「熟年留学」のすすめ I

古野

58歳でアメリカンディグリー修得



「熟年留学」で人生の仮決算

19917月から19965月までの、「熟年留学」とも呼べるアメリカの大学への留学体験は、わたしにしっかりした人生の節目をつくらせてくれた。竹が成長するように、つぎの節目をめざして、あらたな想いでスタートしようとしている。いわば、「熟年留学」で還暦を迎える前に人生の仮決算をしたようなもの。錯綜した自分史の整理が出来たようだ。

アメリカの大学のアンダー・グラデュエイト(学部)は、まさにグラデュエイト スクール(大学院)における専門研究のための準備期間、社会全般にわたる知識の獲得と、社会生活のためのスキル、たとえば読み書き、タイムマネイジメントなどを、徹底的に教え込む。

従ってその授業を通じて、塾年者は若い学生とは違って、長年培った自分なりの方法、経験を持っているがゆえに、いやおうなしに、自分の知識の再検討、再評価、再獲得、さらには自分の思考、問題解決の方法の見直しなど、いきつく暇もないほど、考えさせられる。宿題をだだ処理し、試験を無難にくぐりぬけるような学生生活ではない。

たとえば哲学のクラスでは、生きることを、人生を、青春のころとは違う想いであらためて考え、まとめ上げる機会を持つことが出来た。最終ペーパーのタイトルは「The Meaning of Learning」。

履修すべきコースのほかに極力、聴講でクラスに参加してみたが、新知識獲得の楽しさをつくづく感じたものだ。統計学と微分積分を始めとする数学は、応用数学が近代テクノロジーに及ぼしている影響を具体的に学ぶことが出来たし、公衆衛生のクラスでは、自己の健康管理に必要な基本的知識をじっくり教えてくれた。

そのお陰だろうか、いま人生の意味がすこし見えてくるようにも思う。だから、あとは楽しいはずと楽観している。おもいきり自由に人生を満喫してみよう。そんな想いを与えてくれた「熟年留学」にわたしは感謝しているし、同世代の人々、これから「熟年」を迎える人たちにそれを勧めたいと思う。

「熟年留学」のあらまし

19917月から翌年8月までが英語の再履修。9月に学部に入学して以来4年間、日本の履修単位を持ち込まずに、アメリカの若者と同じ条件で、勉強三昧の生活を送る。19965月、BAディグリーをもって卒業。GPA3.54。我ながらよくやったと、あらためて自分のネバリに感心している。日本での評判は、飽きっぽい人ということだったから、評価は少しは変わるかもしれない。


卒業表彰式(成績優秀Cum Laudeで表彰されるGPA3.54)

つらかったのも確かだから、帰国早々は、二度と留学はするまいと思っていたが、2ヶ月もしないうちに、大学院に出願し、107日付けで入学許可をもらってしまった。図書館の改革の方法を研究する予定。資金難ではあるが、気長にやるつもりになっている。3セメスターと1夏期講座で順調にゆけばMLSがとれるスケジュールだが、3、4年掛けて無理せずやってみたい。


New Haven CT

二つの「熟年留学」パターン

「熟年留学」には2つのパターンがあるようだ。ひとつは、学ぶことを趣味にしているパターン。もうひとつは、定年後の第2の人生のための支度、子どものためにではなく、自分への教育投資と考えるもの。

趣味にしているほうがラクそうにみえるがどうして、案外シンドイものだと友人は言っている。なぜなら、定年までの生き方を変える必要がないと思うと、気楽な話だが、実際は生活のやり方を変える必要がある。まず、連れ合いと一緒に行くかどうするかである。

一緒に行く場合でも、たとえば、夫婦が同じ勉学趣味を持っている場合はいいが、違うほうが、大方の定年夫婦の現実であるから、文化摩擦が起きる。あげくのはての定年後の夫婦別居とはいただけない。

一人で行く場合でも、実際に、企業戦士であった男性には、炊事ひとつをとってみても、出来ない人が大多数だろう。いまさら夫唱婦随の家庭生活をしてきたのだから、急にひとりですべてやるといっても、不可能に近い。国内の単身赴任のケースとはすこし違う。

このケースは目標設定が出来にくいので、「流学」とでも呼んだ方がいいかもしれない。長期間滞在を設定しないで、夏期講座だけとか、1学期だけとか、気ままな旅の延長のようにするのが良いだろう。それならば、連れ合いとの折り合いはつくと思う。正直なところ、このパターンをまずはわたしのお勧めとしたい。

最初から気張らない方がよい。滞在中にすこしづつ「自ら進んで学ぶこと」の楽しさを味わい、気が向けば、次のステップに進むといった自在なやり方が本来のわたしの好みではある。今度のわたしの大学院留学はこのパターンでゆく。

