「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」
                             (「ヨハネによる福音書」3:6)

 上の言葉は今日の礼拝で読まれたテキストです。礼拝で語られた説教を聞きながらふと思わされたことがありました。
 数学の言葉に「特異点」というのがあります。例えば関数 Y=1/X に於けるX=0がそれである。Xがマイナスの領域でX=0に近づくとYの値は限りなく小さくなってゆきます。また、プラスの領域でX=0に近づけばYの値は限りなく大きな値になります。
 上の聖書の言葉は特異点の存在を言い表しているのだと思います。この世と天の国との間には断絶があり、この世に連続して天の国があると言うものではありません。わたしたちはどんなに努力してもこの世の国の住人であって、天の国の住人になれるというものではありません。だがしかし、特異点を超えることが不可能ではないということを又教えられています。それは霊の力を得て生まれ変わるということです。
 上の言葉の前段にはこうあります。「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ天の国に入ることは出来ない。』」(「ヨハネによる福音書」3:5)。わたしたちは霊の力に導かれ、悔い改めの洗礼を受けることで天の国の住人に生まれ変わることができるのです。石はどんなに磨いてもダイヤモンドになることはありません。これと同じで、この世の住人と天の国の住人とには同じ形をしていても、質の点で異なると言うことでしょう。
 使徒書の中でパウロがこう言っています。「わたしは自分が望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」(「ローマの信徒への手紙」7:19〜21)人間は努力して善をなそうとしても、悪が付きまとうという罪人のくびきから逃れることは出来ないということなのでしょう。パウロは続けて言っています。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(「ローマの信徒への手紙」8:3〜6)

 人間にとって人生は一度限りのものです。罪人であるという人間を自覚し、罪につき従う自分を悔い改め、主・イエスの示された道に従って生きる人生に転換することで、わたしたちは永遠の命に預かれると教えられています。私たちはその幸せをかみ締めながら一度限りの人生を歩みたいものです。洗礼とは永遠の命に至るための大切な儀式だということを改めて思い起こされました。