「深刻に悩んではいけない、真剣に悩みなさい」と復活祝日の礼拝の中で牧師先生は語られました。深刻に悩むとは「思い煩う」ことではないでしょうか。そこからは将来の展望が開かれません。ある方が人生についてこう語られたそうです。「人間は真面目に生ようと思えば三つの選択肢しかない。ひとつは”変になる”、もうひとつは”宗教に走る”、最後のそれは”自殺する”である」と。
 夏目漱石は選ばれて英国へ留学したが、我彼の落差を目の当たりにして真剣に悩み、”変”になったという。楽天家と言われるような人は死など思いもよらないのだが、暴飲暴食、不規則な生活をして”自殺”するのと変わらないような道を進んでいます。このように、人間生きるということは大変難しいことのように思われます。
 聖書の中に「聖ペテロ」についての記述があります。イエスが十字架にかかる前、「あなたがたは皆わたしにつまずく。」(「マルコによる福音書」14;27)と言います。ペテロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いましたが、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」といわれます。イエスは捕まりますが、ペテロは彼を目にした女から「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と詰問されると、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言い張ります。さらに詰問されますが、彼は否定します。その時鶏が鳴き、イエスの語られた言葉を思い出して激しく泣きます。ペテロは自分の弱さを真剣に悩んだことでしょう。その後、復活のイエスとの交わりを通して真理を知り、イエスのことばを語り広め、最後は殉教します。イエスに導かれ、イエスの歩まれた道を信頼と希望を持って生き生きと彼は歩んだということです。
 ”死”は人間にとっては恐ろしいものものです。聖書によると人間の死は神との約束を破った人間の罪に対する報いです。人間は死から逃れることはできません。しかし、主イエスは十字架に死に、三日後に蘇ります。この蘇りは蘇生ではありません。イエスは霊的に蘇ったのです。
 「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(「コリントの信徒への手紙」15:21〜22)
 わたしたちは人生を真剣に悩まなければなりません。でも、主が復活されたように、わたしたちもその喜びに与れることを知っています。人生を歩むその中で悩みに遭遇しても希望を見出し、強く生きてゆきたいと思っています。私は信頼する方に助けられることを知らされています。
 「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐいご自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。」(「イザヤ書」25:8)

“Lord,you told me when I decided to follow you,
You would walk and talk with me all the way.
But I‘m aware that during the most troublesome
times of my life there is only one set of footprints.
I just don‘t understand why,when I needed You most,
You leave me.“

He whispered “My precious child,
I love you and never leave you 
never,ever,your trials and testings.

When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you.“

 これは「足跡」という詩の一節です。わたしたちが苦しみ悩むときこそ、主はわたしたちを抱きかかえていてくださる。安心して”悩んで”いいのではないでしょうか。