シドニー五輪世界最終予選観戦記・特別編

ゼロの地点にはたどり着いた、この日が本当のスタート
魔女の呪縛からの解放
文化としてのバレーへ


ゼロの地点にはたどり着いた、この日が本当のスタート

2000年6月25日、午後4時34分、この瞬間は、クロアチアのバレーの歴史が変わった瞬間として記憶されるだろう。もちろん、五輪初出場を決めたという意味でもそうである。しかし、それ以上に大きなことは、クロアチア生え抜きの若手選手が主役のチームで、新しい歴史を切り開いたことである。旧ソ連以来の帰化選手を中心に組み立てたチーム(このチームを今後旧クロアチアチームと呼ぶことにする)がなしえなかったことを、この新しいチーム、それも全くの急造チームで成し遂げたのである。この瞬間、クロアチア女子バレーチームの主役は、確かに次世代の選手に引き継がれた。

そしてこの瞬間は、クロアチアチームが本当の意味で独立を果たした瞬間でもあった。帰化選手しかトスを上げたことがない。これでは、チームとして一人立ちしているとはとうてい言えない。自国で育てたセッターが、チームメイトの信頼を得て、チームの中心となった。その観点でも、チームの歴史が変わった大会になった。
グリゴロビッチがチームに持ってきた一番大切なもの、それは、1ポイント1ポイント考えてプレーをするという姿勢ではないか、素人ながら私はそう思っている。もちろん、チェブキナの存在も大きいが、チームが変わった最初の原動力はグリゴロビッチにあると思う。
グリゴロビッチにあってリヒテンシュタインにもキリロワにもないもの、それは、絶対的エースのいないチームでの経験である。彼女はユース世界選手権で正セッターでありキャプテンだった。クロアチアのユースには、フル代表と違い絶対的エースはいない。困ったらエースにあげる、というのは通用しない。フル代表では、最後にはバーバラかレトに頼ることになるだろう。それでも、必要な場面でエースに決めさせるためには何をしなければならないか、それを考えながらトスを上げていると感じられた。ひょっとすると、本人は意識せずにそれができているのかもしれない。だから、中国戦でもフルセットまでいったわけだし、日本戦では絶体絶命の場面から何度も息を吹き返し逆転できたのだと思う。

しかし、これだけ優れたアタッカーがいるのだから、五輪出場できるのは当たり前である。もちろん五輪に出場できなければ論外、むしろ欧州予選までで決められなかった責任を問うべきである。それも、五輪に出場して当然という戦いぶりで出場したのであれば、相応の評価もできる。しかし、今大会の内容は、それにはほど遠い。この五輪出場を奇跡と繰り返しているのは、実力で勝ったのではない、ということの裏返しだ。実力で勝ったのなら、勝って当然、という表現になる。日本戦にしてもイタリア戦にしても、後から振り返っても「なぜ勝てたのだろう?」という試合である。勢いで勝ったとしか思われない。これまでの失敗の責任を問わなければ、ワールドカップ7勝4敗という成績で安易に葛和体制を信任し、結局五輪出場を逃した日本と同じことになる。五輪本戦のリーグの組分けからして、99%以上の確率で5〜8位におさまると思われるが、必要なことは内容を厳しく吟味することである。安易に結論を出すことは許されない。

98年以降、チームは迷走・混乱を極めた。いやしくも世界でベスト8を狙うようなチームとは思えない。強いチームほど、レギュラーメンバーは変わらないものだ。98年まではバーバラ・レト・クズマニッチに旧ソ連の金メダルメンバーのキリロワ・チェブキナ・シドレンコを加えたチームだった。

それが99年に入り、突然、ベテランはいらないと言わんばかりに、若手に一気に切り替えた。そもそも、ワールドカップから五輪大陸予選までは2ヶ月もない。若手のテストをしている時期はとっくに過ぎている。当然のごとく結果は惨敗。その結果以上に内容が酷い。まともに勝った試合は一つもない。大砲がいることを別にすれば、日本の中学生並みだ。あのチームで世界に通用するとでも思っていたのか。あのレベルのチームで世界大会に出場することからして、スタッフの見識は知れる。そして、もっと大きな疑問は、五輪出場に向けてできる限りの努力をして、到達したレベルがあれだけに過ぎないのか、ということである。前回五輪予選敗退から3年以上、95年ワールドカップから起算すれば4年の時間があったはずである。今回シドニー五輪の予選は、旧ソ連からの帰化選手に頼れないことは、誰でもわかる。前回五輪予選で敗退した直後から、世代交代を見越して、若手の選手を育成し、国際大会の経験を積ませなければならない。バーバラ以外に飛び抜けた選手は誰一人いないというチームになるのだから、それにふさわしいあり方のチームを作らなければならない。当然、守備とつなぎを徹底的に鍛え直し、正確かつ速い攻撃を多くしていかなければならない。これは決して無茶な要求ではないはずだ。五輪に出場するほかの国は、いずれも、当たり前にやっていることである。私はやるべきことを全てやったとは思えなかったし、今でも思っていない。だからそれだけ怒ったわけである。
五輪欧州予選にはベテランの帰化選手3人を戻して臨んだ。それでも五輪出場権獲得に失敗。この間、帰化選手制限という降って湧いたような難題が発生するが、もとをただせば何の制限もなかったそれまでが異常である。ベテランの帰化選手が退いた後に向けて何の手も打ってなかったことが、問題の本質だ。
6月初めのBCVマスターズは、ワールドカップとほぼ同じメンバー、センター線のみ変更した。そのBCVマスターズが終わった後、今大会のまさしく直前になって、セッターを交代。しかもその大役を任されたのは、ユース出たての選手である。イタリアリーグ終了後2ヶ月休んでいたチェブキナを、急遽召集。チェブキナ本人、相当怒っていたようだ。BCVマスターズとこの最終予選両方に参加した5チームのうち、この大会の間にセッターを変更したチームは、もちろんほかにはない。

