「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
    人をその父に、
   娘を母に、
   嫁をしゅうとめに。
 こうして、自分の家族の者が敵となる。 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(「マタイによる福音書」10;34〜39)

 「マタイによるこの福音書」のこの箇所を読むと少し驚いて、なんと言うことだ、イエスは平和ではなく剣をもたらすために来たのか、父を愛し、母を愛する、これは当然のことではないか、と私たちは考えるのである。特に儒教的伝統のある日本では違和感を感じるだろう。しかし、現実の世界を見ると、身内であっても諍いはあり、崩壊した家族、尊属殺人、幼児虐待と当然であるべきことに反する事象を耳に、目にすることが多い。ではこれは何なのか、の疑問に容易に答えることが出来ないのも事実である。


 最近は離婚に至る夫婦も多い。互いに愛しあうという愛がなくなったからだろうか、いやそうではないだろう。人間の心理は不思議なもので、肉による関係では互いに相手に期待をする。自分を中心に置き、相手に見返りを求めるのである。その見返りがこないとき私たちは失望して悩むのである。自分の愛する子供に期待する、しかし子供が自分の期待に応えてくれない、そうして悩むのである。そして悩みが憎しみに変化するのである。


 イエスは愛するなとは言ってはいない。わたしより「も」父や母を愛する者は、と言っているのである。イエスを中にいれた霊的な関係になりなさい、と言っているのである。私に妻が、夫が与えられたのは自分が妻、夫を愛したからなのではなく、神様が私にふさわしい妻、夫を与えて下さった。これは神様のご意思であり、神様から私に与えられた恵みであると感謝できるならば、私たちはどんなことがあっても失望することはありません。神様と霊的な関係に入る、その心が失われていることが多くの暗い事象の原因なのでと思はれるのです。感謝の心の喪失が問題を生んでいることに気がつかなくなっています。


 賛美歌452番の2節の歌詞、「まことの友とならまし、友なきひとの友と。あたえてこころにとめぬ、まことの愛のひとと。」この詩のように皆が生きるならば、必然的に平和が達成されると思うのです。まことの愛、それは神様を挟んでの関係からしか生れません。


 私も一時はその虜になった言葉に「やってやれないことはない。やらずにできるはずはない。」がありますが、できないのはやらないからだ、との信念を捨てること、「やろうと思っても出来ないことがある。やらなくとも恵みによってなるものがある。」とすべてに謙虚になり、神様を信じて生きて行くとき、私達は真の平安を得るのだと思います。この「神様との関係を回復する」という困難な道、それは信仰の試練を通じてしか与えられないものです。本当の悔い改めが出来ないところに人間の罪があります。繰り返し「みことば」を聞く、それの繰り返しでしか練達の域に至る道はありません。しかもそれは神様のご意思なのです。 礼拝に与ることの大切さがここにあります。「完全(またき)に向かいて進まん、途(みち)にて気をゆるめず。うえなきめあて(目標)をのぞみ、笑みつつたえずすすまん。」(賛美歌458番3節)このように人生を歩む、そうありたいものです。