「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(「マルコによる福音書」6:50b)

 今日の礼拝は南熊本教会群での説教者交換日だったので、熊本から牧師先生が来てくださった。そして「人生、この濁流を渡るとき」と題した説教を聞くことができた。
 首記の聖書の一節は、弟子たちが湖の上で舟を岸に着けようと漕いでいたが、逆風で舟は進まず恐怖に駆られ引き返すこともできずにいたとき、イエスが湖の上を歩いて弟子たちのところへ近づいてこられた時、その姿を弟子たちが見て、幽霊だと思って大声を上げたのだが、その時イエスが弟子たちに話しかけられたたことばだ。ここでは信仰の道を共に歩こうとしていたイエスの弟子たちでさえ「幽霊」というものを信じて、恐怖で怯えている。わたしたちも人生という荒波の中で、そんな「幽霊」を信じてその恐怖に怯え大声を上げることの多い日々を過ごしているのではないだろうか。確実な恐怖は死という幽霊であり、それがいつも自分の周りにいる、そんな感じの日々だと思っている。だが、死を自分の終末だと考えず、自分の恐怖心から離して客観的に眺められたとき、それは恐怖の対象ではなく、自然に受け止められる事象になるのではと思わされることがある。キリスト教で一番大切なのは主を信じ切る信仰であり、主に自分の人生を委ねるということでしょう。もし、そのようになれれば死の恐怖は遠くへ行く、幽霊はいなくなるということだと思う。


 今日の説教の中で先生はこんな話をされました。
 「台風が襲い、大雨が降って家に水が入ってきた。若い女性は恐怖に駆られ、何が何でもとの思いで、わが子とオシメを抱きしめて外へ出て、水の中を避難所を求めて彷徨った。途中、水流に押されたので持っていたものをひとつ捨てた。やっとの思いで避難所にたどり着き、抱きしめていたわが子を見ると、抱きしめていたのはオシメだったのだ。無我夢中で抱きしめていたと思ったのはわが子ではなかった」と。
 わたしたちはこの話からひとつの教訓を得ます。人生の危機に至ったとき、わたしたちは捨ててはならぬものを確りと確認し、ただそれのみを抱きしめなければならないということです。わたしたちは恐怖に駆られ、無我夢中で危機を脱しようとするとき、捨ててはいけないものを誤って捨てる間違いを犯すかも知れない存在なのだ、ということです。二つのものを持っていては間違って大切なものを捨てるかもしれない。だが、決して捨ててはいけないものを唯一つ抱いて火急時には難を避ける、それが最も大切なことではないだろうか。昨今金銭にまつわる不祥事で話題になっている人達、その人達は火急な状況の中で余りにもたくさんのものを抱え込みすぎて、捨ててはいけないものを間違えて捨ててしまった、そこに問題があったということでしょう。
 どんな状況の中においても、わたしたちが決して捨ててはいけないもの、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と話しかけられる方、イエス・キリストのみを抱いて歩む、それを再確認させられた今日の礼拝でした。