これを無責任・無策と言わずして、何と呼ぶのか。

リヒテンシュタインという選択肢があってあえてそれを捨てたのであれば、監督としてプラスに評価できる。しかしそうではなかった。少なくとも、1月の大陸予選では旧ソ連の3選手を入れて戦っていたわけだし、その大陸予選に勝てなかった時点で、最終予選に向けても万難を排しキリロワを復帰させる努力をすべきである。まともな指導者なら、そう考えるはずだ。ところが、監督はそれさえできなかった。そもそも、今大会終盤の程度のチームは、遅くても98年世界選手権まで(理想的には97年欧州選手権)にはいくらでもできたはずだ。それが今回五輪予選まで全くできなかった上でのことである。そこに、「国籍を変更して正当な手続きを完了して2年間は出場できない」という制限を(おそらく)後からたたきつけられ、リヒテンシュタインはこの制限にかかるため出場できなくなった。やるべきことを何もせず、結果としてどうしようもなくなって、仕方がなくユース出たてのセッターに全てを任せた。

指導者としては最低だ。民間企業の社長、あるいはほかのナショナルチームかクラブチームの監督であれば、とっくに解任されている。
やるべきチーム作りをきちんとやっていれば、帰化選手の制限が今大会直前に突然できたからといって、慌てることは何一つなかったはずなのだ。その制限によってチームが壊れたというのは、やるべきことを何一つやっていないことの証明だ。自らの無能・怠慢を、規則のせいにしているだけだ。期間無制限に1人のみ・2年間は一切出場不可という内容の是非はともかくとして、国籍変更選手の制限そのものは、何らかの形であるのが当然だ。
バーバラ、クズマニッチ、レトを育てたのは、カルポリ御大。グリゴロビッチにしても、クラブチームかユース代表で育てた選手だろう。要するに、世界に通用する選手など、初めから誰一人育てていない。立派な選手を預けてもらいながら、チームとして組織することも一度もできていない。さらに言えば、試合中も、監督の役割を果たしていない。選手交代をするわけでもない(もっとも、交代出場できるような選手を、そもそもこの人物は育てていないが。)。タイムアウトをかけるタイミングは、常にでたらめだった。これだけ監督としての仕事を何一つ果たしていない監督がいること自体驚きだ。このチームには、素人のように見える選手がいつも何人かいるけれども、それ以前の問題は、監督が素人以下ということだ。

確かに流れは変わった。
グリゴロビッチは予想をはるかに上回り使えるセッターである。もちろんひどいミスは多いが、リヒテンシュタインと比べれば、トスの質もそう悪くはないし、リヒテンシュタインにはないトス回しのセンスがある。(今大会、バーバラの決定率は50%を超えたが、レトの決定率も50%に達した。ワールドカップでは44%だった。もちろんキューバ・ロシア・ブラジルがいないことを考えれば、決定率が上がるのは当然だが、これだけ大きく上がったことは、それだけ打ちやすいトスが上がっていることを意味する。)リヒテンシュタイン−リマッツ−ユルツァンという布陣に比べれば、グリゴロビッチ−チェブキナ−リマッツのほうがずっとましだろう。
レベルの低い相手だろうが相手のミスだろうが、とにかく3連勝。選手は彼女らなりに自信をつけて、成長した。しかしそれを裏返して見れば、スタート時のレベルがあまりにも低すぎただけにすぎない。そして、アルゼンチンの自滅、オランダのもたつき、日本の油断(表現が不適切かもしれないが)、イタリアのモチベーションの低下など、複合的な要因がなければ、このチームの五輪出場など全くあり得なかったのが事実だ。これは指導者の功績では全くない。そして、流れを変えられるだけの力がある選手だからこそ、こんな屑の道連れにしてはならない。

今こそ、本当の意味でこのチームの流れを変えるべき時であり、その最大のチャンスだ。
バレーボールという競技は、サーブポイントという例外を除けば、全て敵の攻撃を受けてセッターに返さない限り、得点のチャンスはない。レシーブが悪ければ、いくら優れたアタッカーがいても何の意味もない。拾ってつなぐことでチームが盛り上がり、相手にプレッシャーを与えるという、精神的な効果も決して過小評価してはならない。守備と攻撃はトレードオフではない。守備は攻撃の前提だ。だから、守備のできないチームは例外なく伸びない。今大会を勝ち抜いたチームにしても、いずれも、非常に安定したレシーブ力を持っている。唯一の例外がクロアチアだ。この貧弱きわまりないレシーブでは、予選は勝ち抜けても、本戦では勝負にならないだろう。守備を根本から鍛え直さない限り、五輪出場が限界だ。
「拾わなければ得点できない上に相手の得点になる」
とにもかくにも五輪出場を果たしたことで、クロアチア国内でのバレーに対する扱いは変わるだろう。その今こそ、この本質に立脚した正しいバレーができるチームに生まれ変わる唯一無二のチャンスだ。

ゼッターランド・ヨーコと葛和前全日本監督が、日本女子バレー再建を考えるというテーマで対談を行い、これが月刊バレーボールに連載されている。その第1回に、ゼッターランドがオレンジアタッカーズ(ダイエー)でセッターをしていたとき、チャンスボールなのにほしいところにパスが来ない、というくだりがある。古くは、中学・高校でも実業団でも、オーバーハンド・アンダーハンドのパスを長時間にわたって反復練習させたという。ところが、最近は、戦術とかコンビネーションとかの全体練習が多くなり、個人の基本技術を鍛える時間は減ったという。全日本再建の対談の、それも最初の段階で、いみじくも、何が最も重要なのかが指摘されたのである。
韓国のテレビで、ある高校の女子バレー部の練習風景が紹介されたが、みんな極寒のソウルで毎日朝五時からトレーニングしているという。年に一、二回しか家にも帰れないとのことだ。素質のある選手が、小学校中学校の段階からバレーを始めてさえ、世界に通用する守備能力を養う道程はそれほど遠いのである。ましてクロアチアの場合、ほとんどの選手はそれほど早い段階からバレーを始めているわけではないだろう。となれば、なおさら密度の濃い練習を長時間こなさなければ、まともな守備などできるはずはない。
日本に比べても、クロアチアはその基本が段違いに貧弱だ。結論としては当たり前だが、基本ができなければ、応用を身につけようとしても砂上の楼閣に過ぎない。そしてその基本を身につけるには、徹底した反復練習以外の方法はないということだ。もっとも時間がかかるし、選手にとっても関係者にとっても苦しい道のりになるが、チーム再建には、それ以外の処方箋はない。それができないのであれば、このチームの進歩はあり得ない。ただ単に、(広い意味で)カルポリ氏の遺産で食いつないでいる間はそれなりに強かった、というだけで終わる。

