「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る。」(「ヨハネによる福音書」9;41)

 写真は横浜の「みなと未来」地区の風景である。近代日本を代表するかの如き風景ではなかろうか。天を突くようにそびえる高層建築物、首都圏をはじめ大都市圏には多くみられるようになった建造物である。建築工学が発達し、新しい工法も開発されてのことでこのような風景は珍しくなくなった。だがしかし、これらの安全性に関して、はたして十分なものなのだろうか。関東大震災から一世紀近くになった。この地では地震の多いことは歴史的事実である。人間は過去しか分らないのであるが、未来を予測できると信じているようだ。今は分かったとしても一寸先は本当は未知なのである。しかし人々は先は見えていると言うのである。本当にそうなのだろうか。過去に経験していない規模の地震が襲う、そんなことは無いのだろうか。地震が起こった時の想定は十分なのだろうか、ヨハネによる福音書のことばが人間の「罪」を語っている。


 あるキリスト教徒の実話なのだが、人間とはこんなものであるという例になるだろう。公務員を務めあげ、退職はしたが元気にシルバー人材センターの仕事をもこなし、経済的にも肉体的にも恵まれていると彼は語っていた。ある時台風が彼の住む地区を通り、大きな被害があった。彼が礼拝に与っていた教会も被害を受け、屋根瓦が飛散しその手当に苦労していた。ちょうど関連の古い建物を取り壊す話があり、その建物の屋根瓦がピッタリだったので、譲り受けることになった。彼はそれを受取るために出かけ、屋根瓦を下ろす作業を行った。作業が終了し、梯子を使って屋根から彼は降りようとしていた。その時、彼が何気なくつかんだ木材が外れ、バランスを失い彼は転落した。幸運にも一回転して足から着地できたのだったが、梯子が倒れて彼の首を打ってしまった。彼は痛みは感じなかったが、全身が動かないことが気になった。病院に運び込まれ、検査を受けたが、首の骨が損傷し、神経が切断されてしまったことが判明した。彼はそれから二年後、病でこの世を去って行った。
 まさかこんなことで自分の人生が終わるとは予測もしていなかっただろう。健康にも恵まれ、信仰心を失うことなく教会のために献身的に活動していた自分がこんなに早く天に召されるとは考えてもいなかっただろう。人間は全てが予測通りになると思ってはいけないのだ。過去は分かっても未来は予測できない、そのことを十分に自覚しておかなければならない。


 繰り返すが人間は未来を予見できないのである。それを予見できるかの如くに振る舞っている。異常気象が世界の各地で観測されるようになったが、それの意味することを深く察しているとは思えないようだ。現内閣は「上げ潮作戦」とかで、地球が無限大の大きさをもっているかのごとくに経済を語っている。人間は全てを支配できるかの如き錯覚に陥ってしまっているのではないだろうか。バベルの塔の話は皆が知っている物語なのだが、それの意味するところを理解しているとは思えない。つじつま合わせはいつまでも続けることはできない。不都合な真実を見る心の眼を見開かなければならないのではなかろうか。