一途
「父上!」 出陣前の慌ただしい中孫権が父親の元にやってきた。 「権か。どうした。」 「どうしたではありません。お人払いを。父上と二人で話したいのです。」 「ふむ…いいだろう。」 孫権の様子から大方どんな話をしようとしているのか、わかっていた。孫堅が 周りに合図すると文官たちがしずしずと退出していく。 退出した部屋に残った父子二人は向き合うとしばし沈黙が流れた。先に沈黙を 破ったのは孫権である。 「此度の決定、納得いきません。」 「そう言うだろうと思っていた。」 孫権の言葉に頷きながら窓の外を見る。そんな父親の様子に思わず大声を 発してしまう。 「父上!」 「権よ。我ら前線で戦う者を支えるのは誰だ。」 「…。」 「後方の憂いを断つは戦の常。策には前線を指揮させる。私は戦の渦中に あらねば士気も削げよう。」 父の言葉に言いかけた言葉を飲み込む。言いたい事が理解出来るからだ。 「尚香は…連れていかぬと言えば無理にでも付いてくるだろう。ならば 目の届く範囲に留めておく方が良い。」 外を見つめていた双眸が自分の方に向けられる。 「権よ。全体を見渡す術を身に付けよ。後方より前方を眺めるのだ。 お前には広い視野を身に付けて欲しい。」 「…父上。」 「お前には策にない柔軟な考えがある。前しか見えぬ視野でもない。 広く遠くを見よ。戦は前線に出るだけが全てではない。全体を見通し先を見よ。 戦の勝敗ではない孫呉の将来を見るのだ。」 息子の肩を叩くと静かに笑う。 「俺では出来ぬことだ。孫家ではお前しか出来ぬ。頼りにしているぞ…権。」 父親の言葉に頬を紅潮させると表情を正した。 「…はいっ!」 息子の様子に満足し笑うと再び文官達を呼び寄せる…。 孫策達第一陣が宮廷を出、孫堅達第二陣も昨日宮廷から出陣した。 今この宮廷には後方の全てを任された孫権が居るのみである。周泰だけは 孫権の親衛隊として宮廷に残っていたが、主立った将兵は皆合肥方面へ 進軍していた。普段であれば、ひしめき合うように居る筈の鍛練場にも ちらほら影が見えるだけである。 「幼平。」 「……はっ…。」 側に居た護衛役の周泰に声をかける。周泰は孫権にとって絶対の信頼を寄せる 将の一人であった。 「私の卓の上の花を生けに来た女官を見たか?」 「…申し訳ありません。…孫権様と常に在りましたので…。」 「そうだったな。…良い。誰なのかは分かっている。」 表情を変えない周泰に頷くと微かに笑みを湛える。孫権が笑顔を見せるのは 家族の前だけだが、周泰は別であった。だが、今の笑みは決して周泰に 向けられたものではない。会話に出た女官を思い出し笑みを湛えたのである。 周泰以外に孫権が笑顔を向ける相手…それは家族でもない女官。尚香付きの 女官は周泰と同じく、家族以外で孫権が微笑む相手であった…。 「一息つく、幼平も休むが良い。」 「…お供いたします…。」 二人の間でいつも交わされる会話だった。例え孫権が休めと言っても 周泰は従わない。主従でありながら、彼は『休め』という命だけは簡単に 従わないのだ。 「強情だな、幼平は。」 「……。」 「…好きにせよ。」 何度も繰り返された会話に慣れているのか、孫権は静かに笑うと椅子から 腰を上げる。部屋を出ると自分の後ろを離れて歩く周泰に一人頷き、尚香の 部屋へと足を向けた。妹は父と出陣している為部屋には居ない。だが、孫権は その部屋に用がある。正確にはその部屋に居るであろう彼女に用があるのだ。 妹の部屋の前に着くとしばしその場で立ち止まる。深呼吸をし一人頷くと 足を踏み出した。 「、居るか?」 「はい、只今!」 奥の部屋の掃除をしていたのか、走る音が聞こえる。そして孫権の前に 出てくると慌てて礼に服した。 「畏まらずとも良い。…これから時間はあるか?」 「御用でしたら何なりと。」 「いや、大した事ではないのだが…時間があるなら私に付いて来て欲しい。」 いつもと様子の違う孫権にが首を傾げる。は元々尚香付きの女官だ。 孫権には孫権付きの女官や文官達がいる。わざわざに用を申し付ける必要は ない筈なのだ。 