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期待はずれの映画「ドクター・ドリトル」が示すもの

1999年4月2日  鈴木康之

 エディ・マーフィーの最新映画『ドクター・ドリトル』(監督:ベティ・トーマス。日本公開は98年12月)の公開を楽しみにしていた。この作品はイギリスの児童文学者ヒュー・ロフティングの『ドリトル先生』シリーズを原作にしている。日本人なら、井伏鱒二訳で岩波書店から全12巻で出ている『ドリトル先生物語全集』でお馴染みのはずだ。本好きの人なら、小学校の頃読んだ覚えがある人が多いだろう。

 しかし、全12巻が比較的簡単に手に入る日本とは違い、ロフティングのドリトル先生の原作は、アメリカではそのうち数冊しか手に入れることができない。これは、第1巻の『ドリトル先生アフリカゆき』の中に、黒人を差別した表現があるためだ。

 アフリカでドリトル先生は、黒人の王様に捕らえられ牢に入れられてしまう。そこから抜け出すために、先生は黒人の王子様の願いをかなえてやる。彼は、近くに住む肌の白い女性に気に入られるために、自分も白い肌になりたいと願っている。そこで、ドリトル先生が不可思議な薬を調合すると、見事に白い肌になって(すぐに元に戻ってしまうが)、王子は先生たち一行を船で逃がしてくれる。

 ロフティングの死後、この部分が問題になって、現在アメリカでは、その部分を改作して出版されている。そのへんでケチがついたのか、アメリカでは、第1巻のほかは第2巻の『ドリトル先生航海記』以外は、ほとんど絶版か品切れだ。物語、文学作品としてのドリトル先生はあまり認知されていない。

 それでも、エディ・マーフィーの映画は、「ああ、あのドクター・ドリトル」と言う反応が返ってくるのは、レックス・ハリスン主演の映画『ドリトル先生不思議の旅』(67年)に負うところが大きい。アメリカで「ドリトル先生」というと、この映画のイメージを持っている人が多いはずだ。

●黒人であるエディ・マーフィーが「ドリトル先生」を演じる

 最初は、『ドクター・ドリトル』の制作スタッフは、67年の映画をリメイクするのだろうなと思ってた。レックス・ハリスン主演の映画『ドリトル先生不思議の旅』は、ドリトル先生シリーズのから、ファンタジックな冒険の部分をうまく取り出してまとめている。

 頭が2つの動物オシツオサレツ(英語ではpushmi-pullyu)、海底を旅行することのできる、大ウミカタツムリ、月へ先生を連れていく巨大な蛾が登場し、僕も子供の頃読んでわくわくした冒険に、すべての動物は正しく遇されるべきだというメッセージが織り込まれた、楽しくてちょっぴり含蓄もある物語だ。

 エディ・マーフィーは黒人である。黒人を差別した表現があるという「ドリトル先生」で、黒人が主人公をつとめるのは面白い。そういった背景を意識したストーリーやギャグを散りばめてくれるだろうかと、楽しみにしていたのである。

 しかし、『ドクター・ドリトル』の出来は、期待はずれだった。インターネットで検索して調べてみても酷評ばかりで、別に僕のように、「あのドリトル先生を黒人が」、という思い入れをもって見なくても、駄作だったことがわかる。

 「ドリトル先生シリーズ」は夢のある冒険物語だが、90年代の『ドクター・ドリトル』は、『ベイブ』(95年)でヒットしたCGとアニマトロニクス(ケーブルや電動で人形を動かす最新技術)による動物映画に、エディ・マーフィーお得意の下半身ネタのジョークを組み合わせただけのものだ。

 下町のネズミや犬が、汚い言葉を連発するのは、それなりに面白いのかもしれないが、動物映画は基本的に子供向けであるのに、台詞が汚いことから、親としては子供には見せにくい内容になっている。これでは、誰をターゲットにしているのかよくわからない。そのせいか、エディ・マーフィーのジョークも空回り気味だ。

