「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群集も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくてもよい』と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人は立ち止まった。イエスは『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」(「ルカによる福音書」7;11〜15)

 聖書のこの箇所を読んで、単なるイエスの奇跡物語として受け取ってはいけないように思います。ある日の礼拝の中で牧師先生は「人間はこの世的には死ぬべき運命にあります。物語にあるように、やもめの母親にとって唯一の頼みの綱である一人息子であっても、運命は厳しいもので、死から逃れることはできないのです。でも息子はイエスによって生き返えらされています。それはイエスによって肉体的な死から解放され、永遠の命という形で生きるのです」と言われました。私たち自身にとって唯一であり不可欠な存在の人であっても、その存在を失うことが避けられない場面は多いと思います。しかし、私たちはイエスによるとりなしによって、失った存在の人を取り返せる、死を超越した存在として受け止められるということをこの聖書の箇所は教えているのでしょう。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(「コリントの信徒への手紙U」8;9b)

 イエスは神の御子でしたが、人としてこの世にお生まれになりました。そして苦しみを受け、十字架に架かって死なれたのです。それは私たちが永遠の命という恵みに授かるための苦しみだったのです。聖書が語るように、イエスの十字架の死と復活によって、私たちは永遠の命に与れるという希望を持って生きることができるようになったのです。
 今の世の中、目に見えないものしか信じられないとの生き方をする人が多くなっています。拝金主義が横行し、金さえあればなんでもできると豪語する人も現れたりしています。お金など人間が生み出した幻想にしか過ぎません。世界で一番のお金持ちといわれるビル・ゲイツ氏は殆どの資産を財団に供託し、未開の地にいる人間の不幸を救う目的に役立てようとしていますし、アメリカの有名な投資家のウォーレン・バフェット氏も投資で得た財を寄付にまわしています。彼らは、お金とは所詮何かをするための手段を提供するものでしかなく、そのものを自分のものにするという目的にしても仕方ないことを知っているのでしょう。だからこうした行為がとれるのです。
 先日新聞で報道されていましたが、日本ではベストセラー本の翻訳で財をなした翻訳者が、今では国民の一番重要な義務である納税を回避するため、外国に住所を移したことが問題視されていました。これなど守銭奴の代表例ではないでしょうか。そんなにまでして蓄財し、それのどこに満足があるのでしょうか。後ろめたさにおののき、成金趣味の生活をしてもどんな意味があるのでしょう。裸で生まれた人間は裸でしか帰れないのです。永遠の命を頂く知恵が一番ではないのでしょうか。

 「主に望みをおき尋ね求める魂に
          主は幸いをお与えになる。
     主の救いを黙して待てば、幸いを得る」 (「哀歌」3;25〜26)