食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペテロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」というと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしが愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、 イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(「ヨハネによる福音書」21:15〜19)

 6月29日はペトロが殉教した日とされています。上の福音書にあるように、ペトロはイエスのことばに従い、羊を飼う人生(イエスのことばを皆に宣べ伝える人生)を送り、ことばにあるとおり、行きたくはない殉教の道えと連れて行かれたのでした。
 上の聖書の箇所はイエスが復活し、弟子たちのところへ現れ、食事をしている場面なのですが、ペトロはイエスが十字架に架けられる前の裁判のとき、群集に詰問され、「こんな人は知らない。神に誓って知らない。」とイエスとの関係を否定したのでした。このようなペトロを許し、ペトロに自分の行くべき道を悟らせたイエスは愛の人だったのではないでしょうか。
 愛ということばの概念、これは又難しいものだと思います。今でいう日本語の愛の概念は、明治以降のキリスト教との関係において作られてきたようです。日本の初期キリスト教においてはこの愛に「めぐみ」や「いつくしみ」を当てています。従来の愛は本能的な意味で使われ、どろどろとした自己中心的欲情の表現だったようです。しかし今では「隣人愛」とか「博愛」とかの相互愛の「大切」という概念が入っていると思います。しかしここで一番大切な概念は超自然的(神的)愛ではないでしょうか。
 有名なパウロの愛の定義にこうあります。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず。高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(「コリントの信徒への手紙1」13;4〜7)

 この愛の定義で自分を照らしてみるとどうでしょう。殆どの人は自分を顧みてその対極であることがわかるのではないでしょうか。そうです、人間はもともと、ここに書かれたような愛を、自分のものには出来ないのです。これは神的な愛、精霊の働きによってのみ可能となるものではないでしょうか。
 人々が皆謙虚になり神の愛を受け入れる。そうすることでのみ、現代の病んだ世相を正す道はないのだと思います。