イエスは目を上げ、大勢の群集が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っていたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 弟子の一人で、シモン・ペテロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 イエスは、「人びとを座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
                              (「ヨハネによる福音書」6:6〜13)

 この福音書のお話は四つある福音書に共通していて、イエスの奇跡物語の一つとして記述されています。聖書にある奇跡の物語はイエスが神であるということを証明するためのもの、と私もかってそのように受け止めていましたが、ある日の説教でこの箇所はそれだけではないものなのだと、ハッと気付かされたのでした。
 フィリポもアンデレもイエスの問いに対して私たちと同じように対応したのでした。私たちはその場の状況を見て、頭の中で合理性に基づいて考え結論を出すか、走り回って何か出来ることはないかと行動するのではないでしょうか。フィリポは現在のエコノミストや評論家に通じているよに思いますし、アンデレはNGOやNPOの人達のように、どうすれば問題が解決できるかと走り回る人たちに通じます。一般的に人間とは自分流に常識的な判断をし、自分流の常識的結論を出すということなのです。この話に出てくるイエスの周りに集った多くの人たちはパンや魚を求めた人ではなかった、彼らを満腹させたのはイエスのことばではなかったのかと私は思います。恐らく遠くから集まった彼らは何らかの食べ物は持ってきていたはずです。だが、自らそれを提供しようとはしなかったのです。だが、少年は素直にパンと魚を差し出しました。イエスの求めたものに忠実だったのです。だから、皆がそれに倣ったので皆が食事をすることができ、そして神に感謝しイエスのことばに耳を傾けたことでしょう。その行為の中に神からの恵みを感じ取り満足を与えられた、そんな物語ではと思うのです。

 「いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩篇と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、全てを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(「コロサイの信徒への手紙」3;16〜17)

 現代人が陥った陥穽は目に見えることしか信用しない、目に見えな大切なものがあることを忘れているということではないでしょうか。聖書にあることば、それが絶対的な真理であるということを忘れてしまい、人間の可能性を極大化して考えていることにあると思います。 

 「すばるの鎖を引き締め
       オリオンの綱を緩めることがお前にできるか。
    時がくれば銀河を繰り出し
       大熊を小熊と共に導き出すことができるか。
    天の法則を知り
       その支配を地上に及ぼす者はお前か。
    お前が雨雲に向かって声をあげれば
       洪水がお前を包むだろうか。」 (「ヨブ記」38;31〜34)

 「ヨブ記」の中で神はヨブにこのように呼びかけています。自然をすべて理解し、それを動かすことができるのか、だれがそれをおこなっているのか、お前には分かるのかと。人間は万能ではありません。目に見えない方を信じて生きるのか、気ままに生きるのか、そこに大きな人生を分ける分岐点があるように思います。
 BSE、HIV、これらは人間の傲慢に対する神からの警告ではと思われてなりません。人間に出来ることには限界があり、人間には予測できない”意志”が働いていることを心に留めなさい、と言うことではないのでしょうか、人間は自分の限界を知るべきだろうと強く思いました。