1000万円の腕時計                            

 新聞に目を通していたら、日本の某社が1000万円以上もする腕時計を売り出すというニュースが目に入った。価格が高いのは別にダイヤモンドが付いているとかではなく、同社の技能者何人かが手作りで作り上げてゆくのだそうで、年間五個の生産だとか。既に予約した人もいるとかで、世の中には腕時計ひとつに1000万円を払う人もいるのだな、と感心して記事を読んだ。まあ、スイスなどにはもっと高価な腕時計も存在するようだから、驚くこともないのだろう。
 我々は物の価値を何でも”お金”の量に換算して量るのが常なのだが、お金には換算できない価値と言うものも多く存在している。又、物質のように目に見える物ではない”もの”の価値もお金に換算してしまうが、これなどにもお金に換算できないものも多い。 我が子の安らかな寝顔は我々に安堵と充実の喜びを与えてくれるが、それはお金に換算することは出来ない”価値”だと思う。

 お金は価値の対価なのだが、最近はお金そのものに価値を求める風潮がこのところ急速に拡大しているようだ。拝金主義という怪物がのし歩き、多くの人に苦々しい思いをさせて単にそれを所有することに自己満足しているだけといった状況もある。
 プロフェッショナルの”プロ”とは高い倫理観に基礎を置いたその道の達人を言うのだと思うが、先日逮捕されたファンドの代表が「プロとして恥ずかしい失敗をした」と自分の違法行為を弁解していたが、”プロ”をそう簡単に使ってもらっては困るようにも思う。 資金運用のプロならインサイダー取引なんかで逮捕されるようなことはしないものだ。プロがとても軽い存在として用いられている。

 写真はベルリンのカイザー・ウイルフェルム教会だが、左は1895年に建てられ第二次世界大戦の空襲で破壊された教会、右は戦後建てられた教会である。破壊された廃墟に過ぎない教会ではあるが、我々に戦争の虚しさを語りかける力、それは絶大なものであるように思う。広島の原爆もそうだが、この廃墟にはお金に代え難い価値が存在すると思はれる。このようなお金には換算できないものの価値を、人間はもっと大切にしなければならないように思う。
 1000万円の腕時計を買った人が、これは”1000万円を払って手に入れたもの”だと自分が支払った対価で判断するではなく、現代の名工が丹精こめて作り上げたプロの心の果実と思ってくれれば嬉しいのだが。

 これも先日の新聞の記事なのだが、「ノーベル賞の賞金1億円に匹敵するような野口賞を創設しよう」とあった。私はノーベル賞の価値は賞金の1億円にあるのではなく、ノーベル賞という絶対価値そのものにあると思うのだ。賞金1億円そのものを目玉にするような賞ではノーベル賞にはなれない。