分類 |
名称 |
所在地 |
内容 |
しるべ石 |
観光三重 |
景観資源 |
備考 |
東海道 |
七里の渡 |
東船馬町 |
慶長6年(1601)東海道宿駅が制定、桑名宿と宮宿(熱田)海路七里渡船と定められた渡船場跡。伊勢神宮の「一の鳥居」があり、遷宮毎に建て替えられる。 |
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桑名宿 |
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東海道53次中42番目の宿。宮宿からは海路7里であった。旅篭屋数は宮(熱田)宿に次いで2番目で、幕末頃には120軒あった。 |
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大塚本陣跡 |
東船馬町 |
桑名でもっとも格式の高い本陣で、幕末の建坪221坪。庭先には渡海のための御座船が着岸した。明治元年(1868)には明治天皇の宿泊所となった。のち改築され、料理旅館「船津屋」となった。 |
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丹羽本陣跡 |
川口町 |
大塚本陣につぐ本陣で、幕末の建坪204坪。くわしいことは判らない。 |
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脇本陣「駿河屋」跡 |
東船馬町 |
桑名宿には脇本陣が4軒あったが、そのうちでもっとも大きく且つ格式高かったのが駿河屋である。幕末の建坪109坪。現在は料理旅館「山月」の一部となっている。 |
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脇本陣「福島屋」跡 |
江戸町 |
幕末の建坪は79坪。くわしいことは判らない。 |
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舟番所跡 |
東船馬町 |
舟に乗降する旅人を監視する番所で、桑名藩の武士が常駐していた。維新後、番所は廃され、明治6年(1873)には跡地に川口屯所(警察署)が設けられた。 |
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舟会所跡 |
川口町 |
舟会所(舟役所又は警固屋ともいう)は宮及び佐屋へ渡る旅人のため乗船の手配をする事務所である。渡船場の南にあったが、現在は跡地ははっきりしない。 |
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問屋場跡 |
川口町 |
問屋場は東海道の旅人のために、人足や馬を手配する事務所で、宿場には必ず設けられていた。舟会所の南隣にあったが、現在は跡地ははっきりしない。 |
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京町見附跡 |
京町 |
京町の西端にあり、東海道上に門があり、門の北側は郷方役所、南側に番所があった。番所では桑名藩の役人が旅人を看視していた。 |
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吉津屋見附跡 |
鍛冶町 |
東海道に門があり、その南側に番所があって、桑名藩の役員が旅人を看視していた。この門をめぐって東海道は枡形に曲折していた。 |
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七曲見附跡 |
伝馬町 |
桑名城下南端の見附であり、門(木戸)と番所があった。ここは川口町から東海道を7度曲がってきたところから「七曲がり」と称した。 |
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鍛冶町常夜燈跡 |
鍛冶町 |
鍛冶町の七ッ屋橋の近く、東海道北側にあり、天保4年(1833)の建立であった。しかし自動車交通の邪魔になるため、戦後「七里の渡跡」に移築された。 |
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西矢田の町並み |
西矢田町 |
慶長町割当時は城下外であったが、東海道に面して次第に家並みが続き、旅人の休息する茶店が多かった。東矢田町は戦災でほぼ全焼したが、西矢田町は戦災を免れ、連子格子の家も見られ、街道の面影を残している。竹内家には馬をつないだ輪が道路に面して残っている。 |
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江場松原跡 |
江場松原 |
東海道の松並木伊勢湾台風頃まで残っていたが、現在は一本の松もなく、家並みとなり、一部は日立金属の工場庭園となっている。 |
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安永の町並み |
安永 |
安永は東海道筋にあると共に、町屋川を利用した船運の船着き場であったので、通行客を相手とする茶店が多くあり、安永立場といわれた。名物として「安永餅」が売られていたが、現在は売る店はない。しかし料理屋「玉喜」、「すし清」が茶店の名残りであり、両天とも藤の花が見事である。なお東海道筋には江戸時代の家も見られる。 |
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伊勢両宮常夜燈及び里程標 |
安永 |
脇の疎水等も含めた周辺の修景が望まれる |
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町家橋跡 |
安永 |
江戸時代の町屋川は川幅が232間余(約420m)あり、寛永12年(1635)初めて架橋される。橋は洪水により、しばしば流失し、時代により長さも変遷した。明治7年(1874)架け替えられたが、昭和8年(1933)新国道にかかる町屋橋がやや下流に出来たため旧橋は廃止となった。 |
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その他街道・町並み |
美濃街道 |
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三崎見附跡 |
相生町 |
「見附(みつけ)」とは、櫓があり番兵を置いた門のことをいい、城門を意味した。門は枡形が一般的であった。桑名の見附は、三崎門の他東海道筋に三ヶ所あった。 |
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堤原標示石(道標)・常夜灯 |
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濃州街道(員弁街道) |
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馬道の町並み |
