「あなたがたは神に選ばれ、聖なるものとされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです。」 (「コロサイの信徒への手紙」3;12〜14)

 ナンバーワンにならなくてもよい、オンリーワンになりなさい、という歌詞の歌が流行っているそうです。でもチョット立ち止まりましょう。オンリーワンでもいいのですが、このことを突き詰めてゆくと我侭、勝手ということになる危険性があります。唯我独尊おれは世界に一人と傲慢にも繋がります。オンリーワンだけでは足りないのです。どなたかがこの後に「for you」を付けなければならないのではなかと仰っていましたが、まさにその通りだと思います。この言葉なしのオンリーワンは危険なものを持っています。

 昨日、NHKのテレビ番組で「アフリカ0年」というのを観ました。ナイジェリアの石油資源をめぐって起こった悲劇的な出来事に関するルポルタージュです。欧米の先進国は「人権とか民主主義」を強調し、自分たちの価値観にあわない国々を非難の対象にしていますが、このテレビ番組を観たりしているとそれは偽善に過ぎないように思えます。自分たちの利益を優先し、資源国の権力者に手を貸して資源を収奪している、一方その国の小さき者たちへの気遣いは微塵もありません。小さき者が悲鳴を上げているのに、圧制者に手を貸している。そんな先進国の指導者の一人は「信仰が厚い」と言われていますが、まさにこれは偽善に過ぎません。「人権と民主主義」を輸入させられた国で、悲惨な殺し合いが頻発し、電気も水もない苦しい生活を強いられる国民が大勢いる現実、これをどう説明すればいいのでしょうか。

 皇太子が引用されたのでよく知られるようになった詩「子ども」(スウェーデンの中学教科書)にこうあります。

        批判ばかりされた子どもは         非難することを覚える
       殴られて大きくなった子どもは       力によることを覚える
       笑いものにされた子どもは         ものを言わずにいることを覚える
       皮肉にさらされた子どもは         鈍い良心の持ち主となる
       しかし、激励を受けた子どもは      自信を覚える
       寛容に出会った子どもは         忍耐を覚える
       賞賛を受けた子どもは           評価することを覚える
       フェアプレーを経験した子どもは     公正を覚える
       友情を知る子どもは            親切を覚える
       安心を経験した子どもは         信頼を覚える
       可愛がられ抱きしめられた子どもは   世界中の愛情を感じとることを覚える

 この詩を子供に教えられる大人が今の時代どれだけいるでしょうか。旧約聖書の「サムエル記下」にナタンがダビデを叱責する話があります。ダビデが部下の妻を横取りし、部下を戦地に送って殺してしまいます。ナタンがある二人の男の話をダビデにしますが、ダビデはその中の一人の男の行いに激怒し「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。そんな無慈悲なことをしたのだから」と言います。そこでナタンは「それはあなただ」と叱責し、ダビデはその言葉で自分の犯した罪に気づくのです。人のことはよく見えても自分のことに気付かないそれが人間というものでしょう。
 「コロサイの信徒への手紙」にあるこの言葉を基準に、私たちは日々自分を振り返り正さなければならないではと思うのです。すべての行いに「for you」が付けられているか、常に自分を振り返り、自分の犯した罪を謙虚に反省しているか、そこから正しい道を歩く術を学ぶ必要があるのではないかと思うのです。偽善に陥ることなく、日々新たにさせられる人生でありたいものです。

 「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 いまだかって神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」  (「ヨハネの手紙1」4;11〜12)