている。また、水産業振興に力を入れ始めており、立派な潜水具を備えた潜水夫による大量捕獲で一挙に利益をあげようという大企業も海に進出してくるようになった。これまでの豊かな海はアッという間に魚や貝やナマコのいない海に変わってしまったのだ。海の恵みに頼っていた一家の生存が危うくなってきている。

2008年2月5日

21:00〜21:45
NHK総合TV
プロフェッショナル
若き求道者、未踏の地へ

NHK
45分
 プロの職業人をとり上げる番組。
 今夜は若きフレンチ・シェフ、岸田周三。フランスで学んだパスカル・バルボの教えは、「料理人はロボットではない」。食材の様子は毎日ちがう。その状態を見て、火入れの時間も手間のかけかたも決まってくる。そしてソースにこだわらず、素材の味を生かす新しいフレンチの追求。「昨日より今日、今日より明日」絶え間なく進化することこそ必要なのだ。
 岸田は一日16時間、料理のことだけを考えて働いている。朝、起床すると30分間、筋肉トレーニングを行う。立ちつづける仕事で体力を維持するのに必要なトレーニングだという。
 肉をオーブンで1分焼いて、5分休ませる、これを2時間続けると、肉の味を逃さず焼くことができるという。プロフェッショナルの道はきびしく、後が無い。

2008年2月1日・2月8日

日本テレビ
金曜ロードショー

21:03〜23:24
DEATH NOTE

2006年
126分

DEATH NOTE The Last Name
2006年
 金子修介監督、大石哲也脚本、藤原竜也主演の「デス・ノート」。そのノートに名前を書かれると、殺人者に顔を知られた者は40秒で心臓麻痺で死亡してしまいます。警察官を目指す大学生・夜神月(ライト)はデス・ノートを手に入れ、凶悪犯を殺す救世主キラとして暗躍します。リンゴしか食べない死神リュークはデス・ノートを手に入れた人物にしか見えません。
 キラを捕えようと警察の威信を賭けて戦う捜査本部の部長・矢神総一郎(鹿賀丈史)はライトの父親でした。操作に協力する天才エル(松山ケンイチ)はFBI捜査官ネイ・イワマツ(細川茂樹)死亡事件を手がかりに、ライトを疑い始めます。ネイの恋人で元FBI捜査官の南空ナオミ(瀬戸朝香)は独自に捜査を進め、ライトの身辺を探っています。遂に、ナオミはライトの恋人・秋野詩織(香椎由宇)を利用してライトがキラであることを証明しようとします。しかし、デス・ノートは名前を書かれた人間の死に方も演出することができるのでした。
 常に矢神の周辺に出没するコンピュータ・グラフィックで描かれる死神が意表を衝きます。
 原作のアイデアを生かして、うまく編集した脚本が秀逸。
 後編では第2のキラ、第3のキラが出現します。ライトを疑い続けるエルと、捜査に協力するライトの頭脳戦で思いがけない展開が起こります。アマネ・ミサ(戸田恵梨香)を第2のキラと見抜いたエルは彼女を監禁して見張ります。ところが、ミサとライトが監禁されていてもキラの殺人は起こります。ミサについた死神のレムからノートを受け取ったさくらテレビの取材記者・高田清美(片瀬奈那)が仕掛けたからです。所有権を放棄した者はデス・ノート所有時の記憶を無くし、何をしたかも忘れてしまうというルールがあるため、ミサは完全にノートの記憶を無くします。夜神月もノートを手放すことによってデスノートの記憶を無くし、捜査に協力してキラの正体を推理し、捜査陣の疑いを晴らします。
 ミサを無罪放免にした途端にキラの裁きが増加したことをエルは見逃しませんでした。ミサをおとりにして本当のキラをだます罠が始まります。

