分を知る                                      

「二つのことをあなたに願います。
 わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
 むなしいもの、偽りの言葉を
 わたしから遠ざけてください。
 貧しくもせず、金持ちにもせず
 わたしのために定められたパンで
    わたしを養ってください。
 飽き足りれば、裏切り
    主など何者か、と言うおそれがあります。
 貧しければ、盗みを働き
    わたしの神の名を汚しかねません。」 (「箴言」30:7〜9)

 「分を知る」という言葉はどうも死語になったように思われます。最近話題になったものに「ホリエモン事件」があります。30代の若者が「カネで買えないものはない」と豪語し、カネを得る為には手段を選ばず、といって行った行為が違法であるとして逮捕されたのです。それまではこの若者を現代の成功者として賞賛し、若い世代の「勝ち組」の代表者のようにマスコミは持ち上げました。
 ところで知恵の書である「箴言」の言葉は示唆に富んでいます。上の文章によると豊か過ぎず、貧し過ぎない「適度」が人間が正しく生きるうえで望ましいと言っています。
 日本人は昔から「分をわきまえる」生き方を理想としてきました。しかし今は「分を知る」、「分をわきまえる」というのは古い考え方で、可能性を限りなく追求することが望ましい、とする考えが主流になっているのではないでしょうか。そうしたことから様々な現象が現れて来るのでしょう。その一つの結果が拝金主義です。ある学校に父兄が「給食費を払っているのだからうちの子に『いただきます』を言わせるのを強要しないで欲しい」、と言ったとかが話題になったそうです。ここに拝金主義の弊害の典型を見ることが出来ます。わたしたちが生きてゆくためには多くに生き物の命を奪い、多くの人達の苦労があることを忘れてはなりません。それをおカネで償うというのは如何にも自己中心的ではないでしょうか。お金を払ったからそれでよい、それだけではないでしょう。おカネでは償えない物があるという感覚、これが人間として必要な最低限の節度ではないかと思います。
 「衣食足りて礼節を知る」も真実かもしれませんが、しかし「足りて」というところに問題もあるように思えます。何をもって「足りた」というのでしょうか。ユニセフのパンフレットに「10,000円のご支援で、はしかワクチンを654人分提供できます。予防接種で防げる”はしか”で、今でも年間53万人の子供が命を落としています」とありました。この10.000円というおカネに対する感覚です。先般株式取引の誤りで、数分間に数百億円の損失を出した事件がありました。この事件の関係者など10、000円はおカネにははいらないのではと思います。だから間違うのです。そんな一方で僅かなおカネで多くの命が救われる事実、なんと矛盾した世の中なのでしょう。
  人間、自分自身の「分を知って生きる」、これが一番大切なことではと思います。