馬道1〜3丁目 |
古い家並みがいくつか残り旧街道の雰囲気を残しているが、建て替えや駐車場などの景観阻害要因も多い |
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桑名城 |
桑名城 |
吉の丸 |
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本丸跡 |
吉之丸 |
→九華公園 |
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天守閣跡 |
吉之丸 |
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辰巳櫓跡 |
吉之丸 |
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三之丸御殿(新城)跡 |
吉之丸 |
→吉野丸コミュニティパーク |
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北大手跡 |
三之丸 |
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南大手橋 |
片町 |
桑名城築城の時に架けられた。城下と城内三の丸を結ぶ橋である。橋を渡った三の丸には南大手門があった。江戸時代の橋は現在の橋よりも北30mほどのところにあった。 |
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三の丸堀 |
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水のまち桑名を象徴するものとして、水の浄化を含む堀の再生を望む声が多く、それと共にかつてこの堀沿いにあった各櫓の復元も望まれている |
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桑名城城壁 |
三の丸、本町 |
川口樋門から南大手橋に至る東側約500mが、現存する唯一の桑名城築城当時の石垣である。石積みは、野面(のずら)積と打込はぎの2方法で行われている。所々に丸や三角などの石工の印が見られる。 |
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城跡 |
江場城跡 |
江場 |
佐藤杢之助秀勝が居城して、織田信長に従っていたが、元亀元年(1570)信長の怒りを受けて追放され、城は放火された。跡地には「城山跡」の大きな碑が立っている。 |
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中江城跡 |
播磨 |
長島一向一揆の五大城の一つであり、天正2年(1574)織田信長勢の大攻撃には最後まで抗戦したが、遂に降参した。現在は上之輪神明社の場所であるとも伝えられるが、確証はない。 |
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矢田城跡 |
矢田城山町 |
矢田半右衛門俊元が居住した平山城。矢田氏は近くの土豪たちを配下にもち、当地方の中心的な城であった。永禄年間(1558〜70)に織田信長の軍勢により滅ぼされた。信長は部下の滝川一益に当城を守備させ、長島一向一揆攻略の前線基地とした。 |
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尾畑城跡 |
東方尾畑町 |
中世末期に田辺伊勢丸が居城したといわれるが不詳である。 |
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金井城跡 |
東金井 |
天文年間(1532〜55)、松岡彦之助家勝が築城。永禄10年(1567)滝川一益によって滅ぼされた。現在は山となっているが、城跡らしい壇が見られる。城跡近くには討死した人たちを葬る首塚がある。 |
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桑部城跡 |
桑部 |
桑部の東北端の丘陵地上にある平山城で、南北2つある。織田信長勢により落城。現在両城跡とも土塁がよく残っている。北城跡には城山観音堂がある。 |
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島田城跡 |
島田 |
島田兵庫助が居城したが、永禄11年(1568)織田信長勢により滅ぼされた。現在は羽田ヒューム管工場の一部となっている。 |
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志知山城跡 |
志知 |
朝明郡(現四日市市)萱生城の支城であったといわれ、現在も出城の地名を残している。城主については諸説あり不詳。変遷についても不詳である。桑名西高校近くの山林にあったとされている。 |
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山ノ城城跡 |
下深谷部 |
深谷部監物の居城といわれ、永禄年間(1558〜70)織田信長の軍勢により滅ぼされた。現在も壇らしいものが一部みられる。 |
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北廻城跡 |
下深谷部 |
近藤家高が築き、東西100m、南北140mほどあり、四方屏風立であって、わずかに1本の細道が通じるだけであった。元亀2年(1571)織田信長の配下滝川一益に攻められ、籠城したが、水がないため、白米をもって水の如く見せかけたので、白米城ともいう。 |
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堺城跡 |
上深谷部 |
片岡掃部頭の居城。北側のみ丘陵地続きで東南西は丘陵の端にあたる。天正元年(1573)織田信長の軍勢により滅ぼされた。 |
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遺跡 |
高塚山古墳 |
北別所 |
桑名・四日市地方での最大の古墳で、全長80mほどの前方後円墳。詳しい調査はされていないが、有力な豪族の墓と思われる。 |
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西方窯跡 |
西方 |
奈良時代から平安時代にかけての窯跡 |
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七和2号窯跡 |
野田 |
9世紀から11世紀頃までの窯跡。煙道をほぼ真北に向けた半地下式の穴窯で、全町薬6.2m、幅は焼燃部で1m、現在は調整池となっている。 |
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西金井遺跡 |
西金井 |
