イエスは目を上げ、大勢の群集が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っていたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
弟子の一人で、シモン・ペテロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
イエスは、「人びとを座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 |
この福音書のお話は四つある福音書に共通していて、イエスの奇跡物語の一つとして記述されています。聖書にある奇跡の物語はイエスが神であるということを証明するためのもの、と私もかってそのように受け止めていましたが、ある日の説教でこの箇所はそれだけではないものなのだと、ハッと気付かされたのでした。 |
「いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩篇と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、全てを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(「コロサイの信徒への手紙」3;16〜17) |
現代人が陥った陥穽は目に見えることしか信用しない、目に見えな大切なものがあることを忘れているということではないでしょうか。聖書にあることば、それが絶対的な真理であるということを忘れてしまい、人間の可能性を極大化して考えていることにあると思います。 |
「すばるの鎖を引き締め |
「ヨブ記」の中で神はヨブにこのように呼びかけています。自然をすべて理解し、それを動かすことができるのか、だれがそれをおこなっているのか、お前には分かるのかと。人間は万能ではありません。目に見えない方を信じて生きるのか、気ままに生きるのか、そこに大きな人生を分ける分岐点があるように思います。 |