今年も受難節になりました。キリストが人間の罪を背負い十字架に架られた、人間救済の事実を確認する期間なのです。人間は何時しかそんなことを忘れ、すべてが自分たちの力で解決され得る、即ち、人間が神の領域まで踏み込めると思い上がってしまうようになりました。思うようにならないのは他の原因があって、自分たちが傲慢になっていることを省みようとはしません。果たしてこれでいいのでしょうか。

 聖書の中にサタンがキリストを誘惑する話が出てきます。サタンがイエスを神殿の屋根の上に連れて行き、「ここから飛び降りてみよ、もしお前が神の子ならば神が天使に命じてお前を手で支える、と聖書に書いてある」と誘惑するのですが、イエスは「神である主を試してはならない」と申します。
 信仰とは「信じ切る」ことです。今の社会は実証されないものは信じられない、目に見えるもののみしか信じることができないとする実証主義の社会です。世の中、すべての現象が理論付けられ、実証可能なのでしょうか、とてもそのようには思われません。実証主義では原因と結果の結び付きは説明できますが、何故かという理由は説明できません。世の中の乱れ、これひとつでもそれがどうして起こってくるのかさえ簡単には説明できません。ならば全てが疑いの対象になるのでしょうか。こんなところに現代社会の混乱の原因があるのだと思うのです。

 新約聖書の「ヘブライ人への手紙」の中でパウロはこう述べています。「信仰とは、望んでいることを確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」と。
 他人の心を信じることから平和な社会が生まれます。他人を信じることができなくなった社会が現在の社会ではありませんか。信じることができるのは「金」だけだ、とする拝金主義が現代の社会を混乱させ、他人への思い遣りを欠いた刺々しい社会を作っているのです。
 
 イエスは「これは私の愛する子、私の心に適う者」という神からの言葉を信じ切って生涯を送られました。決して主を試そうとはされませんでした。私たちも自分の望みを確信し、目には見えない方の意思を確信して生涯を送りたいものです。そこには苦しみが苦しみではなく、艱難でさえ神の試練として受け止める心の柔軟性があり、何事にも喜びに溢れた人生が展開されるのではないでしょうか。神の心に適う生き方、それが神に召された者の人生だと思い感謝しています。