聖書の中にイエスが人間の歴史の終末を語った箇所がある。

 「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。 「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。 中には殺されるものもいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(「ルカによる福音書」21章)

 私たちは死をどう捉えているだろうか。日本人は宗教的伝統から、死を終末だとは考えない傾向があった。 輪廻転生の思想、体は死んでも魂は生き続け、次に何かに生まれ変わる、その思想には終末という発想はない。日本人は何でも供養をする。それは次に生まれ変わるのに出来るだけ好条件になるようにと願っての行為なのだ。 このような思想では「死を生きる」ということなど必要ないのだ。

 現代科学は物体としての人間がどうなるのかを説明している。人体は多くの分子から成り立ち、そして人間という体の中を分子は流れ、留まるところがない。 新陳代謝を繰り返すのが生命体としての人間である、と説明されている。死とは新陳代謝の運動の停止であり、物質の流れが停止した人体はバラバラになり自然に還る。


  私たちの生きている意味は何なのだろうか。人間にとって生きる必然性はあるのだろうか。何のために生きているのだろうか。このような疑問が人間の誕生以来続いてきただろう。この答えを見出した人は誰なのか、それが上の聖書の字句から伺える。人間は何も考える必要はない。”主”がすべてをとりなして下さっているのだから、それを信じることで生きる意味が生まれてくる。


 私たちは今、生きるための手段は教えられるけれど、生きる目的はほとんど教えられない。だから色んな混乱が生じているのではあるまいか。生きるとはどういうことなのか、人間の存在に対する深い思索が必要なように思えてくる。繰り返すガそうしたとき、聖書の言葉が意味をもってくるように思えるのだ。自然科学は現象を説明出来ても、なぜそうなるのかは説明できない。そうなるからそうなるのだ、としか言いようがないのだ。


 聖書は「初めに、神は天地を創造された。」で始まり、「主イエスよ、来てください。」で終わっている。人間の歴史には初めがあり、そして終りがある。イエスが告げた福音の世界、それは誰も見たことはない。「然り、わたしはすぐに来る。」これを信じて生きることで私たちは生きる意味を見出している。