[参考]まんが版『DEATH NOTE』第13巻

2008年1月13日

21:00〜21:55
NHK総合
新型インフルエンザの恐怖

NHK
55分
 最強ウィルス第2夜の調査報告。虫明英樹取材、斉藤真貴ディレクターほか。
 2006年5月5日、インドネシアのスマトラ島の小村で一人の女性が死亡した翌日、看病していた家族が発病、6名中5名が死亡するH5N1型鳥インフルエンザが発生。これが人から人への感染が疑われた例で、パンデミックの始まりかと懸念され、WHOの調査と監視が入った。WHOのメディカル・オフィサーは日本人の新藤奈邦子医師、もし治療に当たった看護士に感染していれば封じ込めが必要だったが、幸い感染力が弱かった。
 日本の予測では、感染した旅行者一人が成田空港から国電に乗った日を初日として、一週間後には25万人に感染が拡大するというもの。緊急事態のとき、東京都品川区では区内に4箇所の発熱センターを設置して診療対策をとる予定だが、医師は一人3時間の診察が限度、最大規模の昭和大学病院でもベッド数は千床(その9割は通常使用中)しかなく、人工呼吸器は90台だけと、想定される1日480人という感染者をさばける能力は到底ない。協力してくれる医療従事者も確保できるかどうか心もとない。日本の行動計画は地方自治体任せの点が多いのが特徴である。
 パンデミックに対する取組みが進んでいるUSAでは、例えばドライブ・スルー方式で住民へワクチンを接種する方策(オハイオ州)や、6ケ月以内に全住民にワクチン接種可能な生産体制を築くことが準備されている。ニューヨーク大学病院では患者を受け入れるため、手術の中止の手順や年間800台の人工呼吸器の購入、呼吸器取り外しの手続きを決めるなどの対策を取っている。また、USAではワクチンで助ける生命の優先順位も決め、民意に諮っている。国民は高齢者よりも子供の優先順位を上げるように進言する意見が多かった。
 2007年12月にインドネシアで新たに鳥インフルエンザの患者がひとり発生した。パンデミックはいつ起こってもおかしくない。USAの専門家は「パンデミック(感染爆発)は、バイオテロや核の脅威よりも恐ろしい」と表現していた。

2008年1月12日

21:00〜22:30
NHK総合
感染爆発

NHK
90分
 NHKスペシャル、シリーズ最強ウィルス第1夜ドラマ。感染症のフェイズ6がパンデミック・フルー。新型インフルエンザが日本に上陸し、感染が拡大したら、というシュミレーション・ドラマ。脚本は林宏司、演出は望月良雄。
 小さな漁村・与田村で少年がインフルエンザに感染、病原体はH5N1型の新型ウィルスだった。国立感染症予防研究所・奥村(麻生祐未)が確認、東都大学教授・津山(河西健司)は村の「封じ込め」作戦を敢行した。しかし、感染者は東京にも出始めた。与田村の87歳の医師(佐藤慶)は、大澤病院副院長・田嶋(三浦友和)の父親だった。かつて大学の助教授で津山と肩を並べていた田嶋はウィルス学が専門だった。教授選に敗れて医療現場に出た田嶋は病院で斜に構えた医師になっていた。看護婦長(深浦加奈子)や身寄りのない患者・佐伯(藤村俊二)など田嶋を理解する人もいたけれども。
 感染爆発が起こったときのパニックをドラマの形で描く。解説を絵解きしただけの演出で、ドラマとして成功しているとは言えませんが、あり得る事態なので新型インフルエンザの脅威はじゅうぶんに伝わって来ました。プレパンデミック・ワクチン制作、タミフル処方、空港閉鎖、交通規制、非常事態宣言など緊急を要する課題が次々に出現します。USAのCDC(疾病対策センター)のスタッフが乗り込んでくる事態も想定されています。
 第2夜は現地調査のドキュメンタリーです。