「あの…孫権様?」 「そなたに付いて来て貰いたい場所があるのだ。」 「…畏まりました。」 不思議そうに思いながらもが頷くと孫権の表情が一瞬緩んだものになった。 そのまま部屋の外に出ると直立不動で立っていた周泰に孫権が頷く。 「…遠出なさりますか。」 「…少しだ。」 「はっ…。」 二人の会話には何度も瞳を瞬かせる。不思議そうな顔のままであるを 振り返ると微かに微笑む。 「仰々しくしたくないのだ。私と同じ馬に乗ってもらうが…良いだろうか。」 「…あ、あの…。」 「大丈夫だ。私がついている。怖がらずとも良い。」 「…はい。」 が頷くと頷き厩の方へと歩き出した…。 「どうだ、驚いたか?」 馬を駆けさせ、着いた場所とは一面に広がる花畑であった。馬から降りられる様にと 手を差し出す。は驚いたまま花畑を見つめていた。 「…よくここに来るのだ。この様な一面に咲いた花を見ると心が和む。」 孫権の声に頷くと差し出された手に手を重ねた。馬から下りたは嬉しそうに 一面の花畑に微笑むと後ろに立つ孫権を振り返った。の笑顔に頷き返す。 「そなたなら喜ぶと思ったのだ。」 「…ありがとうございます。」 「…せめてもの礼だ。そなたであろう?私の卓にいつも花を飾ってくれているのは。」 孫権の言葉にが目を見開いた。そして頬を染めると俯きながら 小さい声で言葉を紡ぐ。 「お気づきでいらっしゃったのですね…。お忙しい中、少しでも孫権様の お心をお慰め出来ればと思いまして…。」 「そなたの気遣い、嬉しく思うぞ。」 頬を染めたを見る孫権もまたほんのりと頬を染めていた…。 二人から少し離れた場所に居た周泰はいつも自分が見ている孫権と様子が 違う事に気付いていた。家族以外に笑顔を見せる事のない孫権が笑顔を 見せているという事実に。そして以前、尚香が言っていた事を思い出した。 『権兄様ね、きっとの事を気に入ってるのよ。』 聞いた時はそのような事ある訳がないと思ったが、実際目の当たりにして 尚香の言が正しいと悟ってしまった。本人には自覚がないのかもしれないが、 確かに孫権はを好いていた。滅多に他人に見せない笑顔を見せる程に。 そして、彼女の為に遠出をしようと思うくらいに。 彼女の笑顔を見たいと思うがゆえに…。 この後、連日の様に彼女を気にかける孫権にますます尚香の言が正しいもので あったと確信する事となる。 「…どうした、幼平。」 執務の最中、気配に気付き顔を上げると周泰がじっとこちらを見ていた。 何か言いたげな視線に首を傾げると周泰が一歩近づき、頭を下げる。 「…お話が。」 珍しい申し出に一瞬言葉に詰まったがすぐに頷くと話をするように促す。 「…孫権様、御自分の立場をどうお考えで。」 「…幼平?」 周泰は決して無駄な話などしない。だが、今、彼が何を言い出そうとしているか、 孫権には分からなかった。 「……貴方様は呉主、孫堅様の御子息。…このお立場お忘れではありますまい。」 「はっきり申せ。」 「……彼女は女官。側室には召せても、……正室に迎える事は出来ぬ筈です。」 周泰の言葉に頬がかっと熱くなった。自分が自覚するよりも早く他人に 自分の想いが露見していた事に。 「何を馬鹿な事を…。」 血の気が引いていく自らの手を眉間にあてた。 「…叶わぬ夢は…見ぬ方が宜しいかと。」 「もう良い。」 「孫権様…。」 頭を左右に振ると瞳を閉じたまま、抑揚のない声を発する。 「…下がってくれ。」 「…はっ。」 幼平は知らぬのだ。が黄蓋の遠縁の娘だという事を。 女官とは言え、れっきとした黄一族の娘なのだ。 そしてここまで考えてからはっと気付く。今の思考は 周泰の言葉を肯定する事を考えていなかったかと。 そう、自分はを好いているのではないかと。 考えてみれば、何故妹付きの女官とは言え、何も想っていなければ このように狼狽える事もなかっただろう。 「私は…を好いているのか…。」 一人呟くとため息をついた…。 続く→
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