●原作のほんの数ページしか使っていない

 ストーリーにしても、エディ・ドリトルは、子供の頃動物と話せる特殊能力を持っていて、それが大人になってから突然復活。本人はその事実がなかなか認められず、最後の最後に、それを認めて、これからは動物の医者もやろうかと決心する、というだけの話。原作なら、最初の数ページにしかならない。

 原作のドリトル先生は、医者にして博物学者、200年生きて人間の言葉がしゃべれるようになったオウムのポリネシアから動物語を学び、研究を重ねて、鳥や獣だけでなく、貝や魚の言葉までしゃべれるようになる。つまり、努力すればだれでも動物の言葉が話せるようになるわけで、これはエディ・ドリトルと根本的に違う。

 ドリトル先生は、動物の診察をするだけではなく、渡り鳥のネットワークを作って、世界中の動物が郵便のやり取りができるようにしたり(当然動物のための文字も開発している)、動物の生活向上のために力を尽くしている。その一方で、ノアの箱船の大洪水を生き延びた年寄りのカメを訪ねて昔の話を聞いたり、巨大な蛾に乗って月世界に出かけたり、冒険談もいっぱいだ。

 たぶん、こんな、ある意味では荒唐無稽の話は、舞台が19世紀だからこそ成り立つのだろう。エディ・ドリトルは、舞台を現代のアメリカに持ってきたことで、足をすくわれてしまった。

 それでも、無理矢理でも、エディ・マーフィーが冒険に出かけて、「こんなそばかす、ニキビだらけの白い肌じゃなくて、黒いつやつやとした美しい肌になりたい」という、白人の王子が出てきたりしたら、面白かったろうにと思う。

 (日本の女子高生を見れば、あながち荒唐無稽でもない。今は黒人のスーパーモデルがもてはやされる時代だ)
 
●ロンドンではミュージカルの「ドクター・ドリトル」がヒット

 ドリトル先生の原作は、動物に対する博愛の精神に満ちているが、有色人種はその輪の外にある。これは、19世紀のイギリスではある意味では仕方のないことだろう。だが、その不適当な部分を削除改作して出版するのは、正しいことだろうか。

 改作したことによって、ドリトル先生は力を失い、アメリカでは、その全作品が子どもたちに読み継がれることはない。差別的記述もそのままの形で出版されている日本では(その経緯については、『ドリトル先生アフリカゆき』の巻末にきちんと説明がある)、子どもたちに広く読み継がれている。

 『ちびくろサンボ』の絶版の問題とか、『トム・ソーヤー』や『ハックルベリ・フィン』が、黒人差別問題のために、アメリカの図書館に置かれないとか、他にも差別の問題で焚書が行なわれてきているが、差別を隠蔽して目を背けることだけでは、そうした問題は解決しないんじゃないだろうか。

 こと、児童文学について、ドリトル先生の全作品を容易に読むことができない、アメリカ、イギリスの人たちは、絶対的に損をしていると思う。僕自身、ドリトル先生の研究を進めたいのだが、すべての原作は手に入らない状況だ。ロフティングに関しては、研究書もほとんど見かけない。

 ただ、『ドクター・ドリトル』の今回の映画化が後押しして、多少原作が手に入りやすくなった状況ではあるようだ。ロンドンでは、ミュージカルのドリトル先生が評判になっている。

 こちらは、BBCの子供番組で人気のある白人のフィリップ・スコーフィールド主演で、『ドリトル先生不思議の旅』とよく似たストーリーで、『ベイブ』でアカデミー賞を取ったジム・ヘンソン・クリーチャー・ショップのアニマトロニクスが秀逸で、船や大カタツムリや巨大な蛾が出てくる大仕掛けの舞台がすごいらしい。

 ロンドンでの人気が、アメリカにも飛び火して、ドリトル先生とヒュー・ロフティングの再評価が進んでほしいと思う。
 ロンドンに行く機会があれば、ぜひ見たいものだと思っている。それが実現したら、また報告します。
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