今日の礼拝での説教題は「出会い」だった。その中で「出会い」が人生そのものに決定的なものを齎すことであることを学んだ。出会いは人間が生きてゆくときに、それぞれの場面場面であるのですが、出会いが真の出会いになったのか、それはよく考えてみなければなりません。結婚、これは人生における最大の出会いかも知れません。しかし最近よく聞く話として熟年離婚があります。定年を機に離婚したとかを、よく聞くようになりました。これなど結婚が真の出会いにはならなかった結果なのです。夫婦とはいかなるものなのか、単なる同居人に過ぎない関係の夫婦が多くなったのではないでしょうか。互いの存在が不可欠なものになっているのかどうか、それが根本的な問題でしょう。
 出会い、その結果自分の人生が変わってしまう、それが真の出会いなのです。近藤勇と土方歳三の出会いなどその例なのかも知れません。この二人は出会うことでその人生が大きく変わりました。出会いが無かったら日本の歴史だって変わったかも知れません。出会いとはそんなものなのでしょう。
 聖書にもそんな出会いが記されています。

 「そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群集に教え始められた。話が終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。
 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。・・・・・・
これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った。・・・・・・
 するとイエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(「ルカによる福音書」5:1〜11)

 ここにはシモン・ペトロたちのイエスとの出会いが書かれています。ペトロは漁師でしたから、自分たちが一晩苦労してもなにも獲れない所で網を降ろしても無駄と思ったのでしょう。人間は往々にして自分の経験に基づいて判断し、結論を出してしまうことがあります。信仰にも同じようなものがあるのかも知れません。でも、神との出会いは確実にその人の人生を変えてしまいます。自己中心の考えから、主が望んでおられる生活へと大きく転換されるのです。「聖書は神に対する人間の正しき思想ではなく、人間に対する神の正しき思想なのです」人間とは如何なる存在なのか、聖書を読むと人間は思想的に180度方向が変化するような革命的な衝撃を受けます。人間の幸せとは何なのか、その考え方が今までとは異なり、180度方向が変更されるように思います。自分自身の本質,所謂自己のアイデンティティを知ることが出来るようになると思うのです。そこにこそ心の平安があるのではないでしょうか。
 バレンタイン・デ・スーザが「たとえつまらないと思われる仕事でも、感謝し、静かな心、愛の心で果たしたのであれば、それで十分です。何をしたかではなく、心を、魂を、力を尽くしたかどうかが大切です。」と述べていますが、 最近は成果主義とかで、手段を問わず何でも金銭に換算して結果のみを評価してしまっています。そんなところに心の平安はありません。あるのは軽薄な自己満足と、充足感の欠如だけではありませんか。
 人間はその人生を希望をもって生き、喜びには単純に、そして悲しみにも神が目をかけて与えて下さった試練と思い、すべてに感謝をという心で接し得られればこれに勝る幸せはありません。 神と出会うこと、それは本当に大きな出来事だと思います。皆様のよい出会いを期待してなりません。