町屋川右岸から西金井の集落の間の水田一帯から、多くの土器片・石器が発見されており、弥生時代から鎌倉時代にかけての遺跡と見られる。 |
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止山古墳跡 |
桑部 |
桑名南ハイツ住宅団地造成中に6世紀頃と推定される緑色釉が見事にかかった須恵器の提瓶が完形で発見された。 |
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志知遺跡 |
志知 |
古墳時代の須恵器・土師器が発見されており、祭祀遺跡とされている。 |
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蓮敬寺遺跡 |
志知 |
鎌倉時代の山茶碗片などが多数発見されている。 |
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岸西山遺跡 |
東方 |
弥生式土器が発見されている。頂上の魚櫓観音まで散策路となっている |
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蛎塚貝塚 |
蛎塚新田 |
蛤・蛎などの貝殻が堆積しており、下層からは弥生式土器、上層からは土師器・須恵器が出土している。 |
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山王貝塚 |
下深谷部 |
古墳時代から鎌倉時代にかけての遺跡である。貝殻層の堆積と共に、土器や獣骨も出土し、土器には瀬戸や常滑焼もある。 |
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西方廃寺跡 |
西方 |
天平12年(740)聖武天皇行幸の際に建立したと伝えられる巨刹であった。織田信長勢の兵火により焼失し、以後再興されなかった。 |
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万機庵跡 |
西別所 |
明暦元年(1655)、楊柳寺の六世万機和尚(真田幸村の三男)が建立し、隠居後は当庵に住む。明治維新後廃庵となり、荒廃している。 |
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蓮花寺廃寺跡 |
蓮花寺 |
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額田廃寺跡 |
額田(有吉台) |
元は浄蓮寺と称したが、織田信長勢により滅ぼされ、以後廃寺となった。昭和39年(1964)に有吉台団地造成のため、発掘調査したところ、7世紀後半に建立された寺院跡が発見された。 |
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飛鳥寺旧跡 |
下深谷部 |
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建物跡 |
立坂神社旧跡 |
東方梅園町 |
式内社立坂神社の跡 |
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伝「影清屋敷」跡 |
志知 |
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郷方役所・桑名町役場跡 |
京町 |
→京町公園 |
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広瀬鋳物工場跡 |
東鍋屋町 |
江戸時代のはじめに、桑名藩主本多氏の招きにより、鋳物師広瀬氏がここに工場を設けた。そのためこの付近は鍋屋町と称するようになった。文政9年(1826)シーボルトは東海道を通り、この工場を見学している。昭和20年(1945)まで工場は使われたが、戦災で焼失。現在は個人の住宅となっている。. |
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立教館跡 |
伊賀町 |
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町会所跡 |
本町 |
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北河原葬場跡 |
福島 |
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西河原葬場跡 |
明正町 |
江戸時代から桑名城下の火葬場の一つ。紺屋町・鍛冶町より南の人たちの葬場であった。 |
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桑名穀物取引所跡 |
新築 |
→新築児童公園 |
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旭ビルディング跡 |
相生町 |
桑名でははじめての3階建ビルで、高島屋ストアー、映画館、食堂、玉突場があった。惜しくも戦災で焼失。跡地は現在第三銀行桑名支店となっている。 |
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桜堤防(鍋屋堤) |
橋見町 |
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桑名紡績跡 |
吉之丸 |
→吉野丸コミュニティパーク |
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県立桑名高等女学校跡 |
吉之丸 |
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郵便局跡 |
寿町 |
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碑など |
春日神社の青銅鳥居 |
片町 |
春日神社前の広小路に立ち、東海道に面して立つ。寛文7年(1667)に建立され、高さ6m90p。治工は桑名鋳物師の辻内善右衛門種次。桑名鋳物のモニュメントとして旅人に偉容を誇る。 |
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志るべ石 |
片町 |
青銅鳥居の傍にあり、明治18年(1885)、東京の廬田政吉により建てられた。行方不明の人を探すための伝言板であった。人々が多く集まる各地の寺社門前に建てられていたが、現存するのは全国でも珍しい。 |
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「三重県電話の発祥の地」碑 |
吉津屋町 |
三重県下最初の電話局として、明治32年(1899)9月21日名古屋電話交換局桑名支局が設立された。跡地の一部は桑名市消防団第三分団車庫となっている。 |
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伝「伝馬町貝塚」跡 |
