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第1回 松尾芭蕉 「おくのほそ道」


「乾坤の変は風雅の種なり」 この文は服部土芳が記したという「三冊子 あかそうし」(『去来抄・三冊子・旅寝論』 岩波文庫 p-103)にある。芭蕉は何歳でこの境涯に達したのだろうか。

私が「道法自然」(変化は自然に法る)と理解したのが、齢六十七だった。まさに、芭蕉の境涯と同じところに辿り着いた。

ということは彼は五十一で没しているのだから、それより前ということになる。私は初めてものの変化を感じてから、上記の理解に至るまでに25年ほどを費やした。少々長すぎた。芭蕉が気がついたのはいくつの時だろう。

「不易流行」が芭蕉の俳論のキーワードとは聞いている。だが、私の考えでは冒頭の「乾坤の変は風雅の種なり」だと思う。現代人には「乾坤の変」が難しい。「風雅」は「乾」と「坤」の変化の様相のなかに見出せるということが理解しにくい。

もっとも「不易流行」を「流行することは不易である」と読めば「乾坤の変」と同じこととなる。

変化の様相についての近代人の理解はAからBに変化したという結果を捉えているだけで、その過程についての理解は変化の結果をより詳細にとらえるだけで、まさか「乾」と「坤」の消長だとは見ていない。

「自然」という揮毫が伊賀上野の芭蕉翁記念館にある。かれの根本理念と言われているが、近代人の理解としては、人工に対する自然ぐらいだろう。人間が破壊していない対象としての自然である。

だが、芭蕉の「自然」は、乾坤の変は自然に法るという老子の「道法自然」に同調した表現と理解する方が妥当だろう。

問題はその自然の定義である。

自然は「自ずから然る」ものであり、ひとことで言えば、状態である。これは東洋の自然である。

西洋のネイチャアとは異なる。西洋ではマザーネイチャアとも言うが、自然は創造者の造った被創造物である。

明治期にネイチャアを自然と訳してから東洋の自然と西洋の自然の混乱が始まった。

芭蕉の自然はあくまで東洋の自然である。

現代日本での自然観は西洋の自然を対象としている。養老孟司氏の自然観はまさにその典型である。かれは自然とは人間の設計していないものとして捉えている。人工の都市を自然の対称物として説明する。

芭蕉は老荘に傾注していたという。変化の相を陰と陽の消長で捉えていたに違いない。

よって、陰陽判断を生活の規範にしている私には、この芭蕉の自然観が同行の人として大変好ましく思われる。

さらに、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」

この文に魅せられている。過去現在未来のタイムライン上の日月の変化と考えると、当たり前のことを言っているに過ぎないが、この一文は近代的時間感覚を無視している。

旅人とは異空間を移ろって行く人のことだろう。時空の変遷とは陰と陽の消長のことである。時間の経過は陽。空間の拡大は陰である。

芭蕉の名句とされているものに時間と空間の交わりとか、対比を描いたものが多い。彼には、陰と陽の消長を見守る習慣が身についていたのだろう。

年月日がタイムライン上の一地点とするのが近代人の常識、だが、芭蕉は年月日そのものが旅人のように移ろい行くものとしている。タイムライン無視である。

芭蕉にはとって、この「おくのほそ道」の旅は、乾坤(自然)の様相を判断し、風雅の種を見出す旅であったに違いない。「自然の発見」と加藤周一が「日本文学史序説」の中で指摘しているのは妥当だろう。 芭蕉の自然観の変化を読み取ることも、読者の務めであると思っている。


然法

道法自然
道を理解するには自然の変化(乾坤の変)を見ることであり、ある瞬間の自然そのものを見ることではない。

「おくのほそ道」とは自然の奥にある悟った人だけが見える道理という意味と解する。その道理とは万物流転は乾坤(陰陽)の消長より起こるということ。

蛇足ながら、もう一度、確認しておく。すなわち、東洋の自然とは「自ずから然る」状態を謂い、西洋の自然のような絶対者の創った被創造物とは考えない。

 

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・リンク 第2回 「英国ドライブ 紀行」 

・記事紹介:足立よみうり新聞(2006年6月23日配信)

「おくのほそ道」を世界の道へ

発足した「芭蕉翁『おくのほそ道』ネットワーク」

  16日、松尾芭蕉が「おくのほそ道」で旅したゆかりの各地から愛好家や研究者らが千住に集まり、世界へその魅力を発信しようと「芭蕉翁『おくのほそ道』ネットワーク」を発足させた。