そしてその第一歩は、これまでの数々の失敗・無計画の責任を徹底的に追及した上で、正しいバレーを教えられる人物を監督に選ぶことだ。このチームがイエリッチ一家のチームである限り、チームの進歩はあり得ない。この結論は、チームが五輪に出場しても、その五輪でいかなる結果が出ても、変わるものではない。五輪に出場し、選手が各国リーグに進出して協会の収入が増えて、それによってチームの責任者を延命することになれば、五輪に出場しても何の利益もないどころか有害だ。クロアチア協会に、クロアチアのバレーを強くしたいという気持ちがもし少しでもあるのであれば、今こそ新世紀を見据えて決断を下すべきだ。そしてチームの強化に向けて、やるべきことははっきりしている。
この五輪では、隣国のユーゴスラビア男子チームが世界の頂点に立った。彼らはチームとして世界一である。特別に高いわけでもなく、特別に速いわけでもない。そのチームが世界一になったのは、絶対にボールをコートに落とさない技術と精神力、その最も根本的なところが世界一だからにほかならない。クロアチアとユーゴで、バレーをする環境に大きな差があるとは思えない。制裁が長い間続いたり近年にNATOによる侵略を受けたりしたユーゴに比べれば、むしろクロアチアのほうが恵まれているはずだ(また、そうでなければならない)。それにもかかわらず、バレーのレベルは、この隣り合う国の間に天と地ほどの差がある。クロアチアの男子チームは、世界選手権本戦にも出られないけれども、それが両国の本当の力の差であろう。これは第一に、指導者の力量の差である。そして、その背後にある協会の見識の差だ。相対的な意味で、女子クロアチアのほうが、少なくともアタッカーについてはいい選手がいると思う。それでこの程度のチームしかできていないのは、情けないし、恥ずかしい。まずこの指導者を取り替えない限り、女子においても遠からず男子と同じ力関係になるだろう。
私は、いきなり男子ユーゴのような世界一のチームを作れと要求するつもりはない。これまで述べてきたように、まず第一に、選手個々のボール扱いの基礎技術、すなわちレシーブとパスを徹底的に鍛えることである。代表レベルでするべきことは、誰を中心にどのようなバレーで世界と戦うのかはっきりと構想を立てて、その構想に基づいて計画的に、次世代選手を育成しチームに組み入れることである。これは、やろうとすれば必ずできるはずである。五輪に出場している国は、何も、経済的に恵まれていてバレーが盛んな国ばかりではないし、あるいは国家ぐるみで強化体制をとっている国ばかりでもない。そのような国でも、それはきちんとやっている。それができなければそもそも五輪に出場できるはずがない。
もしやるべきことをやるつもりがないのなら、欧州選手権や世界大会に出ない方がいい、いや、出るな。今のチームのままで出ても恥をさらすだけだし、金の無駄遣いだ。クロアチアの経済水準を考えれば、バレーチームを1週間2週間も国外に遠征させる費用は莫大なもののはずだ。それだけの金があるのなら、もっと有意義なことに使うべきだ。バーバラを二度と見られないのは寂しいが、これまでの世界大会あるいは今回最終予選の思い出だけでも、ファンとしては十分生きていける。それよりも、あれほどレベルの低いチームにバーバラやナターシャがいることのほうが許せない。

もっとさかのぼれば、アトランタ五輪の最終予選で敗退した後に、指導者の責任を追及し、シドニー五輪にもっと確実に出られる指導者を招聘しなければならない。普通の良識のある協会なら、そう考えるはずである。ところが、クロアチアの協会は違った。また、国籍を変更した選手の出場制限が定められたときにも、クロアチア協会がなにがしかの抗議をしたという話は、一切聞いたことがない。一体この協会は何を考えているのか。代表チームの成績などどうでもいいのか。そうとしか思えない。だとすれば、このような組織は、いったん死滅してゼロからやり直すしかないようだ。
もちろん、主力選手が他の国へ出ていけば、はるかに手っ取り早い解決になる。バーバラとナターシャがいなくなれば、寄生虫は自然に死滅するしかない。イタリア・ドイツ・オランダあたり2カ国に一人ずつがよさそうだ。2年間の出場停止期間を考えても、今ならまだ2008年には間に合うだろう。

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魔女の呪縛からの解放

今大会最終日の第3試合、イタリア対クロアチア戦の終盤、日本の葛和監督が戦況をじっと見つめていた。第4セット、レトのスパイクが決まり、クロアチアの25点目が入ると、うなずいてその場を去った。

この瞬間はもちろん、日本女子バレーにとっても大きな歴史の転換点である。千駄ヶ谷の悲劇、史上初の屈辱、表向きはそう見える。しかし、それでもあえて書く。間違いなく、これでよかったのだ。ようやく「東洋の魔女」の呪縛から解き放たれる瞬間がきたのだ。
東京五輪以来、日本女子は五輪だけで金2銀2銅1のメダルを獲得。それは間違いなく栄光の歴史だった。しかし、優勝した東京あるいはモントリオール五輪の頃と比べ、現在のバレーは違うスポーツと言っていいくらい異質なものになっている。ブロックのワンタッチがタッチの回数にカウントされなくなり、リベロ制が導入、さらに全セットラリーポイント制に移行と、ルール自体が大きく変わった。当時は日本とソ連と共産圏のごくわずかな国でしか強化が行われていなかったのに対し、バレーを競技スポーツとして強化する国は確実に増えている。そして、西暦の下2桁と身長の下2桁が並ぶように、急激に大型化が進んでいる。東洋の魔女と呼ばれた歴史は、もはや呪縛でしかなくなっていたと言えるだろう。
世界ランキングによって決められた五輪本戦の組分けを見ると、日本がクロアチアの代わりに出場していたと仮定すれば、前回を上回るベスト8はほぼ確実である。しかし、もしこの内容で五輪本戦に出場し、ベスト8に入って全てよし、ということになれば、4年後に待っているものは間違いなくより決定的な破局である。