もうひとつは、自分への教育投資。これはわたしのケース。

人生80年の計画のなかで、60歳から第2の生活とわりきれれば、そのための投資は当然のこと。投資効率、効果のより良い対象を探せばよい。ビジネスプランを作るつもりで期間約20年の稼動、多少入る年金のことを考慮に入れれば、高望みの必要はない。

時流に乗ったビジネス対象、あるいは収入の目途のあること、資格につながることなどをみつければ、あとはその関連の教科を学べばよい。ただし、途中で変更する可能性があるから、それがやりやすいアメリカの大学は最適。そのための入学には英語が必要。ならば英語学校へと、決定のプロセスは至極カンタンにしたほうがプランは実現する。

大学の授業そのものはプログラムの選択肢も多いし、積極的にクラス参加してゆけば単位はとれる。ビジネス感覚で対応すればOK。学生の評価参加システムもあるせいか、授業内容は概ね面白い。知識欲旺盛だった小学生の頃を思い出した。学ぶことの面白さ、いいかえれば好奇心を満足させてくれること請け合い。

というわけで、わたしの留学は、60歳からの生活手段の獲得のための教育投資だった。

Diploma(卒業証書)


「熟年留学」の3種の神器

ものごとにはコツがある。わたしの「熟年留学」の3種の神器は「コンピュータ」、「禁煙」、そして「菜食」、というと、「コンピュータ」はなんとかわかるが、「禁煙」と「菜食」はどうしてと質問が返ってくる。

近代産業社会の中心技術は「コンピュータ」であるし、その社会で上手く仕事をしようと思うのなら、その技術になじみがあるほうが社会のことが良く分かる。「コンピュータ」を使えることは、勉強の生産性からみても、大切な条件。たとえば、スペルチェック、グラマーチェックはペーパーには絶対必要。あるいは、「コンピュータ」で代表される現代社会を語り、その中で生きるのならば、すくなくとも、近代技術に対する考えをまとめておくべし、というわけ。

「禁煙」は社会との関わりを象徴的に示すバロメーター。「禁煙社会」のアメリカであなたがどう思われるか考えてごらんなさい。喫煙者の友人はアパートを見つけるのに大変苦労していたのを思い出す。同時に健康の自己管理が出来る人という評価をいただける。大学の建物はほとんど禁煙。厳冬に、建物のそとで、震えながらタバコをすうのは風邪のもと。

「菜食」とはもちろん健康のため。胃腸に負担がかからないことはどうも健康の源のようだ。予防医学という大袈裟なことでなく、自分の健康は自分で守ることが出来なくては異郷に住むのに不都合が多くなるし、医療費は大変高価。加えて、英語が不十分なときに、授業を休むことは致命的。教授の話のつながりがわからなくなる。アメリカ人の友達のノートは何が書いてあるか、判読するのに大変な時間がかかる。

毎日の食生活についても、贅沢になった塾年者の舌は外食では続かないし、だからといって料理をつくるのも時間がない筈。お惣菜は脂っこいのが普通で、日本の塾年者には向かない。自炊する場合、「菜食」の料理は簡単だし、作り方も覚えやすい。そのほかのメリットとして、ヴェジタリアンの友達ができやすいこと。生活がシンプルになって、食費節約ができるし、生活費全体が少なくてすむ。

というわけで「熟年留学」の3種の神器は、繰り返すが、「コンピュータ」、「禁煙」、そして「菜食」といいたいし、これをもっていればこわいものなしと保証する。

とはいえこれらがなければ留学できないというわけでは全くない。これはわたしのポリシー。いいかえれば、なんらかのどんなものでもよいから、滞在中に生活の基準をつくりあげたほうが良いだろうという意味。友達から理解されやすいし、自分を説明するチャンスが多い留学生活においては、たいせつなポイントに一つだと思う。

それでは、わたしの体験を「熟年留学」の観点から語ってみよう。

留学に至るまで

どうして留学する気になったのだろうか。あらためて考えてみると、こんな物語になる。年月が当時、不明瞭だった部分を削ぎ落として、いまでは説明しやすい経緯になっていることがわかる。

42歳の厄年、左腕の痛みを覚え、医者に行った。検査をしたが、原因不明という。だんだん左手の握力がなくなって、コップを落とすほどにまでなってしまった。ある日お客さんとの面談中に、意識が不確かになり、何を話していたのか分からなくなったことが起きてしまった。大病院に行き最新の技術で、徹底的に再検査をしたが、結局不明。筋萎縮症候群と診断され、完全休職1ヶ月。