  会場の東京芸術センターには、NPO千住文化普及会代表・櫟原(いちはら)文夫さんの呼びかけに、芭蕉生誕の地・三重県伊賀市や草加市、山形県尾花沢市、福井県敦賀市等から11人が参加した。

  ネットワークでは、芭蕉に関する地域の観光資源や情報を国内外へアピールし、「おくのほそ道」を探求する現代の旅人への応援をする。

 具体的には、インフォメーションセンターを設け、交通・食事・物産情報等が1か所で収集できるようにしていく。

 櫟原さんは「海外にも芭蕉の愛好家は多い。彼らが日本を訪れたとき役立つ観光資源の充実を図り、シルクロードや万里の長城などのように『世界の道』として知られるように努めたい。本日の初会合で、民間でのネットワーク化をしたいという皆さんの情熱を感じた。点と点をつないで世界に発信していきたい」と話している。

 これまで自治体による「芭蕉サミット」は行われてきたが、民間レベルのネットワーク化は進んでいなかった。

 8月初めに2回目の会合を持つ。事務局=NPO千住文化普及会(電話3881・3232)

 

全行程

地図:東京・深川-大垣

 

住替る代ぞ

旅立ちの前にはそれなりの思い入れが静かに湧いてくる。風雅を極めようとする芭蕉にとって、「乾坤の変化」を見出し、それを確信して見に付けるには旅に限る。そんな想いがあったのだろう。私の「英国ドライブ 紀行」でも同じような感慨をもった。

 

若生て帰らばと
(1689年5月16日出立(陰暦では元禄2年3月27日))

ブログ「陰陽師のブログ」に「自然死への仕度」を掲載して以来、「旅に病んで…」の芭蕉句が気になりだした。病むことは避けたいが、旅での客死は止むを得ないし、願うところかもしれ ない。いまの私の心境は「漂泊の思ひやまず」という芭蕉の気持ちと同じ。

 

地図:出発点:採荼庵(さいとあん)-杉山杉風の別荘

地図:芭蕉庵跡(芭蕉稲荷神社)

地図:江東区芭蕉記念館

リンク:江東区芭蕉記念館 伊賀上野 芭蕉翁記念館

地図:千住大橋際

地図:東武草加駅付近

地図:蒲生の一里塚?

地図:最勝院付近(普門院 古隅田川 大落古利根川)

最勝院住所:春日部市粕壁3丁目9-20

宿泊地:粕壁。江戸ヨリ九里余。

地図:東陽寺 春日部市粕壁東2丁目12-20

地図:小淵観音院 春日部市大字小渕1638


 

行春や

芭蕉を読むことは、生易しいことではない。だが、常識を捨てれば、ごく当たり前のことを言っている。

 行春や鳥啼魚の目は泪

行く春を惜しんでいる句ではない。時間と空間の係わり合いと、その干渉を詠んで旅の発句としたのだろう。 季節がある。鳥が生きている。魚が生きている。芭蕉も生きている。そして、時間の流れを見ている。現実があるのではなく、芭蕉の認識があるだけだ。

宿泊地 地図:間々田(小山)

 

焼給ふちかひ

捨て身になってこそ、自らの身体が「自然」になる。 変化する自然となる。人工のものは変化しない。アウトプットされた情報そのものは変化しない。


地図:栃木県小山市喜沢

地図:大神神社 栃木市惣社町477

奈良県桜井市の三輪神社に毎月お参りに行った。あのときは、原因不明の「筋ジストロフィー症候群」と診断されて、藁をも掴む思いだった。

和魂と荒魂の二神を抱く神社。はだし参りや滝行をやったことも想い出す。

このときから、近代西洋医学への不信が芽生えた。やがて、東洋の陰陽の道理を知り、米国への再勉強のための留学にもなった。夏期講習でフランスへ2年続けて行ったが、フランス近代思想さらには西欧分析哲学への疑問は増すばかりだった。