今大会の敗因を徹底的に反省すること、それからチームの再建は始まる。
まず、バレーという競技の本質が何か、考えてみたい。まず第一に、攻撃より先に守備がある。守備は攻撃の前提だ。クロアチアチームの記事で再三書いている通り、相手の打ったボールを拾ってセッターに返さない限り、攻撃のチャンスそのものがないからだ。次に、攻撃の本質とは何かを考えるに、それは「相手の隙をつく」ことにあると思う。時間の隙、空間の隙を、変幻自在につき、相手の感覚を惑わせる。そうすれば相手にさらに隙ができてくる。極端な話、相手のブロックを完全に振ることができれば、ネットから手が出る高さがあれば十分なのだ。

一見、大型化とは反する議論にも思える。しかし、大型化の必要を否定したいわけではなく、根本を忘れての大型化では意味がない、と言いたいのである。前回の女子Vリーグでは、スタメン平均172のチームが21戦全勝優勝という結果になったけれども、そのことが、バレーの本質がこの2点にあることを証明していると思う。それを他のチームより忠実に実行した結果が21連勝、ということにすぎないと思っている。ここ10年ほど(もっと長いか?)、大型化を目指しながらそれが中途半端に終わり、五輪の直前になると小型チームに戻る、これが繰り返されてきた。それは、ここで書いた本質をおろそかにして、高さに無い物ねだりをしたからだ、と考えている。

この2点とも、今回の全日本はできなかったのだ、ということに気がついてほしい。そして、結論を先に言ってしまうと、これらの課題を解決するためには大型化がもはや必然である。大型化はトレードオフの問題ではない。
ミスのない堅い守備、ということは常々葛和監督も口にしてきた。そのための努力はうかがえた。しかし現実には、サーブレシーブの乱れる場面があまりにも多すぎた。女子Vリーグの鎖国、つまり、世界レベルの攻撃を常に受けていなかったことが、守備力の低下を招いたのは、間違いない。世界の水準を正しく把握できなかったということである。
攻撃については、高さも破壊力もなく、それ以上に単調だった。どうすれば相手の守りに隙ができるのか、それを考えてプレーしているとは思えなかった。4年前8年前のチームと比べても、攻撃の威力・バリエーションとも、極端に退化しているように思われる。イタリア戦では決まり切った攻撃を繰り返し、ことごとくシャットされるかワンタッチをとられて拾われた。クロアチア戦の後半など、クロアチア以上にエース勝負をやっていた。ほとんどレフトオープンかブロードしかない。これではロシアかキューバのバレーである。決まらないのは当たり前だ。
しかも、大会中の記事でも書いたとおり、日本は非常に均質なチームになっていた。均質とは、誰が入っても戦術を変えることはできない、という意味である。例えば、イタリアのセッター対角には、トグットとメロという選手がいる。トグットは高いところから高いトスを打ち下ろす、いわゆる大砲である。それに対し、メロは速攻やコンビに絡むのが得意の選手、イタリアリーグではセンターでの起用も多い。この両選手を入れ替えれば、戦術も大きく変わる。しかし、日本には戦術を変えるための駒は用意されていないのだ。

世界を追い上げるためには、この根本を徹底した上での大型化以外にはない。そして、この根本のレベルを高めるためには、大型の選手を鍛えるしかない。いつも相手の隙を変幻自在につくコンビバレーができるわけではない。レシーバーの正面のボールなら上げられても、レシーバーの間にバーバラやアルのスパイクが飛んできたらどうしようもない。だから、それなりの対抗手段、高さもパワーも必要である。先ほど、「隙」という表現をしたが、絶対的なエースが存在すれば、その選手が得点をとるだけでなく、相手の守備に、物理的・精神的に大きな隙ができる。クロアチアのセンター攻撃は、ほかのチームと比べれば救い難く粗末な代物だが、それが決まってしまうのは、バーバラの存在によって、相手の守備にそれだけ大きな隙ができているからである。また、セッターが150台では、そこにとてつもなく巨大な隙ができてしまう。それで前衛もう一人も170台前半といわれた日には、それこそ手の打ちようがない。韓国とは高さの差はないと思われているが、今大会のチームで、最高到達点平均では10cm近く劣っていることに注意すべきである。

大会直前に正セッターを竹下に交代したのは、結果的には失敗だった。竹下が上手なセッターでないという意味ではない。そもそも前年に大型セッター構想が挫折、小型でも速くて安定したトスを上げられる板橋を登用した。しかも、少なくとも結果を見る限り、これは成功だった。その板橋をあえて大会直前で交代したのは、板橋以上に速くしかも攻撃を多彩にするという狙いだったのだろう。そうでなければ、板橋と比べても、身長で7cm、到達点で10cm低いセッターを起用する意味はない。しかし、その狙いを実現するためには、チームの全員が竹下のトス回しを完全に理解していなければならない。そしてそれは、短時間では非常に難しいことのはずである。大会まで3ヶ月という時点で竹下をあえて起用するとすれば、NEC全日本にすべきだったのではないか(少なくともスタメンはNECのスタメンと同じにする)。
もちろん、サーブレシーブ・レシーブが乱れたことも、竹下を生かせなかった大きな理由である。低いセッターを中心としたコンビバレーなど、守備が乱れればまさしく絵に描いた餅である。先ほどNECそのまま全日本ということをちらりと書いたが、NECのバレーも守備が完璧だから成り立っているバレーである。国内レベルの攻撃に対しては完璧に守れても、欧米の強力なスパイクやサーブに対し高いレベルの守備ができるかといえば、今大会を見る限り難しいと言わざるを得ない。また、サーブレシーブに関しては、竹下が低すぎるために、サーブレシーブが長くならないように意識しすぎてことごとく短くなり、悪循環に陥ったという見方もある。あれだけセッターが小さいと、サーブレシーブが少しでも長くなるとボールにさわれず、相手コートに返りチャンスボールになってしまう。
結果として、板橋の時と比較してもセッターのところにさらに大穴が開いただけになった。しかしここで指摘した2点とも、素人でも十分に推測できることである。監督がこのあたりのリスクを正しく評価できなかったことに根本的な問題がある。
小型セッターのデメリットはもう一つある。センターとの高さの差が大きすぎると、クイックのトスを上げようとしても、センターの高さに到達するまでで時間がかかってしまうし、そもそもトスを合わせること自体難しくなる。ブロードのトスにしても山なりになって、スピードが落ちてしまう。葛和全日本のセンターがほとんどブロード攻撃しかなく、そのブロードにしても中韓に比べ遅いのは、半分はセンターの責任ではなく、セッターが小さすぎることに原因がある。