伝馬町 |
昭和17年(1942)に「伝馬町貝塚」として県指定史跡となったが、古代にはこの付近はまだ海だと思われ、人が居住する場所と考えられず、昭和59年に県指定は取消となった。 |
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伝「御足洗井」跡 |
新屋敷 |
壬申の乱(672年)に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に泊まられた時に、ここの井戸水で足を洗われたと伝えられる。しかし古代にはこの付近はまだ海と思われ、あくまでも伝承の話である。 |
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伊勢湾台風三十年碑等 |
吉之丸 |
中央に三十年碑があり、左右には高潮堤防緊急かさ上げ事業完工碑がある。平成元年(1989)9月建設省によって建てられた。 |
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不忘碑 |
立田町 |
伊勢湾台風の被害を永く忘れぬための碑。昭和37年(1962)9月26日建立。 |
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開拓史の碑 |
福岡町 |
この地は安政4年(1857)の大津波で荒廃していたが、昭和21年(1946)から干拓事業が行われ、昭和33年に完工した。この開拓を記念して昭和54年に建立。 |
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殉難碑 |
福岡町 |
伊勢湾台風の祭に死亡した建設省関係者12名を弔う碑。昭和36年(1961)9月26日建立。碑文「友はここにねむる。 |
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鋳造報国碑 |
中央町 |
桑名鋳物業の功労者を顕彰する碑。昭和17年(1942)建立。元は国道1号線と八間通りの角にあった金属会館前にあったが、戦災後旧商工会議所前に移され、さらに現在地の市民ホール横に移された。 |
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幼稚園碑 |
寿町 |
桑名で初めて幼稚園が開園したのは大正8年(1919)であった。開園に至る経過を誌した記念碑である。 |
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参宮国道碑 |
参宮通 |
昭和7年(1932)西桑名町によって建立。現在の国道1号線は昭和6年に新設され、昭和7年4月17日に開通。当時は幅11m(うち車道8m、両側歩道各1.5m)で、全面コンクリート舗装であった。 |
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貝塚栄之助頌徳碑 |
中央町 |
初代桑名市長貝塚栄之助(1873〜1947)の胸像。 |
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庚申碑群 |
矢田城山町 |
江戸時代に庚申講の信仰が盛んだった。当時の庚申碑が走井山公園、勧学寺墓地や愛宕山にたくさん残っている。 |
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有王塚 |
矢田明正通 |
「平家物語」に出てくる俊寛僧都の弟子である有王丸の墓と伝えられている。大正14年(1925)に建立された「塚になけ わが泣くあとを 友千鳥 句仏」の句碑などがある。 |
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俊寛塚 |
矢田明正通 |
俊寛の弟子である有王丸が鬼界ヶ島を訪れて、俊寛の遺骨を持ち返ったが、有王丸も桑名で亡くなった。そのため俊寛の遺骨を埋めた塚が築かれたという。 |
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石橋供養塔 |
西別所 |
安永6年(1777)、員弁街道(濃州街道)にかかる橋をかけた時に建立された。 |
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矢部駿河守墓跡 |
稗田 |
矢部駿河守定謙は江戸幕府の江戸南町奉行として名奉公であった。幕府の悪政を批判したため罪人となり、桑名藩へ身柄を預けられた。罪人として墓石は建てられなかった。作家松本清張らの尽力で昭和39年(1964)に墓跡の碑が建立された。 |
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荼毘之碑 |
稗田 |
昭和34年(1959)の伊勢湾台風で、桑名市は約200名の人命を失ったが、火葬場が間に合わないため、多くは町屋川の河原で荼毘に付した。これを記念して昭和41年9月26日に建立。 |
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野村増右衛門墓 |
島田 |
野村僧右衛門は島田の出身といわれ、低い身分から桑名藩の家老を凌ぐ地位にまで立身出世した。しかし家老連中の妬みを受けて、宝永7年(1719)処刑された。 |
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松平定綱および一統之墓所 |
東方堀江町照源寺 |
歴代藩主ら28基の墓石がある。 |
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蛤墳 |
今中町専正寺 |
この地の住人谷氏が蛤に対する感謝と教養のために建てた碑 |
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神社 |
泡州崎八幡社 |
新町 |
江戸時代以前は、この付近一帯を泡須崎とした。この八幡社は元は一色町付近にあったが、のち現在地に移った。境内に標示石(道標)がある。元は新町北端の東海道筋にあったが、戦後現在地に移った。「右きやういせみち、左ふなばみち」とあり、天保13年(1842)の建立。 |
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菅原神社 |
萓町 |
江戸時代には日本百天神の一つに数えられた。はじめは南向きにあったが、後西向きとなり、東海道に面した。明治42年(1909)、天武天皇社に合祀されたが、戦後現在地へ移った。現在は東向きである。現社殿は昭和32年(1957)改築。境内に自然石の臥牛石があり、宝暦年間(1751〜64)に当町出身の大坂堂島の聖人が寄進したと伝えられる。 |
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天武天皇社 |
