星野冨弘さんのこと                               

 私の住む水俣市に隣接して芦北町がありますが、そこに”星野富弘美術館”と星野富広さんの名をとった小さな美術館があり、ちょうど特別展示会がひらかれていたので出かけてみた。
 星野さんについてはテレビで紹介されているのを見て知っていたが、その作品に触れるのは初めてだった。頚椎損傷で手足は不自由となり、口にくわえた絵筆で花を描き、詩を加えられた作品を創作されている。その花の絵も素敵なのだが、書き加えられた詩の美しさには感動させられた。

「新しい命一式ありがとうございます
 大切に使わせて頂いておりますが
 大切なあまり仕舞いこんでしまったこともあり
 申し訳なく思っております

 いつもあなたが 見ていて下さるのですし
 使いこめば良い味も出て来ることでしょうから
 安心して思い切り
 使って行きたいと思っております」(「命一式」星野富弘)

 命は与えられたもの、そしてその命は見守られているもの、そんな感覚はこの上なく貴重なもののように私にも思えます。私は生かされている、あなたもおなじ、だからあなたも大切、そんな感情が生じるのだと思います。
 最近はこんな事があっていいものか、と思われるような事件が起こったりしています。 先日も自分の子供を失った母親が、隣り合わせたようにして暮らしていた子供を殺し、死体を遺棄するという事件が起こりました。私はこの母親の心が分かりません。自分の子供を失ったときの喪失感、それは何にもまして大きなものではないでしょうか。そんな気持ちを味わったら、他人の子供を殺めるなど決して出来るものではありません。でも現実には事件が起こってしまっています。人が人でなくなっている、それの表れなのでしょう。

 話は少し変わりますが、日本の少子高齢化対策として、養育費の補助、養育支援の強化等が考えられているようです。言ってみれば「金をやるから子供を生め」ではと思えてなりません。少子化の原因が単に経済的な問題にあるのではなく、生き物としての人間の基本感情の喪失にあるのではないかと私は思っています。教育基本法の改正問題で「愛国心」が話題になっています。国を愛することとは隣人を愛すること、隣人を愛するということは家族を愛するということ、家族を愛するとは自分を大切に思うことではないでしょうか。自分を大切に思い、家族を大切に思う。そして隣人を大切に思い、国を大切に思う。そんな基本的なことが問題になるところに、種々な歪の原因があるように思われてなりません。

「わたしは傷を持っている 
 でもその傷のところから
 あなたのやさしさがしみてくる」(「れんぎょう」星野富弘)

 イエスは「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と教えていますが、自分すら愛せない人たちが生まれてきているのが現代社会なのかもしれません。なぜそうなってしまったのか、人間の傲慢が極限に達してしまっている、それなのではと思えてなりません。痛みがわかる、だから優しさが実感できる、そうなのでしょう。