我々はどこから来たのか                              

 人は神そのものと知識と愛の関係に入るよう要請されている。時間を超え、永遠の中に、完全なる充足を見出す神との関係に入ることをもとめられているのである。 人間の肉体にさえそれほどの尊厳をもっているのは、その霊魂のために他ならない。たとえ、人の肉体の起源が先行の生物体に由来するとしても、霊魂は神によって人間の誕生と共につくられたのだ。(ヨハネ・パウロ二世)

 20世紀は生命科学の時代だったと言われるように分子生物学が進展し、生き物とは何かというテーマについての科学的な知見は広く、そして深くなっている。私が退職後とある本屋さんに立ち寄った際目に入り求めたのが「DNAとの対話」(ロバート・ポラック著中村圭子訳早川書房)だった。副題は「遺伝子たちが明かす人間社会の本質」とある。  著者は序文の中で「私はいまも、科学が自然界の謎を究明できるとは信じている。だが、科学のもつ力に対するのと同じくらい、その限界にも関心を持つようになったのだ。たとえば、何かを失う痛みは、科学ではどうすることもできない。」と述べている。
 人間の体は60兆個の細胞からなり、それぞれの細胞の核には30億の塩基からなるDNA鎖が存在し、如何なる生物体になるのかの情報がその塩基鎖に記録されていると言う。これらの仕組みの初期のものは何十億年か前に生まれ、長い時間をかけ少しずつ変化し、多様な生物相をつくったのだという。果たしてどうなのだろう、DNAという化学物質が”命”を持ち、全てがそれによって決まってしまっているのだろうか。人間とはそんなに”単純”な存在なのだろうか。極めれば極めるほど困難な問題に突き当たる。
 チャールス・ダーウインによって始まった進化論が科学の進歩によって実証されてきている。でも物質としての生物体はそうかもしれないが、人間が「霊魂」と呼ぶものの存在はどうなのだろうか。私には謎が深まるばかりだ。
 進化論の初期、こう宣言された事もあった。「言語、宗教や民族性の類似性は幾つかの基本的な「遺伝子」によって受け継がれたものであり、怠惰、飲んべえ、欲深、貧乏などという望ましくない特性は単純な遺伝形質として『科学的に』証明されている」といった類の話がなされ、優生学思想がうまれたりした。最近はDNAを鑑定することで、色々な形質を生み出す遺伝子が分かるようになったといわれている。それらを述べたポピュラーサイエンスに「複製されるヒト」(リー・M・シルヴァー;翔泳社)がある。 人類のDNAが解読され、DNA操作によって遺伝子が合成されることによって人間は優秀なDNAを持つ「ジーンリッチ層」と「そうでない層」に二分化し、もはや人間は二つの生物に分化し互いに生殖関係すら持てなくなると言う。
 ところで、他の生き物と違って人間は言葉を持っている。これは偶然に与えられたものなのだろうか。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。」(「ヨハネによる福音書」1:1〜3)

  私は生物学的には母親から細胞質を、そして父親からY染色体を貰っている。でも「私」はこの世で唯一つしか存在しない「個」であるのは事実である。肉体は先行の生物体に由来するかもしれない。しかし「私は神によって作られた存在」であるとしか思えないのも事実だ。そうであるが故に私は自分を大切に思い、愛おしく思う。そしてそれぞれの他の人達も私同様に愛おしい。私は常に耳を傾け、「言」を聞かなければならない。人間は「言」によってなるのだから。
 宇宙は創造されて150億年、地球が生れて45億年、それに比べると現代人類は10万年前に現れたに過ぎない。
 人類が文明社会を築いてからは1万年、これからどうなるのだろう。ホーキングはある会合で、「現在の地球ほどの文明を保有してしまうと、そうした惑星は自ら正当な循環を狂わせ環境を破壊しつくし、文明の主体者たる生物は内面的にも極めて不安定な状況をきたし、彼らの惑星は宇宙の時間の相対に比べればほとんど瞬間的に自滅してしまう」といった。
 神は刹那に人間を作り、そして終末を迎えさせるのか。この宇宙という大きな存在はどんな”力”で動かされているのだろうか。そんなことを考え始めるときりがない。でも、それを極めたい気持ちがあるのもまた事実なのだ。