東鍋屋町 |
壬申の乱(672年)に大海皇子(のちの天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、のちに創建された。元は新屋敷付近にあったが、江戸時代に鍋屋町に移った。戦災で建物は焼失し、のち再建。社宝に「刀 銘固山備前守藤原宗次」があり、嘉永7年(1854)作。宗次は桑名藩主松平(久家)家の抱工である。 |
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市指定文化財あり「刀 銘固山備前守藤原宗次」 |
一目連神社 |
西鍋屋町 |
一目連は金属工業の祖神であり、150年ほど前に鋳物師の町であることにちなみ勧請された。明治42年(1909)神館神社に合祀されたが、戦後現在地に遷座。境内に徐風庵の句碑「名いろいろ定まる夏の木げ可南」がある。道路向かい側に明治20年建立の標示石(道標)があり、「左東海道渡船場道、右西京伊勢道」。この標示石は、元の道路の反対側にあった。 |
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立坂神社(矢田八幡社) |
新矢田 |
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神戸岡神社 |
福江町 |
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神館神社 |
若宮町2丁目 |
周囲に疎水を巡らせ、若宮公園とあわせて住民の憩いの場となっている。 |
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八重垣神社 |
八重垣町 |
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城南神社 |
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鎮国守国神社 |
吉の丸 |
鎮国神社は、桑名藩5代藩主松平定綱を、守国神社は松平定信を祭った神社である。鎮国守国神社は、桑名藩に関する多くの文化財を収蔵している。 |
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赤須賀神明社 |
赤須賀 |
赤須賀は漁師の町であり、産土神として神明社を祀る。別宮に水難守護の一目連社を合祀している。明治31年(1898)揖斐川改修工事のため、現在地へ移転。江戸時代に奉納された御座船の模型があったが、社殿と共に戦災で焼失。現社殿は明治22年(1947)一部再築、昭和30年増築。当社の祭礼「赤須賀神明社の石取祭」は8月14〜16日に行われる。 |
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春日神社(桑名宗社) |
本町 |
1296年創建。桑名神社と中臣神社の両社からなる。寛文年間鋳造の青銅の大鳥居が残る。天下の奇祭“石取祭”で知られる。 |
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住吉神社 |
住吉町 |
桑名は舟運が盛んであったため、正徳5年(1715)に、海上安全の神である住吉神社を歓請した。境内には天明8年(1788)建立の常夜燈、文政10年(1827)建立の石造鳥居は、明治28年(1895)建の石造狛犬、昭和38年(1963)建立の有本芳水詩碑、昭和49年建立の山口虚子句碑がある。 |
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北桑名総社(北桑名神社) |
堤原 |
1908年創建。佐乃富神社、中臣神社、太一丸神明社などを合祀し、現社名に改称。「持統天皇御舊跡」の石碑がある。 |
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桑名神明社 |
桑名本郷 |
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増田神社 |
太夫 |
伊勢太神楽全曲が12月24日に奉納され地方に巡業に出かける。国の重要文化財に指定。獅子舞と放下曲芸があり、魁曲は圧巻である。 |
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北別所神明社 |
北別所 |
天正元年(1573)織田信長が当地に在陣した時に馬をつなぎ止めたと言われる駒つなぎの松といわれる松があった。 |
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尾野神社 |
東方舟着町 |
式内社の一つ。舟着明神とも呼ぶ。古くはこの付近が海岸線であったといわれ、当社境内に舟繋松と称する松がある。一帯が古墳や城址跡の史跡になっている |
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額田神社 |
額田 増田 |
式内社の一つ。桑名地方開発の祖神といわれる天津彦根命(多度神社の祭神)の孫である意富伊我都神(額田部連の祖)を祭る。文政8年(1825)に増田に分祀遷座した。 |
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星川神社 |
星川 |
式内社の一つ。星川は大和国山辺郡星川(現天理市)から移住した星川氏族が開発し、その祖神である星川建彦命を祀る。 |
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長谷神社 |
桑部 |
式内社の一つ。常陸国(現茨城県)鹿島神宮の祭神を勧請したといわれる。 |
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櫛田神社 |
島田 |
式内社の一つ。 |
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鞆尾神社 |
友村 |
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平群神社 |
友村 |
式内社の一つ。当地に移住してきた平群氏の一族が先祖を祀ったと伝えられる。 |
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深江神社 |
下深谷部 |
式内社の一つ。桑名藩主松平定勝の四男定実が信仰し、元和8年(1662)に社殿を寄進した。 |
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森大明神社 |
上深谷部 |
古くは北伊勢小島大森大明神と称し、揖斐川沿岸にあって、数十町に及ぶ境内があって、付近を大森又は長官と称したという。 |
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カトリック教会 |
