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その由来は講談で有名な(っていっても近頃は知らない人の方が多いけれども)「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事にちなみます。
時は寛永11年、パパンパン(ってこれ、講談の張扇です)。
江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。
折しも春、愛宕山には源平の梅が咲き誇っておりました。
家光公は、その梅を目にされ、
「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」
と命ぜられました。
しかし、この愛宕山の石段はとても急勾配です。まあ、一度いらしゃってみて下さい。歩いてのぼり降りをするのだに、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。
下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落とします。せっかく江戸の平和の世に、こんなことで命を落としてはたまりません。
家臣たちは、みな一様に下を向いております。
家光公は、みるみる機嫌が悪くなってきます。
もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。
家光公。その者の顔に見覚えがありません。
「あの者は誰だ」
近習の臣に知る者はありません。
「おそれながら」
「おう」
「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」
「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。
この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。
なお、実際に神社にみえた方は男坂をごらんになって、
「こんな石段を馬が上れるわけがない。曲垣平九郎の話は講談だからウソだろう」
と思われるのですが、江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライをして、成功している方が何人かいらっしゃいます。
浪士たちは神社内の絵馬堂(現存せず)に集結し、神前に祈願したのち、歩いて桜田門に向かったのです。
家康公が建てられた愛宕神社に祈願したわけですから、浪士たちにとって井伊大老を討つということは、幕府のためだという確固たる信念があったのでしょう。
雪の降る日、愛宕山上に集結する浪士の絵を愛宕神社で見ることができます。
そして、実は愛宕山は、この無血開城に大きな役割を果たしていたのです。
ときは江戸から幕府に移るころ。
江戸城明け渡しについて勝海舟と西郷隆盛は、ともにそのバックからのプレッシャーもあって、行き詰まり状態にありました。
明治元年、3月13日。両人は家康公ゆかりの当山に登り、江戸の町を見渡しました。そして、どちらから言い出すともなく、
「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」
と談し、ともに山を下りたのです。
そして、そののち三田の薩摩屋敷で歴史的な会見をして、無血開城の調印を行いました。
現在は、ビルが建ち並び江戸の町をすべて見渡すことはできませんが、しかし当山からの眺めは、人々に無駄な争いの愚かさを教え、そして平和な心を思い出させる何かがあります。
日本は長かった大東亜戦争に対して降伏というかたちでピリオドをうちました。
しかし、すべての国民がその決定に静かに従ったのではありませんでした。
同年、8月22日。
日本の降伏に反対していた尊攘義軍10名が愛宕山にこもり、手榴弾で玉砕をしました。
その後始末をしたのが、義軍烈士の夫人2人ですが、彼女たちもすべての務めを終えた後、あとを追って自刃して果てました。
この12名の人たちを12烈士女として、その慰霊祭が毎年執り行われております。