Word The Damage
やんぐの衛生日記 | 壊れ物たち

いやドナーカードを持つ心意気に文句言ってるんではなく、
持たせることと罪悪とは微妙に違うんで...

というところで、もうすこし自己犠牲に関して言い訳めいた追記。

移植のために自分の臓器を提供することは、自己を犠牲にして他人を救うことに他ならない。
焚き火に飛び込んでお坊さんに自分を食わせたウサギのお話でも分かるとおり、私たちには「そういう正義」の下地がちゃんとある。
それに対して文句は絶対にないし、どちらかというと私もウサギに近い考えを持っている。

>尊厳死の宣誓書みたいなのが欲しいんですけど

まさにこれが正しいドナーカードの意義ですっ。
これを認めずしてクールに移植を遂行するには「ちゃんとした脳死判定」が必要だが、それは日本にはないし。

ドナーカードなるものを過剰に受け入れ、あろうことかドナーカードを持つことを他人に強要する輩が少数いるので、それはちょっと思い上がってるんではないかといいたいわけです。

以下はメモ書きですがご参考までに。説明不足ですが。

他人のために自己を犠牲にすることはなぜか禁止されているので、その代わりに死体からクールに移植を行う法律をでっちあげた。もちろん、政府が困っている人を救おうとして動くはずがないから、庶民には計り知れぬ利益がそこに発生するのだろう。その後はいろんな美談を紹介すれば万事うまくいくという案配で、ドナーカードはこうして心優しい人を利用して広く浸透していくのであった。

「自己犠牲はまずいから、自己犠牲ではなく、死んだことにしようぜ」というのが脳死を法制化した理由のひとつなのは間違いない。死んだことにすれば、それは人間の犠牲ではなく利用すべき肉体という物体だからだ。その証拠に脳死の判定基準が緩い。いやちがう、世界でも厳しい方だ、という相対的な意見もあるが、こんなことに相対もくそもないのであって、でたらめな国もたくさんあるから成績表的考えでは厳しくてもそれではお天道様が許さない。
検査項目が多い、とも言われているが、果たして「瞳孔検査」「自発呼吸」「意識がないか」なんてのが「死」を調べるのになんの役に立つというのか。意識がなくても無意識があるかもしれないではないか。(もちろん無意識や夢は脳死判定の妨げにはならない。その証拠に微量の脳波が出ていても脳死と言われるのである)
意味を定義するなど恐れ多くてできるわけがない。にもかかわらず、医者をして「脳波は確かに出ています。しかしそれは無意味な脳波です。この患者は脳死状態であり生き返る見込みはありません。故に死んでいます」と言わしめる脳死判定とは何か。
そんなややこしいことを言わないまでも、「脳死かどうかはベテランの医者が見ればすぐにわかるのだ」というような低レベルの意見が医者の口から出るくらい野蛮な状態なのは間違いない。見てわからないからこその判定テストなのに。
はっきり言えることは、日本の脳死判定ではまだ生きているかも知れない人を脳死と判断しうるということ、それはすなわち、そのまま腹を裂かれて内蔵を取り出されるということだ。
(判定だけならいくらでも早めにやってもらっていいんです)
だから、アジアのウサギたる私(たち)は、自分の腹は裂いてもらってもかまわないが、他人にはそういうことをしてもらいたくないんである。

自己犠牲で他人を救うことの意義と、お為ごかしの臓器移植法とは、思想の次元が違うのだ。
例えば、子供に移植手術ができないことをもってしても、現行法が移植を待つ患者のための法律でないことは明らかである。ドナーカードの広がりは、現行法の維持に絶大な威力を発揮する。
それでよいのか?

実は世の中には善人のほうが多いと私は信じている。だからこそ悪人は善人を利用して社会を牛耳ることができる。だがそれはあまり好ましくないと思う。

それとは別として、臓器売買のシステムについて私は無知なので、臓器を売ったらいったいいくらもらえるのか知らないのだが、それによってはもちろん私もドナーカードを持ってそれを担保に借金するくらいの気構えがある。昔は血を売れたのに最近は売れないので替わりに臓器でも売るかと思っても何もおかしいことはない。なんせ資本主義でっさかい。