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西桑名神社 |
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道のアイストップとなっている |
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西別所八幡社 |
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緑のエッジにある神社 |
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播磨神社 |
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小高い緑は周辺のランドマークになっている |
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小桜稲荷 |
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蜜柑畑の中を通り抜けるアプローチは付近の人の散策路になっている |
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秋葉神社 |
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上の輪神社 |
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能部神社 |
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造成地の中に残された貴重な緑 |
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天皇八幡社 |
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神明社 |
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町屋川や対岸の眺めがよい |
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寺院 |
大圓寺 |
入江葭町 |
鏡智山と号す。西山浄土宗。古くは朝明郡馬場(現三重郡菰野町)にあり、のち桑名郡益田庄高畠(現在の堤原付近)に移ってきて、さらに一色町へ移り、万治2年(1659)に現在地へ移る。寺宝に「十王図」10幅があり、中国よりの伝来品と思われる。応永14年(1407)北畠大納言より大圓寺聖妙興有上人が拝領したもの。作者不明。 |
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教宗寺 |
新町 |
四宝山と号す。浄土宗真宗本願寺派。元は法盛寺境内にあり、戦災を受ける。戦後道路拡張のため、和泉へ移り、昭和39年(1964)現在地へ移る。現本堂は愛知県八開村より移築したもの。この地には明治9年(1976)に本願寺派の学校である五瀬教校が設立され、明治33年まであった。その後は九華育児院があったが戦災で焼失した。 |
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光明寺 |
新町 |
瑠璃山医王院と号す。西山浄土宗。元は春日神社の近くにあったが、慶長町割の際に現在地へ移った。春日神社の神宮寺をつとめる格式ある寺であった。東海道に面して門があったが、今は脇道より入る。戦災にあう。境内に寛政2年(1790)七里の渡船が難破した際の供養碑がある。 |
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光徳寺 |
新町 |
鎮照山凝念院と号す。浄土宗、元は泡州崎念仏道場と称した。明治7年(1874)進善学校(日進小学校の前進)が当寺で始まった。明治10年に火災を受け、さらに戦災で焼失。境内墓地に万古焼の祖である「沼波市岡宗栄(大阪市岡新田開発者、1714没)、加賀月華(陶芸家、1937没)の墓がある。また当寺には桑名市戦没者過去帳を安置している。なお境内のヒカンサクラは桑名市内では早く咲く桜である。また岐阜県根尾谷から分植した薄墨桜もある。 |
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十念寺 |
伝馬町 |
浄土宗で室町時代に創建。建物は戦争で焼失。明治維新の時、桑名半の責任を負って切腹した森陣明の墓(市指定文化財)など数多くある。11月23日には七福神まつりがある。 |
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寿量寺 |
伝馬町 |
妙延山と号す。日蓮宗。元は今一色にあったが、慶長町割の際に現在地へ移る。江戸城の障壁画を描いた狩野光信は江戸から京都へ帰る途中に、慶長13年(1608)6月4日桑名に没し、当寺に葬った。入り口すぐ南側に「狩野光信の墓」の小さな五輪塔がある。境内には明治2年(1869)銘の仏足石があり、寺宝として「銅磬」、「日蓮聖人御本尊」がある。建物は戦災で焼失。のち鉄骨木造建で本堂を再建。 |
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長圓寺 |
伝馬 |
12代住職魯稿庵義道(1759〜1831)によって桑名の千羽鶴が考案された。桑名の旧市街の目立たない通りにたたずんでいる。 |
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報恩寺 |
伝馬町 |
高龍山謝徳院と号す。浄土真宗本願寺派。元は江場村にあったという。安永3年(1774)建築の本堂は戦災で焼失。昭和23年(1948)本堂再建。寺宝に狩野常信画三幅対、山岡鉄舟書般若心境1軸がある。墓地には竹内南渕(国学者)、竹内文平(桑名町長)らの墓がある。 |
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法盛寺 |
萱町 |
浄土真宗本願寺派。三河から応仁2年(1468)桑名に移ったといわれ、西御坊とも呼ばれている。戦災にて全伽藍消失。本尊阿弥陀如来立像は堪慶昨(市指定文化財)。桑名日記(市指定文化財)の筆者渡辺平太夫の墓がある。 |
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楊柳寺 |
新屋敷 |
安国山と号す。曹洞宗。壬申の乱(672)の時に、のちの持統天皇が当寺に滞在したとも伝えられるが、所在地は度々移動している。建物は戦災で焼失。昭和24年(1949)仮堂再建。寺宝に「銅鐘」(元禄10年=1697銘)がある。境内には北西地方唯一の禁塔「不許葷酒入山門」(元禄10年)、水向地蔵石像と如意輪観音石像(いずれも元禄2年)が現存する。 |
