共感の大切さ                                   


 表記の写真は今の中国の上海の夜景である。ケ小平が指導した改革開放路線に則って、共産党は残すが自由主義経済化を押し進め、急速な経済発展を遂げている中国だが、今、経済的な格差拡大という問題に突き当たっている。それを象徴するような光景がこの夜景の中にあるようだ。開発の為に多くの住民が苦境に陥る一方、 チャンスを生かした一部の人たちが先進国のトップと並ぶような経済的な果実を手にしている。今、この国の状況は経済的な弱者の不満のマグマが蓄積し、 それがいつ爆発するのかが危惧される状況ではないのだろうか。




     新約聖書の中に使途パウロがコリントの信徒へ送った手紙にこうあります。

 「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部ではなくなるでしょうか。もし体全体が目だったらどこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせ、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(「コリントの信徒への手紙」12:14〜26)

 上述のことばでパウロが語っているように体を社会に置き換えて考えればばどうでしょうか。社会を構成するそれぞれの個人は如何様にあろうとも、その社会にとって必要なものであって、お前は要らないと言える人たちはいないというのではないでしょうか。松坂大輔投手がとてつもないお金でアメリカのチームに招聘されましたが、彼にはフアンという人々が必要なのですし、ファンなしでは彼の持つタラントは生かされません。一方、ファンは松坂から与えられるスリリングなゲームの楽しさを喜び、彼に拍手を贈るのです。そうなのです、全てが互いに持ちつ持たれつというのが社会の基本なのです。人間が豊かな社会を作れたのも、それぞれの人たちが、それぞれの働きをしてきたからなのです。この世には要らない人はいない、一人の人が苦しめば皆が苦しみを共にする、そして喜びにも共感する、そうあるべきなのではないでしょうか。
 今の日本の社会を見ていると、「お前はのろまだし、なにもスキルがないから要らない」と言って平気でリストラをするような行為がまかり通っています。それが益々エスカレートしてきているようです。かって日本人の心に宿っていた他人を思い遣る優しい心などの美点が次々に失われてしまうようです。何事でもアメリカが手本とアメリカに見習いますが、アメリカは先進国でも特別な国です。ヨーロッパの国々をもっと知るべきではないのでしょうか。アメリカを見習った結果、日本は「共感」という心を失った社会に陥っているのが、暗いそして悲惨な事件の多発につながっているのだと思います。競争原理主義は二者択一であり、「共感」はありません。日本人はもっと基本的な社会は如何にあるべきかの視点に立ち返り、我々は何故ここにいるのか、 そう自分に問いかけてみましょう。欲望という悪魔の手から逃れ、共感しあう社会を目指そうではありませんか。