イエスはこの12人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に行ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。

働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々が受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出てゆくとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」  (「マタイによる福音書」10;5〜15)

 今日の礼拝でのテキストは上記の福音書の一節であり、キリスト者のあり方を示しているとされる良く知られた話の部分であった。
 12人の弟子たちとは後に使徒と呼ばれる人たちだが、信仰を告白し洗礼を受けた私たちキリスト者も同じく神に召された者です。ここで聖書が語っている旅とは人間の人生そのものことでしょう。人生を歩むその歩み方をキリストがお示しになったということなのです。上記聖書のことばは又イエスご自身がみ身をもってお示しになられた姿そのものです。まず易しいことから始めなさい、無理をすることはありません。人間の人生は神が準備された路を歩むことであり、自分がどうしよう、こうしようと思っても、決してそのようにはならないものだと気づかなければならないものなのでしょう。神が準備された道を歩む、それが人生だと知ることだと思います。
 ある有名な建築家が子供の頃父親に連れられて地方に住んでいた。父は牧師であり、その日は礼拝が行われていた。地震が襲い建物が崩壊し、説教をしていた父は死んでしまった。そして子供は生き残った。神の言葉を語っていた者が”ふさわしい者”として残るのではなく、子供が残されたのである。因果応報的な考えをもつ人達もいますが、神は我々が推し量ることの出来ないご計画をお持ちで、我々はそのご計画に従って生きるしかないものなのです。その生き方は、イエスがお示しになったそれを、なぞらえて生きることに他ならないと思うのです。
 イスラエルで使われる挨拶の言葉「シャローム」は平和ということだが、シャロームとは又ユートピアを意味し、この世には存在しない理想郷の意でもあります。だが人間の世界はここに言う理想郷には程遠いものでしかありません。この世において神の国が実現されることはないのかも知れません。私たちは勝手な生き方をしています。私たち人間はやはり聖書の中に出てくるソドムやゴモラの人たちと同じように、硫黄の火で焼き尽くされなければならないような生活しか出来ないのだろう。今日の生活ぶりからはそうとしか思えません。