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最勝寺 |
萱町 |
坂手山大通院と号す。浄土真宗本願寺派。元は桑名郡長島坂手村にあったが、のち現在地に移った。浄土寺、照光寺(員弁郡大安町)と共に伊勢三大寺といわれた。戦災で焼失し、昭和38年(1963)コンクリート建で本堂再建。寺宝に正保2年(1645)作の「親鸞聖人御絵伝」がある。 |
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顕本寺 |
萱町 |
自栄山境智堂と称す。日蓮宗。のちの桑名城内三之丸の地にあったが、慶弔町割の際に現在地に移る。境内墓地には「水谷九左衛門光勝(四日市代官・寛永7年=1630没)墓」、「吉村又右衛門宣充(桑名藩家老、慶安3年=1650没)墓」や桑名藩重役であった服部半蔵正啓(文政8年=1825没)、東里翠山(慶応3年=1867没)、服部正義(明治19年=1886没)などの墓がある。建物は戦災で焼失。のち再建。 |
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真如寺 |
新屋敷 萱町 |
日輪山と号す。曹洞宗。寛永12年(1635)松平定綱が桑名へ移封の時に、遠州(静岡県)掛川の光山和尚を招いて建立。墓地に桑名藩立教館教授秋山勝鳴(白賁堂・蝸庵居士とも称す)一族の墓がある。戦災で建物は焼失。のち再建。 |
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円通寺 |
江場 |
法城山と号す。浄土真宗本願寺派。江場城が元亀元年(1570)滅んだのち、城主の子佐藤秀道(釈教円)が元亀3年に城跡近くに開基。境内に大公孫樹があり、根廻り約6.4m、高さ約27m、戦災の際に火災で痛めつけられた。樹齢約400年。建物は戦災で焼失し、その後再建。 |
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本願寺 |
東鍋屋町 |
西山浄土宗。由来は不詳であるが、江戸時代から本願寺村があり、古くから巨刹であったと思われる。戦災で建物は焼失。現在は住職も居らず荒廃している。境内に各務支考の分骨墓である「梅花仏鏡塔」(市指定文化財)がある。また、雲裡坊から続く桑名の俳句結社「間遠社」の歴代社長の句碑と松尾芭蕉の句碑もある。 |
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明圓寺 |
西鍋屋町 |
瑞い山と号す。浄土真宗大谷派。開基不詳。香取(多度町)の法泉寺安田空明の家臣伊藤孫右衛門が出家して当寺を中興すと伝える。古くは現在地よりも南にあったという。戦災にあい、昭和22〜23年(1947〜48)に再建。なお門前の道路際に水準点があり、海抜1.158m。 |
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教覚寺 |
西鍋屋町 |
浄土真宗本願寺派。益田庄地頭職二階堂氏の一族が文明3年(1471)に桑名郡町屋に道場を開き、のち東方村に移り、さらに現在地に移る。戦災にある。昭和24年(1949)仮本堂再建。 |
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善西寺 |
西矢田町 |
東海道沿いの古い塀が雰囲気をつくっている |
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了順寺 |
大福 |
東海道沿いの塀、山門、大屋根等が印象的 |
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晴雲寺 |
安永 |
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西福寺 |
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寺の大屋根や通りに沿った高塀、祠、煉瓦塀が周囲に特徴ある景観をつくり出しており、ランドマークともなっている |
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浄土寺 |
清水町 |
西山浄土宗。永承4年(1049)海中から出現した地蔵尊を安置したのが始まりといわれる。桑名藩主本多家の菩提寺。当寺にまつわる幽霊飴の話しが伝えられており、現在でも8月の地蔵盆には幽霊飴が売られる。 |
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海蔵寺 |
北寺町 |
曹洞宗の寺で宝暦治水の薩摩義士の墓所がある。建物は戦災にあい、昭和31年(1956)再建。宝暦治水の偉業は千本松原に残っている。 |
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市指定史跡 |
桑名別院本統寺 |
北寺町 |
1649年創建。桑名御坊とも称し、俗に「ごぼうさん」と呼ばれる。八棟造りの建物で文久36年(1863)将軍家茂が宿泊。明治初年聚星閣ができ天皇も駐泊された。戦災で消失。鐘桜山門は大阪八尾別院より移築。昭和25年(1950)寺再建される。芭蕉の句碑で”冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす”がある。(市指定史跡) |
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仏眼院 |
南魚町 |
天台宗。江戸時代は春日神社の別当をつとめ、神宮寺も兼帯する。戦災で全焼したが、平成元年(1989)現本堂再建。精義小学校創設の地であり、境内に記念碑がたっている。 |
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長寿院 |
北寺町 |
初めは播磨の方にあり「万寿院」といったが、織田信長によって焼かれて、現在地に移り「陽向院」と改称された。元和4年(1618)藩主松平定行の夫人が亡くなったためこの寺を菩提寺とし、夫人の法号をとって「長寿院」と寺号を改めた。 |
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輪崇寺 |
南寺町 |
浄土真宗高田派。古くは走井山近くにあり、門前まで舟が着いたので舟着御坊と呼ばれ、臨湊寺と称した。墓地に桑名萬古再興の森有節の墓がある。 |
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専正寺 |
今中町 |
浄土真宗本願寺派。境内に「蛤墳」(市指定文化財)がある。 |
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養泉寺 |
小野山 |