しかし、もとをただせば、大型で世界に通用するセッターがいないことに根本的な問題がある。80年代初頭に、162cmのセッター小川の上から打たれまくるという問題がすでに指摘されていたという。当時は、194cmのハイマンを例外とすれば、世界のエースは180cm台前半が主だった。今や欧州で190以上のエースはそれほど珍しくなく、身長で10cm近く高くなっている。それにもかかわらず、中西163、竹下159と、逆に小型化。冗談にもならない。同じアジアのチームでも、韓国のカン・ヘミは173cm、中国の何キに至っては178cmの大型セッターで、最高到達点は両者とも3メートルに達する。竹下に比べると、身長で15〜20cm、到達点では30cmも違う。日本では、バレーを始める段階で、セッターになるのは極めて小さい選手に限られ、170以上の選手はほとんどアタッカーとして育てられるのではないだろうか。小型のセッターしかいない背景には、このような事情があるのだろう。しかし、以前書いた記事の繰り返しになるが、高さとパワーでは世界にかなうわけはないのだから、日本バレーが世界を相手にするためには世界に通用するセッターの存在が生命線であることは、遙か昔からわかっていたはずである。なぜ、長期的な視点でセッターの育成ができず、迷走を繰り返しているのか。

攻撃面では、センター線の再建が至急の課題である。呉咏梅と陳静という中国のセンター線はいずれも高くスピードもあり、しかも二段トスでも打ちきれるパワーもある。韓国にもセンターにチャン・ソヨンという最後の柱がいて、高くてしかも恐ろしく速いブロードを放つ。パク・スジョンは切れ味は落ちた感もあるが、守備の穴をつくとかタッチアウトをとるなど、韓国らしい嫌らしい攻撃は徹底している。
この両チームに比べて、日本のセンター線はあまりにも見劣りする。ほとんどがブロードばかりで、高さ(最高到達点で)も中韓に比べ10cm近く低い。呉咏梅やチャン・ソヨンのようなスピードもない。力強さにも欠けており、二段トスを打つことはできない。
韓国にしても中国にしても、大砲と呼べる選手はいない。あえて言えば、中国の殷茵のみ、それもスタメンに定着したのは後半4試合である。中国に至っては、レフトの決定率は日本とほとんど差がない。それでも五輪出場は決めている。日本と中韓とは、同じアジアのチームにもかかわらず、攻撃面でのチーム事情があまりにも違う。中韓の場合、絶対とらなければならないところでは、センター線に持っていける。しかし日本は、エースのオープン攻撃に頼るしかない。

全日本の大砲として期待された選手は何人もいた。しかしその中で、若いうちに使い果たされてけがで引退を余儀なくされた選手もいる。全日本に召集されても使いこなすことができなかった選手もいる。現在の日本国内にも、高さあるいは破壊力で上回るエースはいる。もっと高さのあるセンターもいる。問題は、そのような選手を生かすチームができないことにある。もっといえば、葛和全日本には、それを完成させようという姿勢もうかがえなかった。
今大会でも前年ワールドカップでも、アルゼンチンチームは、大エースのコスタグランデをサーブレシーブ陣形の真ん中に入れている。だからアルゼンチンを攻略するのは簡単だ。サーブでコスタグランデを執拗に狙っていけば、最悪粘り合いになっても、コスタグランデがくたばる。結果だけほしければ、コスタグランデにサーブレシーブなどさせないほうが強いはずだ。(もちろん、代わりにサーブレシーブができる選手がいればの話だが)それでもあえてやらせているのは、攻撃だけでなく守備もできる選手に育てるために決まっている。そういうエースがいなければ、この先世界に通用しないと、わかっているのだろう。結果を捨てても、この2大会、アルゼンチンはコスタグランデの育成にかけたのだ。
これと同じことが、果たして日本にできるか。ある意味、これは日本ホームでは難しいことだ。ホームの試合では、どうしても勝ちにいかなければならないからだ。

男子バレーでは、今や守備の観点でも大型化が必然となっている。ブロックにおいては、ワンタッチをとってつなぐことに主眼をおいたリードブロックが主流になりつつある。しかし、リードブロックはトスを見て跳ぶため、どうしても遅れ気味になる。その際に高さがあったほうが断然有利である。さらに、レシーブでも、大きい選手のほうが守備範囲が広いし、大型でどっしりした選手なら体に当たっただけでボールが返る。(男子バレーの議論では、日本人では全盛時の荻野がリベロとして理想的という。ただし残念ながら度重なる故障でかなり守備範囲が狭まっているという。)

月刊バレーボール2000年8月号、廃部になったユニチカの歴史を取り上げた記事の中で、また興味深い記事があった。ユニチカ(当時日紡貝塚)と言えば、回転レシーブに代表される守り、「鬼の大松」と呼ばれるスパルタ練習などが有名である。もちろんそれは重要な事実だが、大松監督が、大型の河西をいち早くセッターの役割のポジション(9人制の前衛センター)にコンバートしたことは、実に興味深い。当時の日紡はずば抜けた大型チームだったという。その高さを生かし、さらに6人制に移行し世界と戦うことを見据えての用兵だった。河西は、現在でも、カン・ヘミあるいは何キとほぼ並ぶ高さである。ミュンヘン五輪で優勝した日本男子チームが、当時平均身長でももっとも高いチームだったことも、よく知られている。当時は、男子で平均190のチームを作ると言ったら馬鹿にされた、という時代である。振り返れば、小型チームで拾ってつないで世界に対抗できた歴史など、はじめからなかったのではないか。

ここで極めて興味深い数字がある。これは、近年の女子世界大会における、ブレーク得点(自チームのサーブからの得点をこのように呼ぶことにする)1点に対するサイドアウトの比率を示したものである。この値は、一般に、競技レベルが高くなるほど大きくなる。女子に比べて当然男子のほうが高い。
Break: ブレーク得点、S-O: サイドアウト
CP=ワールドカップ、GP=ワールドグランプリ、OQT=五輪最終予選

