「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」   (「マルコによる福音書」12:41〜44)

 ここ数年、日本で特に顕著なのが成果主義である。過程はともかく結果の多寡のみから全てが評価され、成果が少ない者は評価が低いという考え方である。物質万能主義が全てである世の中では金にならないものは評価されない、効率一辺倒の世界であると言えよう。こんな世界は弱肉強食、強い者が全てを得、弱い者は強い者に全てを奪われる、本当にドライな世の中なのである。言ってみれば自然状態、適者生存の原理が働くそんな世界である。そこには「憐れむ」とか「慈しむ」とかの人間が霊的な存在でもあることを特徴づける感情はなく、如何に他者より秀でるかを競う、そんな社会なのである。
 競争原理一本やりの社会はどうなったか、いじめによる小学生の自殺、子殺し、親殺し、こんな現象はかってはなかった出来事である。一年間に3万人もの人が自らの命を絶っている、こんな社会が我々が目指した豊かな社会なのだろうか。決してそうではないはずだ。

 上の聖書にあるイエスの言葉は成果主義の対極を表現している、と今日の礼拝で牧師先生が語られた。人間が評価されるのは成果だけではない、いかにしてそれを為したか、またそれをなした心にある、と言うことではないだろうか。天与の才を生かし切り、為し得た結果なら、金銭の多寡が如何であれ、それを評価してやらなければならない、そんな発想を持つ必要を説いているのだろうと思われます。そして又、物質的豊かさだけではない、心の豊かさを評価するそんな人間になることを薦めているのだと思われます。

 恐竜は体躯を肥大化させることで覇を競いました。そして外的環境変化に対応できず滅びました。人間は頭脳を肥大化させ、欲望の赴くままに行動するそんな愚を犯しています。ねずみ講ではありませんが、無限に広がれるということはありません。このままではその行動の結果が地球と言う惑星の持つ限界に達する状態になるのを避け得ません。破滅に至るその前に、頭脳が生み出す「英知」を働かさせなければならないでしょう。

 才に溺れず、為した結果を尊ぶより、為す心を尊ぶ、そんな社会を作りたいものです。