2008年1月4日・5日

21:00〜23:15(第ニ夜は23:30)
フジテレビ
のだめカンタービレ in ヨーロッパ

第一夜

第ニ夜
 「のだめカンタービレ」ヨーロッパ篇が二夜連続のスペシャル・ドラマとして放送されました。
主演は変わらず玉木宏と上野樹里。読売新聞のフジテレビ新春広告には各番組のプロデューサーが顔写真入りで紹介されています。プロデューサーの重要度をアピールするのが狙いなのでしょうか。「のだめ」のプロデューサーは若松央樹。のだめスペシャル脚本は衛藤凛、演出は武内英樹。
 第一夜はプラティニ国際指揮者コンクールに挑む千秋の物語。二次予選の課題曲はハイドンの交響曲。無事通過して、いよいよ三次予選。ライバル、ジャンの演奏を聞いてしまい、むきになった千秋のきびしい注文がオケの反発を招き、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を大失敗。二次予選までアニメ・フェスに夢中だった、のだめ達も予選落ちを覚悟します。しかし、審査員や聴衆は自分の音楽を作ろうとする若者の苦闘を評価して、可能性に賭けていました。
 本選での抽選による協奏曲はチャイコフスキーのバイオリン協奏曲。そしてこれまで演奏した中から選ぶ自由曲に千秋はオケからそっぽを向かれた「ティル」を選びます。日本でSPオケで最後に楽しくのびのびと演奏した記憶を思い出して、千秋は本選で指揮できる喜びを率直に表現し、圧倒的な一位を獲得します。日本にいる仲間たちにもメールで結果が伝えられます。ちなみに、日本に残る仲間たちは添え物出演です。
 のだめの他に、同じアパルトマンの住人にフランク(ウェンツ瑛士)とターニャ(ベッキー)が加わってドタバタがくり広げられますが、基本的には指揮者コンクール中心の展開で単純なストーリーになっています。
 第ニ夜。コンセルヴァトワールに入学したのだめは、授業についていけず、すっかり落ち込んでしまう。一方、シュトレーゼマンの世界ツアーに契約させられる千秋。日本公演のステージでソン・ルイ(山田優)がラフマニノフのピアノ協奏曲第3番で千秋と共演。ルイに対抗心を抱いたのだめは、彼女が以前に弾いたリストの「超絶技巧練習曲」に取り組み、フランス留学を勧めた人物オクレール(マヌエル・ドンセル)のレッスンで「好きな曲を弾いてごらん」と言われてリストを完璧に弾くが、オクレールは「難曲を上手に弾けるひとは何人もいる。君はいったい何をしたいのか」と言う。
 シャトーでのリサイタルをのだめに提案したオクレール先生はモーツアルトのピアノソナタ第18番を課題にする。何を表現していいのか分らないのだめは苦しむ。先生はのだめの自作の曲集を弾いてみせ、助言する。そしてさらに、日本でのだめがコンクールで弾いたシューベルトのソナタを弾かせて、曲の本質のつかみ方を思い出させる。街の教会で聖歌隊が歌うモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を聴いて、のだめは空気をつかむ。音楽は「ひとに聞かせて、感情を共有すること」が大切なのだ、と。
 シャトーで、のだめはモーツアルトの衣装で初リサイタル。「キラキラ星変奏曲」、ピアノソナタ第18番、ラベルの「道化師の朝の歌」で大喝采を受ける。
 一方、千秋のヨーロッパ・デビューはブラームスの交響曲第1番だった。
 第ニ夜はのだめが音楽で何を表現していいのか分らず苦しむ姿が描かれ、興味深い物語になっていました。

2007年12月30日

NHK教育TV
大東京の真ん中で、一人〜詩人中原中也を歩く

90分
 ETV特集で中原中也をとり上げました。作家の町田康が案内役となって中也にゆかりの風景を訪ね歩き、詩を朗読します。他にも歌人の福島泰樹が伴奏つきで中也の詩を朗読したり、シャンソン歌手が「汚れっちまった悲しみに」を歌ったり、佐々木幹郎の監修で東京芸術大学の学生たちが語りと歌で中也の世界を表現したりします。
 山口の田舎から東京に出て生活するようになった中也の都市生活に対する違和感に焦点が当てられた番組でした。近年、精神病院での『療養日記』や晩年の『ボン・マルシェ日記』が発見され、それらの資料を基にした晩年の中也の精神世界が紹介されました。旧版の角川書店版の中也全集を持ってはいるものの、読んではいない私には初めての知識も多々あり、興味深く見ることができました。
 私が中原中也に関心を持ったのは中学の国語の参考書に口語定型詩の例として載っていた「月夜の浜辺」(月夜の晩に ボタンがひとつ 波打ち際に 落ちていた)でした。詩集『山羊の歌』の初期の詩、ダダイズムやランボーに魅かれたという中也の心情やボヘミアン志向にも共感できました。
 「月夜の浜辺」には曲を付けて夏休みの音楽の宿題として提出したりしました。音楽の堀米先生は休み時間にピアノで演奏して下さったりしましたが、私には恥ずかしい作品でした。「骨」や萩原朔太郎の「竹」に作曲したこともあります。しかし、中学で新しい応援歌を作るコンクールがあって拙作も佳作に選ばれましたが、最優秀作品の闊達さと言ったら、作者の才能を感じさせるもので、私は自分の才能の無さを痛感しました。それ以降、作曲はやめています。
 高校ではロングホームルーム委員だったとき、クラスのLHRでフランス語の詩の朗読のレコードを視聴してもらったり、中也の官能的な詩「みちこ」をガリ版で刷って配布したりした記憶があります。中也の詩の内に在るリズムはたいへん魅力的です。けれども、次第に私には谷川俊太郎のジャズに感化された詩「21」のような詩を朗読するほうが面白くなっていきました。中也の詩の定型のリズムは古くさく思えてしまったのです。
 番組で、あらためて中也の詩の朗読を聞きますと、形にとらわれていない詩のほうが新鮮に響きます。不思議な経験でした。

[参考書]
長谷川泰子『中原中也との愛』(角川文庫,2006年)

シェイクスピア作品の映画化やその関連の映画は除く。
それらは別ファイルになっている。→ 『シェイクスピアの劇と映画


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