自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下しているのだが、人間は絶対者の前では所詮不完全な存在だということに気付かないでいる人々に対して、イエスは次のようなたとえを話でされた。

 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心でこのように祈った。『神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(「ルカによる福音書」18:9〜14)

 これは新約聖書にある有名なたとえ話です。人間の世界では通常ここでのお話と反対の評価がなされます。戒めを守り正しく生きていると思うファリサイ派の人は模範的な「出来る人」であり、ここでの徴税人はユダヤ人の敵・ローマに味方する裏切り者で、ローマ人の権力を傘にきて要領よく動き回り、税金をごまかすなどして小金を貯め込むような小賢しい人間で、ユダヤ人の間では疎ましい人間で、よい評価をされないような人で、今でも同じような「ずる賢い」人がいるでしょう。
 神の世界ではこれが逆転していますが何故でしょうか。それはファリサイ派の人たちのように自分を「出来る人」だと考えるような人は、思っているほどに神など必要とせず、驕って自分で生きてゆけると思う人であり、ここで言う小賢しい徴税人は自分を罪ある人間だと卑下し、自分の罪に苦しみ、神の前に立つことも出来ないとへりくだっている人の例えです。神は後者に目をかけられているのです。どんな人間でも”神”の目から見ると正しくあるとはいえない、人間は原罪からは逃れられない不完全な存在でしかないと言うことなのだと思います。
 自分で自分を「正しい」と思いこんでいる人、そんな人は色んな社会問題等の告発者などによく見られます。中央公論の七月号は「対日強硬の中国に潜むリスク」が特集になっていました。その中に中国人を見下し、優越感に浸った論者の記事が幾つか見られ、このたとえ話が思い浮んだのでした。
 告発者や優越感に浸って他人を見下すような人は日常神など必要とはしない強い人たちなのでしょう。しかし、わたしたちは何時、病気、飢え、恐怖、不幸に見舞われるかもしれないのです。そんな境遇に遭遇したとき、その強い人はどのようになるのでしょうか。その時に自分が陥るであろう慄き、そんなことを想像できない人はとても怖い人のように思います。人間の世界では何事であれ程度の差の問題でしかないのです。どんな境遇になっても自分は絶対に正しかった、と言い切れると思っている人がいるとしたら、その人はイエスの言うファリサイ派の人です。死に直面したとき、「ああ、でもわたしは正しい人間だ、この艱難を引き受ける」と泰然として言えるのか、わたしは”否”ではないかと思うのです。自分で自分を律することが出来ると思う人、そんな人の方が恐らく死に直面しては慌てふためくのでは、と思うのは思いすぎでしょうか。ファリサイ派的な人は他の日本人を平和ボケと言ったりして卑下したりしますが、平和ボケしているのが自分であることには気がつきません。何が正しいことなのか、今日はそれを考えさせられるひと時が与えられたことを感謝出来た日であったように思います。

  神よ、わたしを憐れんでください
                 御慈しみをもって。
       深い御憐れみをもって
                 背きの罪をぬぐってください。
                        (詩篇 51:1)