「更に、イエスは言われた。『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それはからし種のようなものである。 土に蒔くときは、地上のどんな種より小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜より大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。』」(「マルコによる福音書」4:30〜32)

 精霊降臨後第六主日礼拝で読まれた日課はイエスが語られた神の国のたとえの話であった。
 説教の中で牧師先生が「人生には偶然はない。常にそこには神の配剤がある。」と語られました。そうです、例えば人との出会いを偶然と捉えるのか、こうあるために出会いがあった、と捉えるかでは大きな違いがあるのではと思うのです。
 「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」(「ガラテアの信徒への手紙U」1;15)とパウロが書いていますが、わたしたちは人生を始めるその前から、神の配剤の下にあるのだと思います。わたしたちは偶然に世に出た、それでは余りにも虚しい思いになってしまいます。
 「神に出会うのはあなた自身です。望まないなら出会うことはありません。」(「そよ風のように生きる」バレンタイン・デ・スーザ)
 そうなのです。私たちは誰でも私たちを造られた神様に出会うことができるのです。出会おうとしないならば出会うことはありません。旧約聖書の言葉に「時と機会とは誰にでも臨むが人間がその時を知らないだけだ。」(「コヘレトの言葉」9章)とあります。「からし種」のたとえはそれをよく現しているのではないでしょうか。からし種を土に蒔くかどうか、それは個人にかかわる問題です。からし種はほんとに小さなものですが、播かれた種はどんどん成長し、世の中のどんなものよりも大きくなり、他の人たちをも幸せにすることが出来るそんな人生を歩むことになるということなのでしょう。
 神様を知る、それは人生にとって何よりも大きな幸せではないでしょうか。
 「毎日の小さなことに忠実に生きたいものです。真摯な心があれば日々満たされます。洪水も一滴の水が集まって起こるのです。真摯な心には神の助けがあります。」(「そよ風のように生きる」同上)
 それぞれはほんの些細なものかもしれません。しかし、それが神様から与えられたものだという感覚をもって接すると、本当に大きなものになるのです。しかしすべてが思い通りになるものでもありません。もし、そのように思い通りになるのであれば、人間は何処までもその欲望を広げ、傲慢になるのではと思います。思い通りにならないことが多い、それは神様が人間に与えた自分を律する試練ではないでしょうか。人生を真摯に送るように、そう、神様が配剤なされたものではありませんか。
 今の時代、これを忘れた方が多いように思います。科学万能の時代、目に見えないものを信じること、それが難しくなっているからだと思います。 五感ではない心の目で物を見る、それが人生を豊かにする基本だと思えてなりません。