一途
午後の麗らかな日差し、居室の窓から下を覗くと自己鍛練に励む兵たちの 姿が見える。その姿に満足そうに頷くと自分の文机へ視線を送ろうとした 視界の端の何かを捉えた。その何かは紛れもなく自分の妹であり、この孫家の 姫である孫尚香の姿である。 「兵に混ざって何をやっているのだ…全く。」 ため息をつくと居室の戸を開け、階下へ足をむける。 「尚香!一体何をやっているのだ!」 突然の孫権の姿に鍛練に励んでいた兵たちの視線が集中する。そして兵たちの中心に 位置している尚香は何事もなかったかのように孫権に笑顔を見せた。 「あら、権兄様?見ての通り鍛練をしているのよ?」 「見ての通りではないだろう。仮にも公主たる身でありながら、何をしていると 言っているのだ。」 「だから鍛練を。」 「良いから、とにかく居室に戻るのだ。話はそこで聞こう。」 幾ら何でも兵たちの前で妹を叱る姿を見せるのは良くない事。それは自分にとっても 妹にとってもだ。渋る尚香を軽く睨むと周りの者を呼び、彼女の武具を受け取らせる。 「他の者は鍛練を続けよ!」 孫権の声にはじかれた様に周りの兵たちが再び自己鍛練を始める……。 「権兄様ったら横暴だわ。」 居室に戻った途端、尚香がくるりと孫権の方を向き直った。当然孫権は彼女が こうして反論するのは分かっていたこと。特に表情も変えず小さくため息を ついただけだ。 「…公主の自覚を持てと、常々言っているではないか。」 「あら、父様と策兄様は許可して下さったもの。」 「……父上も兄上も尚香に甘すぎる。全く…。」 尚香の言葉に呆れたようにまたため息をつく。そんな孫権を不満げに軽く睨む尚香。 「権兄様、そんなお小言ばっかり言ってると早く老けちゃうわよ?」 「…尚香…。」 父や兄に比べると慎重で規則を重んじる孫権は確かに妹に対し小言が多い。 無条件に娘に甘い父や規則に捕らわれない兄に比べると五月蝿いと妹は思って いるのかも知れない。だが、小言は彼女の為を思って言っている事だ。甘やかすこと だけが愛情ではないと孫権は思う。 「尚香様…お茶をお持ちいたしました。」 戸が開きお茶の香りが鼻をくすぐる。にこりと笑う女官は孫権の見覚えのない 者の顔であった。 「新しい女官か。」 孫権の声に頷くと茶を机に並べ頭をたれた。ようやく孫権のお小言地獄から 抜け出せると感じたのか、尚香が嬉しそうに女官の紹介を始める。 「黄蓋の遠縁の子でね、 っていうのよ。最近私付きの女官になったの。 さ、権兄様に挨拶して?」 「お初にお目にかかります。 と申します。」 「 はね、お花を生けるのが上手なのよ。女官長が褒めたくらいなんですもの。」 「まあ、尚香様…。」 尚香が嬉しそうに話すと は恥ずかしげに頬を染めた。 「そうなのか?」 「権兄様、この机のお花も が生けたのよ。綺麗でしょう?」 「確かに…綺麗だな。」 改めて机の上にある花瓶に生けてある花を見ると確かに綺麗であった。孫権が あまりにもしみじみと言った所為か、 は更に頬を紅く染める。 「あ、ありがとうございます…。」 「良かったわね、 。権兄様に褒めてもらって。」 「尚香もこれくらい綺麗に花を生けてくれればな…。」 孫権の言葉に尚香は薮蛇だったかと眉をしかめる。 「 、良かったら尚香に花の生け方を教えてやって貰えるか。少しはそなたの ように落ち着くやもしれん。」 「権兄様、それどういう意味?」 「そのままだ。 、頼むぞ。」 「権兄様ったら… は私の味方よね?」 尚香の言葉を軽く流すと席を立ち、 に軽く微笑んで見せる。 は自分の主である 尚香と孫権のどちらの言葉に従って良いものか迷っているようだった。 「この場合は私の言葉を優先するように。尚香に何か言われたら私に言いに来るがよい。 そなたが叱責を受けることではないからな。」 「失礼ね、 を叱ったりしません。」 「ならば、頼むぞ 。」 「は、はいっ!」 上気した頬を隠しつつ礼に服する にまた軽く微笑む。普段、身内以外のものには 滅多に微笑まない孫権の笑顔に尚香が目を大きく見開く…。 翌日、午後の執務が一段落着いた孫権が尚香の居室に現れた。 「尚香、ちゃんと習っているか?」 兄の言葉にちょうど花を生けていた尚香が口をとがらせる。 「…習ってます。少しは私の事信用してほしいな。」 「信用されたいのならば、早く成果を出すことだ。」 「そんな簡単に出来ません。ね、 ?」 孫権の言葉に対抗すべく、 に同意を求める。仲の良い二人のやり取りに 微笑ましさを感じながら頷き返した。 「一日二日では確かに難しい事と存じます。」 「ほらね。」 の言葉に得意そうな顔を見せる尚香。孫権はそんな尚香の言葉を軽く流し、 目の前の花をじっと見ている。 「ですが、尚香様はお流石ですわ。とても筋が宜しゅうございます。」 「 、世辞はいらぬぞ。尚香はどうもこういう事が不得手でな。」 握りしめすぎたのだろうか、しなびたような花の角度を片手で直すとため息をつく。 「権兄様も、策兄様も失礼だわ。」 「兄上が?」 突然出てきた兄の名前に孫権が首を傾げる。 「私が にお花を習うって言ったら、『お前が花なんか習ったら槍が振っちまうぜ』なんて 言ったのよ?失礼しちゃう。」 孫策がそのように思うのも無理ないことだ。尚香といえば、室内にいるよりも外に居ることが 多い。居室で大人しく琴をつま弾くような妹であれば、その様な言葉を返されることも 無かったであろうが、あいにく尚香は全く正反対であった。 今にも笑いそうになるのを堪えながら妹の生けた花を何度も見返す。 「権兄様まで策兄様と同じこと思ってるのね。…本当に失礼しちゃうわ。」 大胆なまでの妹の生け方に頭を抱えつつ、宥めようと言葉を模索する。 「普段の行動を見ておればな…致し方ないだろう?だが、兄の言葉を無視するような妹とは 思っていないぞ。素直に花を習っていると思ったから、見に来たのではないか。」 「それじゃ、感想をどうぞ、権兄様。」 「これからも毎日精進するように。」 孫権の感想に頬を膨らませる尚香。そんな主の様子に も口を綻ばせた。 「…ふーんだ。今に兄様たちをあっと言わせちゃうんだから。」 「その意気だ。」 孫権が居室を去った後、 の入れた茶を飲みながら尚香が楽しそうに口を開いた。 「ふふ、権兄さまったら。」 「尚香様?」 不思議そうに が首を傾げると一層楽しそうに尚香が笑う。 「…これから楽しみだわ。もう、貴女のお陰ねっ。」 はただ主人の気がいいのをお茶が美味しいからだと思ったのか、曖昧に笑って 返すだけだった…。
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