徐々に復帰したものの、近代西洋医学への不信がつのり、東洋医学への傾斜が始まる。それまで西洋的生活をよしとしていた近代栄養学の信奉者が、玄米菜食がよいというので、ワラをもつかむつもりで切り替える。やがて東洋哲学とくに易経と老子に惹かれ、シンプルライフが徐々に身についてゆく。

そのころはコンピュータをつかったワードプロセッシングの会社の経営者。西洋近代テクノロジーの無批判の礼賛者が、西洋の技術、社会のシステム、そして近代医学をもう一度考え直そうと猛勉強をはじめる。桜沢如一、中村天風の著作をむさぼるように読み、簡易生活の実践に努める。約3年くらいか、いつのまにか、気が付いたら健康を取り戻していた。

仕事のみの生活に「遊び」を取り込んだのもこの頃。ウインドサーフィンを始め、湘南の海で、「遊ぶ」ことの大切さを覚える。ハワイのマウイ島に盛んに行きはじめた。

易経の研究をしたいがために、50歳で引退し、易者修行として、日本全国を旅するようになった。

縁あって、住友金属工業がコンピュータ関連の新事業を立ち上げるのをコンサルタントとして、手伝う羽目になる。約3年後、その事業の目途がついた頃、アメリカ東海岸で玄米菜食の普及運動をなさっている久司道夫先生の講演を東京・大阪で聞く機会があった。熱心に、その運動の国際的な拡大の意欲とスタッフ不足の現状を聞いた時、ふと海外留学のアイディアが浮かんだ。

留学の直接のきっかけは1990年の秋、ハワイ旅行をした時。ハワイ大学の英語学校を訪問し、高齢者の学ぶ姿をみて、海外での語学研修が熟年になっても、可能であると確信できた。

資金は自宅を売却し、ローンを返済、約700万円の売却益をあてることにした。

決心は迷わずすんなりと出来てしまった。将来、ヨットで世界1周をする時には外国語とくに英語が必要。ことばの勉強はやはりアメリカでやるのがよいだろう。前年訪れたグアム大学の先生たちは感じが良かった。大学ではカウンセリングの勉強をしようと。

年が明けてから、退職のことを伝え、英語学校を探し始める。選択の基準はニューイングランドの東海岸がよい。久司先生がボストンにいらしゃる。New Yorkとボストンの間にしよう。そして海のそばがよい。機会があればヨット、ウインドサーフィンもしたい。終了ればTOFLEなしで大学に入学できることも大切。

留学ガイドブックを買ってきて探してみると、該当校がコネチカット州ニューヘイブンにあった!ELS Language Centers。東京では駿台予備校が代理店になっていた。日本で手続きができることも幸い。予算はパンフレットには月額$1500といっているが、11月には帰国する予定だし、旅もしたいし、$2,000(当時¥280,000)ぐらいかかるだろう。とすると約2年間は滞在できる。ならばよし。トントン拍子で決まってしまった。

退職が1991630日。出発が712日。いよいよ「熟年留学」が始まる。

わたしの留学体験

シカゴで入国手続き。学生ビザということで、少々質問あり。乗り換えてボストンへ。久司先生のお宅を訪ね、そこから約2時間、マサチューセッツ州ベケットにある久司インスティテュートを見学する。その夜はベケットの由緒ありそうなInnに泊る。このInnにはこの後、ニューイングランドの定点観測に絶好の場所として、毎月のように訪れることになる。翌日、いよいよ英語学校のあるコネチカット州New Havenを目指す。

ニューヘイブンのことを最初はニューヘブンかと思っていた。エール大学ではなくイェール大学があるところ。大学が全部で5つあり、さらにコミュニティカレッジが1つ。学生の多い街だ。当時、人口は13万人くらいだった。いまでもそう変わらないだろう。ヘイブンとは港、安息所、避難所の意。ハンバーガーの発祥の地、ピザの発祥の地と地元の人は言う。ニューヨークまで電車でも車でも1時間半。ボストンまで車で2時間半。

ELS英語学校は市の中心から3kmほど離れたAlbertus Magnus Collegeの中にあった。カソリックの大学。なかなか感じが良い。こじんまりしたカレッジだ。ELSの生徒は大学の施設を大学生と同じように使える。プールが使えるとはありがたい。生徒数は500人くらいと聞いた。わたしの住まいは大学の寮。年も年だからと個室がもらえた。むかしは豪商の私邸だったとか。ストリートの名前がProspectというのが気に入る。

次の日、ELSのオフィスを訪ね学生証の発行とか事務手続きを完了する。そしてプレイスメントテスト。101のスタートクラスから109の最終レベルまでの9段階のクラスわけのためのテスト。結果はすぐ分かった。??? つづく