Event Total Break+S-O  S-O/Break Note
95CP  11569  4604+6965   1.513   最終セット除く

99GP   2058   686+1372   2.000   日本戦6試合+他5試合
99CP   3801  1396+2405   1.723   上位8チームの直接対決のみ[00JSVR]
00OQT  4555  1671+2874   1.720
00OQT  2679   925+1754   1.896   上位6チームの直接対決のみ
[00JSVR]小川、黒後: ラリーポイント制では何点差で勝負が決まるか -世界トップレベルにおける勝利確率の理論値と実際-, バレーボール学会平成12年第1回集会研究報告
ご覧の通り、この値が急激に大きくなっている。99年グランプリから99年ワールドカップの間で急激に小さくなっているが、この理由は至極明快で、サーブのネットインが認められたからである。つまり、この両大会の差はその影響を表すものであると考えられる。今回最終予選で、上位6チーム直接対決の値を別に出したのは、ワールドカップの上位8チーム直接対決の値と比較するためである。
大会平均のスパイク決定率は、95年ワールドカップの41.7%から、今回最終予選は44.6%まで上昇している。わずかな数字を見るだけで、女子バレーも男子バレーの流れをいかに急速に追っているかわかる。しかも、全セットラリーポイント制に移行したことにより、その流れは劇的に加速しているのだ。今大会、その流れにもっとも逆行していたのが日本である。

自分は女子バレーの歴史を語るに適任だとは思わないが、あえて述べるとすると、70年代まで、女子バレーに本格的に取り組んでいたのは、日本、旧ソ連、韓国、およびプラスαとして共産圏の東欧諸国くらいだった。80年前後に、キューバ、中国、アメリカ、ペルーが台頭する。旧共産圏以外の欧州で本格的に強化が進んだのは90年代に入ってからである。
女子バレーは、ようやく競技としてのスタート地点にさしかかったのかもしれない。その今、根本的な手を打たなければ、世界から取り残されることは確実である。

はっきり言えば、日本のバレーボールは、他の競技に比べても、そして他の国に比べても、環境条件は恵まれている部類のはずだ。この期に及んで金を出してくれる企業もあれば、金を払って見に来る観客もいる。例えばクロアチアなど、バレーを続けたくても経済的な理由で断念しなければならない選手が多いという。それを生かせる間に何とかしないと、致命的な事態になりかねない。これまでにも「予感」のようなものは何度も感じられたが、今回、これだけ誰の目にも明らかな形で現実が突きつけられたのだから、一刻の猶予も許されないはずだ。
日本の資源でも、できることはまだいくらでもあるはずだ。韓国は人種的にも日本と近縁で、人口は日本の4割。人口の話だけをすれば、クロアチアは日本の25分の1である。日本のバレー人口は800万人以上、急激に減っているといわれるが、それでもクロアチアの総人口の倍に近いのだ。

しかし、ひょっとすると、葛和監督は我々が思っているよりはるかに頭がよかったのかもしれない。いろいろな事情で、自分の手持ちにできる駒は限られている。その中で、無理して大型にこだわっても、動きが鈍かったり守備ができなかったり、下手な使い方をすれば壊れる。その限られた持ち駒では五輪出場は極めて難しいことくらい、わかっていたのではないか。
葛和監督も当初は、若くて大型の素材を集め、スケールの大きなバレーを目指していたようだ。しかし、その当初に大砲と目されていた藤好がけがでリタイア、佐々木も全日本でかえってだめになった。98年世界選手権でも惨敗、99年もワールドグランプリまでは惨憺たる結果が続いた。
このあたりで、監督は方針転換を決意したような気がする。(日本国内では)大型の選手によるコンビバレーで、不可能に近い難題に真っ正面から立ち向かうことはやめたのではないか。小さくても素早くて上手い選手を集める。小さい選手ばかりでも、世界の大女・化け物相手に、ひたすら拾ってつないで打ち返す。あえて大砲を捨て、竹槍とピストルで、世界の壁に挑み大陸間弾道弾に対抗する。とてつもなく手強い魔界軍団相手に、いくらやられても立ち向かう可憐な女戦士(某掲示板の表現を引用)といった雰囲気だ。そして、国際親善試合の後に、選手が泣き出すほどえんえんと猛練習をやる。監督は意図的にこの構図を描こうとしたのではないか。バレーとしては時代錯誤でも、劇画としては悪くない。試合に勝てなくても、これなら客は集まる。速い攻撃と堅い守備で、五輪出場を果たせれば御の字だ。しかも、この方向に一気に舵を切った99年ワールドカップは、ワールドグランプリまでとはうって変わっての好成績。方針転換は決定的になった。

しかしそこには、どのような全日本を作りたいのか、という長期的な展望はなかった。とにかく予選突破できればいい、というチーム作りに過ぎなかった。今回予選の内容自体は、言われているほど五輪出場に遠かったとは思わない。しかし、かりにこのチームで五輪出場できていたとしても、この先には何もつながらない。そして五輪不出場となったことで、果てのない漂流はすでに始まっている。五輪予選の後に行われたワールドグランプリは11連敗。この間にとったセットも4セットにすぎない。今大会中国戦から起算して、実に19連敗という悲惨きわまりない形で葛和全日本は終わった。

ここまで述べてきた、勝てるチームを作るという観点とは別の意味で全日本に望むことがある。「応援してもらえるチームになれよ!」というのは葛和監督の名言だが、見る側が応援したくなるチームになってほしい。
今回五輪出場を争ったチームはそれぞれ個性のあるチームだ。その個性はもちろん選手個人のこともあり、チームとしての個性のこともある。
韓国は世界一速いコンビバレー、そして世界一粘り強く拾うチーム。ネット際のうまさも世界一。
中国も速いし守備も粘り強い、そしてセンター線は世界一だと思う。日本戦以降の3連勝は、腐っても鯛、という印象を強くした。
イタリアを短く言うのは難しいが、欧州勢の高さもありながら、多彩な攻撃、時にはコンビも使い、さらにはアジアのチームに近い守備の安定感もある。
オランダも、強いときはものすごいバレーをするチーム。これまでオランダにこれといった印象はなかったけれども、中国に勝ったときは本当に驚いた。バックアタックとセンター線を絡めた、スケールの大きなコンビバレーだ。
クロアチアにはもちろん、世界最強の大砲バーバラ、これも世界に誇る高性能機関銃のナターシャ・レトがいる。

