それだけでない、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、 練達は希望を生み出すことを、知っているからである。(「ローマ人への手紙」5:3〜4)

 先日、近くにあるお寺の住職さんからこんな「法話」を聞いた。「昨年は入院していたせいか、今年はまわりのことにいろいろ感動する。一斉に咲いた桜の花の美しさ、燃えるような木々の新芽・新緑の輝き、ウグイスの上手な鳴き声などなど。また、手術して身体が不自由になったせいか、こうして生きているのはすべて他人様のお陰・いろんなもののお陰げだな、としみじみ感じるようになった。そして自分の五年間生存率を聞いているせいか、自分の命にも限りがある。とにかく今日一日を精一杯そして有難く生きていこうという気になる。総じて、何もかも仏さんのお陰なんだな、有難いことだなと心底から肯けるようになって、お念仏ができるようになった。このような大切なことにわたしはがんにでもならなければおそらく一生気づかずに過ごしてしまっただろう。過去に四度も大手術を受けられたことのある、私の最も尊敬する師からの病気見舞いのコトバは『がんになってよかったね』だった。退院して一年経った今、私はこの師のコトバの真意が解ったように思う」
 住職さんは今まで健康にはは自信ががあり、死を意識するなんてこれまで無かったという。今日という日は明日も続く、生きているのが当然で、人生に終わりを意識することはなかっただろう。それが八時間にも及ぶ手術を受け、術後も不自由な生活を余儀なくされた。そうしたときに今の自分が生かされている、自分が生きているのではなく生かされていると気づかされたということだった。
 健康であり、何にも恐れることもなく生活していると、ついつい自分にだけしか目が行かず、心も狭い範囲ででしかものを考えられなくなっている。というよりも”恵みに気付かずにいる”ということであり、一面的にでのみ物事を見てしまっているものなのだ。生かされている自分ということに気づかない。人生は永遠に続き、自分の人生で不幸が御訪れるなど予測だにしていない。だから刹那的にそして享楽的に生きるのは当たり前で、それが出来ないのは社会が悪いと他人にせいにする。こんなことが許されているのは日本の社会だけかもしれない。経済的な豊かさが心の”心棒”を失わせ、すべてを他人任せにする生活態度に表れているように思えてくる。現在の自分が有るのは自分が努力したからではなく、神によって生かされており、多くに人達の支えによって今があると感謝しながらの人生であれば最高に幸せではないだろうか。
 大きな病を得て生死の境をさまよい、寿命を告げられたとき、ハッと気づく。患難は希望へ至る道でなのである。厳しい状況に追い詰めれると、人は感性が高められ、そして強くなる。日常の苦難をも信仰への試練と思って生きることが許されるならば、これに優る幸せはない。