その三輪神社の分詞という。

倶神
生魂

かって出雲にて:人々の神とともに生きる様を見て詠める。

地図:壬生一里塚

地図:金売吉次の塚

宿泊地 地図:鹿沼 光太寺 鹿沼市西鹿沼町81


青葉若葉の日の光

 あらたうと青葉若葉の日の光

自然の変化は光とともにあるという認識。

 空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。

空海も乾坤の道を知っている。二種の曼荼羅にそれが表れている。大日如来とは乾坤に分化することをなさしめたエネルギー。

芭蕉の自然観は空海のそれと一致した。わたしもそれを共有できる。ありがたいこと。

地図:日光二荒山神社 本社社務所 日光市山内2307 0288-54-0537

 

瀧に籠るや

 暫時は瀧に籠るや夏の初

変化の様相を知るには、音が決め手になる。迸る滝の中での音は無音。滝の裏で聞けば 轟音。だが、耳を澄ませば、音の群れ。季節があり、音が広がる。



唯無智無分別

これこそ醍醐味。 変化の相を見る者には、分別は無用である。乾坤の分別を芭蕉は問題にしていない。乾坤の変を見ている。そういう芭蕉だから五左衛門に魅かれたのだろう。

宿泊地地図:日光上鉢石町 五左衛門ト云者ノ方ニ宿。

 

足駄を拝む

那須与一が「別しては我国氏神正八まん」と願って、的を射たことを思うにつけても、自然の変化の妙を知れば知るほど、大いなるものへの祈願を信ずるようになる。すなわち、役行者の足駄を拝むようになる。

地図:芭蕉の館

リンク:芭蕉の館

 

蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。

何時の日かの客死の予感とみる。疲れも重なっていたのか。

リンク:那須の殺生石

 

旅心定りぬ

旅心とは、時間と空間の認識が日常と異なる状態にあることをいうのだろう。

地図:白川の関

 

世をいとふ僧あり

この世は騒がしく、忙しく、ひとは闇雲に生きている。いとわしいもの。そう言ったら実も蓋もない。そのいとわしいものをいとしいものに変えるのが面白い。そのとき使うのが陰陽判断。

地図:須賀川 十念寺

 

早苗とる手もとや昔しのぶ摺

石まで流転している。普通はあれがこうなったと変化の結果を捉えるだけ。だが陰陽判断をする人は、想い(陰)が極まって転がり落ちる(陽)となったと見る。芭蕉は想いの深さに感動したのだろう。

河原左大臣・源融が虎女との悲恋を詠む
「みちのくの 忍もちずり誰ゆえに みだれそめにし われならなくに」 古今集 

地図:信夫山

リンク:信夫文知摺 石 しのぶもちずり

 

泪を落とし、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す

地図:医王寺

リンク:佐藤一族と義経について

 

捨身無常

無常とは希望なり。捨身は無常を信ずるがゆえにできること。

地図:阿津賀志山防塁 伊達大木戸

リンク:阿津貨賀志山防塁 阿津賀志山防塁 いずれが正しいか?


常身

 

風流のしれもの

風流とは乾坤の変のこと。つまり風流のしれものとは陰陽の消長を制御できる人。

たとえば陰が増えれば、減らす、あるいは陽を増やして求める陰陽バランスに近づける。くれぐれも陰陽バランスをとるとは多少を同じにすることではない。

自然を見てほしい。事物は関係(環境)の中で生きている。だから自分だけの陰陽バランスを陰陽同量とすることなど無益の沙汰。

画工は事物の消長を見抜ける人。芭蕉と気が合ったのは当然。


長陽

陰陽消長

 

時移り代変じて

芭蕉の変化への感受性は豊かなものだ。

どうやって会得したのだろう。やはり自然を見つめることだと思う。

だが、「陰極まって陽、陽極まって陰」を自然の中に見るのは難しい。じっと待たねばならない。

陰のエネルギーは拡散方向へ働く。陽は求心方向へ。これは姿を見れば判断できる。

「易経」を読むことも感受性の養成には役立つ。変化の実例が沢山載っている。

 

明れば又しらぬ道まよひ行

道に迷うこと限りなし。どうやら芭蕉は方向感覚が他人とは違う人だったようだ。私の周辺にもそういう人がいる。

方向感覚は身体感覚が外部へ向いていることが必要。そういう状態をつくるのは身体状況が陰でなくてはならない。逆に、身体内部へ感覚を向けたいときは、陽に身体状況を工夫しなくてはならない。 

芭蕉の身体状況はかなり陽だったと思われる。疲労による陽への傾斜が考えられる。

 