このあたりのチームに比べて、日本のバレーは、絶望的につまらない。見る側を興奮させる要素がない。だから、応援する気も起こらない。(全日本を応援したくなくなるもう一つの大きな理由は、アイドルと、メディアの馬鹿騒ぎと、それに乗せられて「感動」している連中に、生理的嫌悪感を感じることである。あの日本戦の雰囲気を受け付けないのだ。)言い換えれば、これはほかのチームに負けない、というものが全日本には何一つ見あたらない。それはすなわち、どうやって世界と戦っていくのかという方向性が見えない、ということである。

そしてもう一つ、たとえ現在勝てなくても、将来に希望の持てるチームであってほしい。これは98年世界選手権の記事でも書いたことだし、99年のワールドカップでもやはりそうだったのだが、この先現在よりも強くなるという予感は全くしなかった。そして今大会ももちろんである。

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文化としてのバレーへ

全日本が強くなるためには何をしなければならないか、考えられることをとりとめなく書いたけれども、非常に難しい部分があるのは確かだ。競技の奥の深さという点ではどの球技も似たようなものだと思うけれども、体格による有利不利がまともに出るという点では、バレーボールほどシビアな競技はそうそうない、と思う。もともと日本人の体格に向いた競技ではない、ということだ。これは98年の世界選手権当時にも書いたことだが、全日本が好成績を上げればなどというのはないものねだりと思わなければならない。

とすれば、必然的に、文化としてのバレーをいかに育てるか、を考えるしかない。言い換えれば、バレーという競技のファンをどうやって育てるか、ということでもある。
しかし、最近の日本バレー協会のやり方を見ると、世界を意図的に見せないようにしようという意志が強く感じられた。メディアと手を組んで、日本は強い、という幻影を作り維持するよう努力しているようだった。みんなで沈めば怖くない、ともとれる。女子Vリーグの鎖国はその典型だと思う。適当な日本選手に派手なニックネームをつけるなどして、アイドルに祭り上げてきた。
しかし、全日本が五輪に出場できないという現実を突きつけられ、さらに企業に支えられてきた女子バレーのあり方自体崩れようとしている現在、これがとんでもないマイナスになることは間違いない。
メディアがメディアとしての責任を放棄していることも大きな問題である。サッカー・テニス・バスケなど、他の世界的な競技の報道と比べてみても、質の違いは明らかである。バレー雑誌の直後号を見ても、なぜ予選突破できなかったのか、どうすればその問題は解決できるかという分析はほとんどない。そこに出てくるファンの声に至っては、「感動をありがとう」という部類ばかり。はっきり言って異常である。
極言すれば(あえて誤解を恐れずに言えば)、これはカルト宗教にさえ似ている。そのような追っかけ(あえてファンとは呼ばない)は、協会にとっては格好の収入源である。全日本の試合、あるいはVリーグでは、彼らが料金の高い席を先を争って買う。選手の写真集やビデオ、グッズも高い値段で売れる。メディアは協会の片腕となって、それにより、そのメディア自身も視聴率を高くできる。この過程で、単にお気に入りの選手あるいは全日本が見られればいいという、レベルの低い観客・視聴者が果てしなく量産される。選手あるいはチームに対する批判・非難を決してしない。そのような連中の仲間内で、うかつに批判をすれば、たちまち集中攻撃される。カルト宗教との共通点はここにある。その信仰の対象が、全日本チームないし全日本の特定選手ということだ。(一般に社会問題となるカルト宗教では、信仰の対象=教祖であることが多いが、ここでは信仰の対象と教祖は異なる人物になる。教祖はあえて言えば、日本協会の権力者であろう。)
問題は、バレーという競技そのもののファンが出てこないことにある。全日本が五輪出場できなかったことで、衛星放送に手を出さなければ、世界のバレーを見る機会はほとんどなくなるだろう。しかも国内リーグも鎖国がひかれており、世界のトップレベルの選手を間近で見られる機会もない。この状態で、バレーという競技のファンが生まれてくるはずはない。
まともな観客もいない、メディアもまともな批評をしないとなれば、選手の成長という観点でも当然悪影響がある。選手・観客・メディアそれぞれのあり方が、二重三重の螺旋のように絡み合いながら、その螺旋を転がり落ちている。

観客の全体的なレベルが低く、メディアのレベルも低いとなれば、バレーというスポーツあるいはバレーファンが他のスポーツのファンから蔑視されることになる。バレーという競技に新たに興味を持った人がいて、会場に見に行きたいと思ったとしても、日本戦の会場の雰囲気は異常である。欧州のサッカー場などと比べても、全く違う意味で異常だ。どれほどひどいプレー、ひどい負け方をしても、ひたすら黄色い声援が続く。うかつにブーイングをしようものなら、周囲ににらみつけられる。しかも、日本戦の会場には、アイドル目当てでバレーに興味のない人間も多数いる。これでは、スポーツを観戦したい人は見に行けない。このどちらも、現実に起こっていることだ。
今説明した現象は、どちらかと言えば男子バレーに顕著である。しかし、日本の女子バレーは、悪い意味で、やはり日本の男子バレーの後を追っている。現在の全日本女子の状況は、すでに4年前の全日本男子の「アトランタ・ショック」に酷似しているように思われる。そしてその前年のワールドカップでは好成績を上げたことも共通している。

手始めはまず開国である。強化の観点でも、その必要性はいうまでもない。世界レベルの攻撃に対しては、まず慣れることが第一歩であり、最大の対策のはずである。外国人選手を入れると、日本人エースが育たない、あるいはセッターが育たないという主張はあるが、それは育たないのではなく、育てていないのだ。国内に盛んなリーグを持つイタリア・ブラジルはどうなのか。イタリアリーグに至っては、外国人は実質的に無制限に近い。それでも、今回五輪予選で、イタリアではリニエーリ・ピッチニーニ・トグットというアタッカーの活躍が非常に目立った。ブラジルも、モーゼ・カルデラ・ディアス・バロス・コインブラと、代々優れたアタッカーを育てている。イタリアには今や世界を代表する司令塔カッチャトーリがいるし、ブラジルもベンツリーニからソウザへと引き継いでいる。むしろ、現在の日本人の軟弱なセンター線で、まともなセッターを育てられるかどうかは非常に疑問だ。経験豊富な優れたセンターがいれば、セッターを育てるのに非常に有効である。今回五輪予選のクロアチアが典型例だ。

