新年の顕現主日の礼拝ではマタイによる福音書の2章が読まれた。占星術の学者がヘロデの下を訪ね、イエスの誕生を確認したことを記述した個所である。学者たちはイエス・キリストに「宝」を献げてヘロデのもとには戻りませんでした。学者たちは主の誕生を確認しはしましたが、この世の”王”はそれを喜ぶことはないと確信したからに他なりません。権力者とは”権力”という魔物に取りつかれ、それを維持するためにはどんな手段をも行使するものなのです。学者の判断は正しいものでした。 ところで、ヘロデについては色々と伝説がありますが、自分の地位を守るためには親・兄弟をも殺してしまうとの残忍性を持ち合わせていたことが語られています。王という地位はそれほどまでに人間には魅力的であり、その魅力は何物にも勝ると感じられるものなのでしょう。現在の世界を見回してもそれは実感できるものです。世界中で国民を犠牲にする権力者の姿、その例には事欠きません。何故なのか、人間は生き物なのです。生き物の本性は自己の存続、何にも増して自己を存続させるという本能的な行動、それが生き物としての基本的な行動なのだから、全てを支配し、思いのままに生きるということはその本性に忠実だし、支配するとはその最高の位置にあることでもあり、快楽は言うまでもありません。ということなのだから、その目的の為には手段を選ばない、残酷さが現われてくるのでしょう。人を殺すための武器が発達し、如何に効率よく人を殺したか、それさえ賞賛の対象になるのが人間の浅ましい世界なのです。神を捨て、本能の赴くままに行動し、不安に慄きながら人生を送る。それでいいのでしょうか。ここにその対極であるキリストからの福音があります。使途パウロはこう福音を伝えています。
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