国破れて山河あり、城春にして草青みたり

夏草や兵どもの夢の跡 

過ぎ越し方を想うのは身体状況が陽になっているとき。

五月雨の降りのこしてや光堂

芭蕉の豊かな想像力が心地よい。

地図:中尊寺

リンク:中尊寺

 

高山森々として一鳥声きかず

案内人の「仕合したり」の一語が芭蕉の気持ちを伝える。

リンク:鳴子と尿前の関について

 

旅の情けをも知りたれば

旅の情けとは?「長途のいたわり」である。芭蕉は疲労の極限だったのだろう。

地図:尾花沢市芭蕉清風歴史資料館

リンク:芭蕉十泊のまち

 

心すみ行くのみおぼゆ 閑さや岩にしみ入る蝉の声

この「清閑の地」で音のことをふたたび語る。音を上手に聞ければ、「心すみ行く」心境となる。音を上手に聞くとは、音の変化を予測すること。

地図:立石寺

リンク:山寺観光協会Presents 山寺の歩き方

 

日和を待つ

日和とは、気象の陰陽が自身の陰陽とバランスがとれることを言う。このころの芭蕉は立石寺詣でを終わり、気力充実して、舟遊びでもという状態。

となれば、多少の曇り空でもよい日和としたことだろう。

地図:大石田

 

五月雨をあつめて早し最上川

時の流れは、怖ろしいまでの急流になることがある。この一見、速い川の流れをよく見れば、遅いところ、速いところ、渦を巻くところ、止まっているところがある。変化とはそのようなもの。

リンク:最上川風景:「やまがたナビゲーション」で放送された作品紹介

 

憐愍の情こまやかにあるじせらる

主人自身が陰陽のバランスが取れているのではない。客人の陰陽状況に主が合わせている。茶道の極意でもあり、陰陽の生き方そのもの。

地図:出羽三山歴史博物館

リンク:出羽三山歴史博物館:出羽三山 奥参り

 

臥して明るを待つ

陰陽判断が決まらぬときは、臥して明るを待つのが極意。芭蕉の疲労は限界に達していたのだろう。

リンク:月山紀行特集 - 出羽三山を巡る瞑想、滝行の旅 - 写真集

地図:月山

静時
待流

時流静待

 

竜泉に剣を淬とかや

「淬(にらぐ)」とは金属の熱処理。金属を高温に加熱したのち急冷して組成を変えること。陰陽の原理を使っている。

リンク:藤田熱処理<熱処理とは>

 

雨後の晴色

雨と晴れは陰陽判断の道場である。観天望気により、自己の陰陽判断を鍛えることができる。

地図:鳥海山

リンク:鳥海山フォトギャラリー

 

暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず

暑湿の避け方を知らなかったとは。またどんな薬を所持していたのだろうか。在るがまま(自然に)の生き方を尊ぶ人にしては、用意が足りない。

 

荒海や佐渡によこたふ天河

宇宙を感じ得る瞬間。病後に感受性が研ぎ澄まされているときだから、こういう大きな句が詠めたのだろう。そこには自分という肉体を離れた感覚がある。

 

定めなき契、日々の業因、いかにつたなし

日々の生活に苦しむ人はどうにもならぬと思い定めている。

そんなことはない。

先ず、早寝早起きから始めると良い。早朝に鳥の声を聞く。夕べに空を見る。

寝る前に一日を振り返る。「今日は自然に暮らしたか?」と自問せよ。

ところで、都会と地方の格差拡大は止まるところをしらない。地方には貧者が固定し、都会を目指して、貧者は集まる。その貧者を相手に、都会の富者はますます富んで、貧者との格差は極大域に入っている。

この経済的格差が苦しむ人を大量生産している。

地方と都会の経済的格差は解消できる、国のシステムである中央集権が明治以来続いていることに気がつけば、逆転できる。

経済的格差をごまかす方法として、精神的優位性を持ち出すことが使われている。格差が手に負えなくなった政治家の使う常套手段である。

 

蘆の一夜の宿かすものあるまじと、いひおどされて、かゞの国に入

江戸のような都会生活では、不安感を持つようなことは先ずない。この時代とて、田舎の生活には、このような状況がいくらでもあったのだろう。

この緊張感への期待が芭蕉を旅に誘っているのだろう。

都会生活が安全なのは現代も同じ。田舎では五感を総動員しなくては生きてゆけない。そんな生活に疲れた人たちが、都会を目指すのか。それとも、安全な都会生活者が、いまさらの緊張感を求めなくなっているのか。

