聖書では『イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。』(「マタイによる福音書」)

とあり、天国、天の国が語られています。私たちは天の国、天国をどのように認識しているでしょうか。そんなものを考えたことはない、という人もいるでしょう。自己存在の根源アイデンティティを考えることなしに人生を送っても、なんだか空しいと思うのですが、最近はそんな人も多くなっているようです。所謂、刹那主義で偶然この世に生まれてきた、だから楽しく一生を送ればよいと、後先を考えない生き方をする人達です。


 旧約聖書にはこのように書いてあります。

  「狼は子羊と共に宿り
  豹は子山羊と共に伏す。
  子牛は若獅子と共に育ち
  小さい子供がそれらを導く。
  牛も熊も共に草を食み
  その子らと共に伏し
  獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
  乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
  幼子は蝮の巣に手を入れる。
  わたしの聖なる山においては
  何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
  水が海を覆っているように
  大地は主を知る知識で満たされる。
  その日が来れば
  エッサイの根は
     すべての民の旗印として立てられ
  国々はそれを求めて集う。
  そのとどまるところに栄光は輝く。」(「イザヤ書」11章)


 イエスが語った天の国とは正にこんな国を示しているのでしょう。この世での現実では有り得ない出来事が行われる国、それは一言で言えばこの世の現実である争いと無縁の「平和」満る国、すなわち、人間の世界とは対極にある世界ということなのでしょう。人間の安息はそこにしかありません。
 そんな国の到来が近い、とイエスは語っているのですが、それは何時なのでしょうか。100年後、1000年後、百万年後、それは分かりません。ですが、ここではそんな人間的な時間軸でのことではないように思います。終末の時、それは何年後というものではないということです。


 昨年、亡くなられた内海革牧師が病床にあって記した文章にこう書いておられます。
 『主イエスは「自分を義人だ」と自認しているパリサイ派の人々の信仰と敬虔さと献金を否定しています。そう「人間の信仰も希望も愛も」「終りの時まで」として否定されています。一日二回の断食と祈祷、全収入の十分の一の献金、それが何かの価値を持つのは、「終りの時」までなのだ。終りの時が来たら、人間の信仰も、人間の希望も、人間の愛も空しいものとなり、そこには、あれもこれもと選ぶ余地はない。「あれかこれか」この絶対的選択があるだけです。私は今、静かに、終わりの日、しかし神の新しい創造の日を待ち望みつつ歩もうと思う。何故ならば、「新しい天と新しい地、新しいエルサレム」を未だ「神以外の誰も知らないのだから。」』


 そう、神が預言者の口を通して語られた「天の国」、それは私たちが作った「人間の文化」の世とは隔絶された「神の文化」の国なのでしょう。私たちが永遠の眠りにつくその時、その国は到来する、それであれば私たちは絶望することはない。その日を楽しみに「神の言葉」を信じて待ち続ければいいのだと思えるのです。
 イエスの十字架の死と復活は私たちに希望をもたらしたのです。神の愛を信じるか信じないか、選択はその一点にしかありません。それを信じて生きるならば、その人生は生きるに値するものになります。その世界を信じないのであれば、精一杯この世を楽しんで下さい。意味を持たない人生が如何に空しく、不平不満ばかりの人生でしかあり得ないことはご存知のはずです。