浄土真宗本願寺派。現本堂は明治28年(1895)鍛冶町で再築し、昭和4年(1929)に現在地に移築。 |
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長禅寺 |
尾野山 |
曹洞宗。古くは長島上坂手にあったが、三大川改修工事により、川中に没することとなったため、明治33年(1900)頃、現在地に移った。エッジに位置し、市街地を一望できる |
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勧学寺 |
矢田 |
真言宗。本尊千手観音は樟の一本造り(県指定文化財)。矢田城跡に7代藩主松平定重が本堂再建。太子堂、仏足石、庚申碑もあり周囲は公園として整備され桜の名所。 |
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冷水庵 |
上野 |
曹洞宗。開基不詳。元禄頃(1688〜1704)愚白禅師が再興。境内墓地に亀跌とよばれる、亀の形を「した珍しい墓がある。 |
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聖衆寺 |
北別所 |
真言宗。建仁4年(1204)創建、43の僧坊を持つ巨殺であったと伝えられるが、信長侵攻で焼失。瓦焼の阿弥陀如来座像があり「土佛さん」と親しまれ江戸時代の行楽地であった。秋葉堂があり4月17日にお火渡りがある。 |
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円妙寺 |
東方山陽町 |
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円妙寺墓地 |
東方立坂町 |
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大福田寺 |
立坂町第二 |
1275年創建。日本三大聖天の一つ桑名聖天大祭で知られる。現存の本堂は明治22年(1889)に再建。本尊阿弥陀如来は県指定文化財。聖天堂で秘仏大聖歓喜天を祭る。火渡りは子供が主役の行事であり、屋台も多く、市民に親しまれている。 |
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照源寺 |
東方 |
1624年創建。桑名藩主の菩提寺で境内には金龍桜がある。由緒のある寺であると共に、緑豊かでゆったりとした境内は市民の憩いの場となっている。 |
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安渡寺 |
星川 |
単立真言宗。鎌倉時代から星川の観音として近隣に名高い。 |
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徳元寺 |
東金井 |
浄土真宗本願寺派。金井城の被官である山家氏の一族である祐西坊が明応年間(1492〜1501)に開基。 |
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大正寺 |
東方 |
浄土宗。江戸時代中期の開基。 |
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安養寺 |
下深谷部 |
浄土真宗本願寺派。現本堂は文政年間(1818〜30)頃の建築と伝えられる。 |
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西林寺 |
下深谷部 |
浄土真宗本願寺派。永正6年(1509)、北廻城主近藤家教が父の家正3回忌法要に際して建立。 |
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明光寺 |
上深谷部 |
浄土真宗大谷派。奥州国司北畠顕家が建武4年(1337)に討死し、その子顕成が父を弔うために出家し、孫の顕道が奥州海老原に寺を建立。その後北畠家が伊勢国司になったため、当寺も当地に移る。 |
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裕泉寺 |
今島 |
浄土真宗本願寺派。下深谷部の北廻城主近藤右京亮家教の孫近藤左近が出家して祐泉と名乗り、寛永2年(1625)長島又木に開基。のち今島へ移る。 |
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長願寺 |
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おおきなくすのきがランドマークとなっている |
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飛鳥寺 |
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小高い丘の上にあり、深谷のまちが一望できる |
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来遊寺 |
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寺の屋根が集落のランドマークとなっている |
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蓮敬寺 |
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寺の屋根が集落のランドマークとなっている |
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浄光寺 |
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背景となっていた緑地が造成によりなくなっている。植栽等による修景が必要 |
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善徳寺 |
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寺の屋根が集落のランドマークとなっている |
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教専寺 |
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寺の屋根が集落のランドマークとなっている |
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その他 |
瓦焼の阿弥陀如来坐像 |
北別所(聖衆寺) |
聖衆寺を再興した信行の作。信行は瓦師の出身。瓦焼の像のため「土仏さん」として親しまれている。現在は阿弥陀堂に安置されている。 |
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