どちらにしろ、感知能力とその対応が出来なくなっている人たちが増えていることは危険な状態だろう。

リンク:「寺家・寺内町を訪ねて」より:曹洞宗神明山徳城寺です。ここに、元禄2年7月、市振を発った芭蕉は早稲の田が連なる越中富山の地に入り、浜辺で「早稲の香や分け入る右は有磯海」を詠んだと言います。 それから芭蕉の七十回忌に、それを記念して「有磯塚」が滑川俳句有志で建立されました。ガラスケースの中に塚があります。

地図:曹洞宗神明山徳城寺

 

塚も動け我が泣声は秋の風 陽の句

秋涼し手毎にむけや瓜茄子 陰の句

この陰陽の対比が美しい。

虚子は「俳句は極楽の文学」という。この二句を行きつ戻りつすることで癒されてゆく。

 

むざんやな兜の下のきりぎりす

きりぎりすが亡霊の化身としても、なぜ、無残なのか?実盛の白髪染めがいたましいのか?
由緒ある兜の下で鳴いていることが無残なのか?
いまのわたしの読解力では、句への納得に至らない。

地図:多太神社

リンク:多太神社

リンク:BASHO 写真と文:上野信好

リンク:源平ゆかりの地を訪ねて・・実盛編

 

大慈大悲

道元師は慈・悲・喜・捨の実践として、布施・愛語・利行・同事の四摂法を説かれた。永平寺に向かう芭蕉のこころに、この教えが浮かんだに違いない。

地図:那谷寺

リンク:那谷寺

 

行くものの悲しみ、残るもののうらみ

2006年10月24日午後4時、夕日とともに逝く人を見送った。 残るもののうらみは一時のこと。世のことわりのなかで悲しみもうらみも交じり合って新たな想いが生まれる。逝くことが新生につながった。

 

明ぼのの空近う、読経声すむままに、鐘板鳴て

思わず古池やの句を連想した。明けぼのには無音という音が満ち満ちている。音の重なりが美しい。

 

かかる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。

芭蕉はこの「貴きゆへ」をどんなふうに理解したのだろうか。

永平寺から東南に越前大野市がある。そこからさらに12キロ山奥に「宝慶寺」がある。

開山は宋の禅僧、寂円禅師。道元を慕って来日した。道元の死後、この宝慶寺を開山。道元と同様、「只管打坐」を悟りへの道としていた。

そのためには、「焼香、礼拝、念仏、修懺、看経を用いず、只管打坐あるのみ」(道元「宝慶寺記」より)というように、街から離れ、檀家を持たないことが「只管打坐」に徹する環境と道元師、寂円師は考えたに違いない。

この宝慶寺に「貴きゆへ」が残っている。間違いなく残っている。

地図:永平寺

リンク:禅の里 永平寺へようこそ

リンク:宝慶寺参拝記

 

市中ひそかに引入りて、あやしの小家に、夕がほ・へちまのはえかかりて、鶏頭・はは木々に戸ぼそをかくす。

かって、隠棲の家はかような姿。

いまでは、マンション、老人ホームの一室か?
隠棲の時期は?

 

名月や北国日和定めなき

定めなきことを知りながら、芭蕉の嘆き節はいつものこと。

地図:敦賀市 気比神宮

 

夕ぐれのさびしさ

元禄2年、1689年といえば、芭蕉51歳。夕ぐれのさびしさを感ずる歳。我いま、69歳。さびしさはまだない。夕暮れは明日への活力と感じている。

 

旅の物うさもいまだやまざるに

旅が終わりにかかると、物憂い気持ちになることが多い。もはや帰らなくてはならない、とも思い、あるいは、もうすこし旅を続けたいとの気持ちも出てくる。だが、旅には終わりがある。物憂さもいつしか消えて、それとともに、旅の思い出が広がってくる。

人生を旅に喩えることもできるが、人生の旅は終われば次がない。だから、私は人生を旅に喩えることはしない。

地図:大垣

 

おわり

 

参考リンク

おくのほそ道文学館

「奥の細道」の旅

奥の細道 - Wikipedia

のぶさんの奥の細道徒行記

俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