子供の頃から石取祭に魅せられたまちの研究者

おがわまさお
小川 雅生さん

 桑名市生まれの小川さんは小さい頃より石取祭に興味を持ち、高校生の時に本を出版されています。石取祭車研究会として20年間活動を行い、研究会として4冊の本も発行されています。本業は広告代理店の営業をされていますが、学芸員の資格を有し、諸戸家の石取祭車の修復にも関わっておられます。小川さんのご自宅で、古い石取祭の写真を多数拝見しながら、石取祭をめぐる様々なお話を伺いました。

 


小川雅生さん

● 石取祭はいつからはじまったのですか
「桑名神社の例大祭「石取比与利大祭典」の中で1つの神事として行われていたものが、徳川時代の宝暦年間に分かれ、発展したものといわれています。明治・大正・昭和にかけて発展し、祭車も大きく、美しくなりました。戦前は45台もの祭車がありましたが、昭和20年7月の戦災などにより大半が焼失しました。その後、次々と再建され、現在では41台が参加しています。昭和46年までは7月に行われていましたが、それ以降、8月となり、場所も八間通に並べられるようになり、観光客も多数集まるようになりました。」

小川さんも調査に関わり作成された三重県祭礼行事記録調査報告書「春日神社の石取祭」

● 石取祭は市民の方にとってどんな意味をもっていますか
「石取祭までのカウントダウンが入ったカレンダーがあります。石取祭を中心に年間の行事が動いているといえます。石取祭は、祭本番だけではなく、その準備から大変な労力が使われます。何回も会合を重ねることで、親密な関係が創られていきます。中には新たに転入した人で、祭に参加したことから、いろんな人とのつきあいが生まれ、4年目には青年会長になった人もいるんですよ。」
「しかし、一方で、石取祭の開催や石取祭車の修理には多額の費用がかかるので大変です。わずか20数軒で2000万円の修理費用を捻出したところもあります。祭車や山車蔵を修理するのに多額の費用がかかった場合、祭への参加を取りやめることもあります。1回の祭に参加する費用も多額であり、休まないと運営できないのです。」「石取祭のある町内に居住すると負担が大きいということから、敬遠される方もあり、それが中心市街地の人口減少の一因となっているといえるかもしれません。」

● 石取祭が行われる町内と行われない町内があるのはなぜですか
「石取祭は庶民の祭として行われたことから、武家町では行われていませんでした。現在、石取祭が行われていないのは、主に昔の武家町だったところです。同じ寺町商店街でも北寺町は町人町であったことから、石取祭が行われていますが、南寺町は武家町であったことから、行われていません。」
「赤須賀にも石取祭がありますが、赤須賀と春日神社の間に武家町があり、そこを通って春日神社にいくことができませでした。そのため、今でも独自で別の日に石取祭が行われています。」 


石取祭


祭車

● 北勢地域には石取祭のような祭がたくさんあるそうですが
「各地に伝わる山車は伝統を重んじるところが多いのに対して、石取祭は、祭車の形態が江戸後期から明治初期にかけて著しい発展を遂げました。そのため、「新車至上主義」というようなものがあり、流行遅れとなった祭車を売りに出すということが度々繰り返されたといいます。その結果、北勢地域を中心に岐阜県や愛知県にも石取祭が広がりました。」
「桑名から富田に売られた祭車が、また売りに出されましたが、買い手がなく、祭車を引きながら、売り歩いたという言い伝えもあります。」

● 石取祭をめぐるいろいろなエピソードがあるようですね
「東京の浅草では、桑名市の出身者が郷土を懐かしんで、昭和初期に行ったという記録が残っています。」
「全国に石取祭のファンがいます。石取祭をとりあげたホームページを作成している人が何人かおり、掲示板を利用した情報交換も活発に行われています。インターネットが新しい仲間の輪を広げているですよ。」 


 

(2001年3月8日/小川さん自宅にて)


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