ここで開国と書いたのは、国内リーグを外国人選手に開放することに加え、日本の選手が海外に出られるようにすることも意味する。現在は、全日本の選手は日本バレー協会に登録されたチーム所属でなければならない、という規定がある。つまり、海外のチーム所属の選手は全日本に入れない。
国内のリーグに世界の一流選手が参加して、レベルの高いプレーが見られるようになれば、本物のファン、すなわちバレーボールという競技のファンを増やすことになる。しかし、日本の優れた選手が海外のリーグで活躍すれば、それをメディアが取り上げて、ファンの目も自然に世界に向いていく。本物のファンを増やすためには、それはより大きな効果がある。サッカーの中田選手などの例を挙げるまでもなく、明らかなことである。

子供が何らかのスポーツを志すにしても、鎖国は極めて悪影響である。国内リーグには外国人選手はいない。海外で武者修行をするにしても、海外のチームに所属の選手は日本代表になれない。これで全日本が世界トップレベルならまだしも、五輪出場さえ難しく、世界選手権ベスト16がおそらくぎりぎりのレベルだろう。要するに、バレーに進んでも、その先に世界が全く見えてこないのである。世界の頂点に通じる道がない。この状況で、いったいどれだけの子供が、バレーにあこがれ、バレーで世界を目指そうと思うだろうか。これでは、志のある、将来性の高い素材が集まるはずはない。

メディアの勝手にやらせておけば、所詮は、視聴率が上がればいい、部数が増えればいい、という方向に走るだろう。そのメディアに責任を果たさせるために必要なのは、一つは視聴者による批判だが、それ以上に重要なのは日本協会あるいは国際連盟の姿勢だと思う。国際連盟が目先の放映権料を考えるばかりで、バレーを本当に世界的なスポーツにすることを考えていない。メディアがメディアの責任を果たさないのと同様、連盟が連盟としての責任を果たしていないのだ。
日本以外ではバレーは極めてマイナーなスポーツというのが現状だ。スポーツ選手の人気投票をやると、例えばヨーロッパにしても韓国にしても、バレー選手は集計限度にすら入らないほど投票が少ないという。本当に世界的なスポーツなら、帰化選手制限即有効という乱暴な決定とか、五輪最終予選でホームチームだけが3試合の対戦順を指定できるとか、こんなことがまかり通るはずはない。
もっと根本的に言えば、バレーを世界的に広めるためには、競技本来の醍醐味を追求し、勝敗の価値を高めるようなルールでなければならない。しかし、最近のルール改変は、全セットラリーポイント制にしてもネットインサーブのインプレーにしても、単にメディアに迎合するだけで、そのあり方には全く逆行しているように思われる。バレーボールがどのような競技であるべきか、その美学が全くないのである。どちらの改変にしても、議論が意外と盛り上がらないまま通ってしまったが、つまらなくなったという意見は出ても、面白くなったという意見はほとんどないように思える。特に、全セットラリーポイント制で男子の試合など、絶望的なまでにつまらない。フルセットまでいっても、試合を見たという気分がほとんどしない。ましてストレートの試合となると、「何やってたの?」という感じである。(もちろん、五輪決勝ユーゴ対ロシアほど1ポイント1ポイントの内容のある試合なら話は別だが。)
しかも、全セットラリーポイント制で、期待したほど試合時間が短くなっていないことも指摘したい。それは1プレーの時間が非常に長くなったためである。サイドアウト制の最後の世界大会、98年世界選手権では、その時間は24秒程度、Vリーグではさらに1〜2秒短かった(なお、意外な事実だが、1ラリーの平均時間は男子と女子で明確な差はない。)。それが現行のルールでは世界大会・各国リーグとも30秒弱まで長くなっている。もちろん、ラリーがやたらと長く続くようになったはずはない。むしろ、女子バレーでは、男子並みに速攻一本で切れる場面が急激に増えている。したがって、この長くなった時間のほとんどは、ボールは動いていない。適切な間も必要だが、根本的には、ボールの動いていない時間が長くなることが、見る側にとってプラスであるはずがない。

筆者としては、希望も含めて、現行ルールは早晩何らかの大きな変更があると思っている。あるいは、きれいさっぱりサイドアウト制に戻したほうがもちろん筋は通る。世界レベルでは多数派の男子のファンが、ノーを突きつけるはずだ。なお、FIVBは、シドニー五輪後ビーチバレーでも全セットラリーポイント制を試行することを決めた。インドアと同じ9m四方のコートでは、ビーチバレーはインドア以上にサイドアウトの割合が多い。同じ大きさのコートを2人で守るのだから、相手のいない場所にボールをうまく打てば、威力はなくてもボールが落ちる確率が高い。したがって、ビーチのファンの間ではインドア以上に全セットラリーポイント制に反対の意見が強くなるはずだと推測する。アメリカ、オーストラリアなどでは、ビーチバレーはインドアよりも人気が高い。これらスポーツの市場として大きな国のファンの意見は、当然大きな力を持つことになる。したがって、ビーチで全セットラリーポイント制反対の声が圧倒的多数となれば、インドアでもラリーポイント制を続けることはできないだろう。

今後、有料放送・専門チャンネル、あるいはインターネットを用いた映像配信と、新たなメディアが急速に普及すると予想される。その時代において、競技が発展する本質は、ただ一点にかかっていると思う。それは、観客本位の競技・運営を徹底することである。しかしながら、最近のルール改変の根拠は、テレビ中継の便宜である。これは、単に供給者サイドの都合でしかない。観客本位とは全く逆行している。ラリーポイント制にしても、サーブのネットインにしても、選手が望んで導入されたわけではなく、まして観客は全く望んでいないのだ。
とにかく、バレーをバレーそのものに戻してほしい、というのが強い願いである。

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