「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(「ヨハネによる福音書」13;34)

 「ヨハネによる福音書」の中には「愛」という語が繰り返し出てきますし、「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉が繰り返されています。「愛」はキリスト教の真髄なのでしょう。  この「愛」については同じく新約聖書の「コリントの信徒への手紙」の中でパウロが詳細に述べています。
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(「コリントの信徒への手紙1」13;4〜7)

 これだけ並べだてられると、大抵の人は「愛」について自分を語るのを諦めてしまわざるを得ないのではないでしょうか。「互いに愛し合いなさい」と言われても,パウロが述べるような愛で互いに愛し合うことなんかそう簡単に出来るように思われません。
 ゲーテの詩に「野ばら」があります。「野ばら」は美しいものですが「とげ」があります。野バラに近づくと「とげ」に刺され近づけないものです。人間も同じようなものではないでしょうか。どんなに「美しく気心の優しい」人でも接近すると、神なるぬ身の人間には「とげ」があり、それに刺されて近づけないものなのではないかと思ってしまいます。パウロが語る「愛」に関する言葉のすべてを備えることは、人間には不可能なのではないでしょうか。一つでも欠けるとそれが「とげ」になります。
 ところで今の世の中は、この「愛」から遠く離れた人たちばかりになっているのではなかと思われることばかりです。競争原理主義とやらで、他人を蹴落としたほうが勝ちだと持て囃され、些細なことから簡単に人を殺したりします。政治家は自分を不当に誇り、それを達成するために非情の情念を燃やします。発展途上の多くの国々では弱い立場の人たちが残虐な行為を受けて苦しんでいます。「愛」とは無縁な人たちが如何に多いのか、驚くことばかりのように思えます。旧約聖書の「アベルとカイン」の話はよく知られています。たった二人の兄弟の間にすら「ねたみ心」、すなはち人間の「とげ」が原因で兄は弟を殺してしまうということです。人間の心は原初からそういった要素を持っているものなのです。それが人間を「カインの末裔」と評する由縁でしょう。
 そんな人間を戒めるために旧約聖書では「十戒」が述べられています。でもどうでしょうか、これさえ守れないのが人間なのです。そんな人間の「弱さ」を救うすべはないのでしょうか。「法」を如何に厳格にしても人間の「心」を縛ることはできません。日本は今「美しい国」を作るためにイッパイ「法」を作ろうとしています。そんなことで「美しい国」などできるのもではありません。人間とは何なのか、人間とは如何なる存在なのかそこを出発点にしなければならないように思われます。
 私たちは「愛」という言葉をもう一度考えてみる必要があります。「愛」を実現したイエス・キリストに思いを致しましょう。それでしか乱れた世を救う術はないことを悟りましょう。イエス・キリストがお示しになった「愛」、それに習って人生を歩むことでしか人間に平和は訪れないのではないでしょうか。イエス・キリストに自分を委ねて生きる、そうでしか平安を得る術はありません。自分の限界を知り、他人を思いやる優しい心それだけが必要とされるのです。