心のブレーキを踏む                                   

 新聞には毎日のように悲惨な出来事の報道がある。親の子殺し、子の親殺し、こんな出来事もそれほど珍しい話ではないのが此の頃だ。一体国の中には何が起こっているのだろうか。
 戦後間もないころは一つのものを皆で分けあわなければ生きてはいけなかった。貧しさの中にも互いに譲り合い、助け合う姿が通常の家庭内風景だった。
 高度成長期を経て日本は豊かになり、一つのものを皆で分けあうなどということはなくなりました。家の中でも各人が個室に篭り、互いに干渉しあわない、それぞれが勝手気ままに暮らすのが一般的になりました。世間では倫理や道徳を語ると「古臭い」、「保守的」と言われ、当たり前のことが当たり前にならない社会になってきました。伝えるべきだったもの、それが伝わらず、誤った個人主義である勝手気ままが尊重され、今までの規範は雲散霧消してしまったのではないでしょうか。教育、教育と声高に叫ばれていますが、叫んでいる人の行いが教育者に相応しいのかと思わされたりすることはないでしょうか。どうも社会全体が病んでしまっているようで、自己を抑制するという社会を秩序立てる規範意識が失われてしまっているように思われます。今一番必要なのは皆が「心のブレーキを踏む」ということではないでしょうか。
 戦後、日本人は欧米に対して卑屈になってしまいましたが、最近それが又極端になっているように思えます。経済を見ても、欧米方式の考え方がもてはやされています。貪欲さをエンジンにして利益を極限に追求するのを善とする考えに、日本人の美意識だった「抑制」は隅に追いやられてしまったかに見えます。「ホリエモン」事件はそんな歪んだ社会の一現象なのでしょう。  事件が起こる度に誰かが頭を下げ、謝罪の姿勢を示しますが、心の中ではどうなのでしょう。真の反省をしたとは思えない事後の行動は、その場しのぎの仮の姿でしかありません。非難から逃避するために自己弁護のパチ当てばかりする政治家・官僚、みじめたらしい経営者、ルールばかり作っても、チェック体制を充実してみても、其々の人の心の中が変わらなければ病んだ社会は治りません。
 豊かな自然に恵まれて、激しく争わなくても食べていけた日本、そんな歴史の中で育った日本人の精神は、戦後の欧米式の押し出し型思想のもとに敗北してしまったように思えます。

 「『わが国が』『我が社が』と肩を怒らせて他国や他国の企業よりも上に立つことに必要以上にこだわらなければ、この小さな辺境の島々に、平和で幸福な国を作れるんじゃないでしょうか。住みやすくて、ぎくしゃくしないで、みんなが助け合っていく、そんな気持ちが安らぐような社会が出来るのではないでしょうか。」(稲盛和夫「日経ビジネス」巻頭言)


 我が我がと自己主張するばかりではなく、立場を変えて物事を考える、そんな古き時代の日本人の美意識に戻って行ってこそ、真の平和で心豊かな社会が作られるのではないかと思うのです。