「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。
 主はわたしを青草の野に休ませ   
 憩いの水のほとりに伴い  魂を生き返らせてくださる。
 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。
 あなたが共にいてくださる。 それがわたしを力づける。」   (「詩篇」23:1〜4)

 一年の初めの日が日曜日という年は珍しい。わたしはこの一年をどんな気持ちで過ごせばいいのか、そんな事を考える機会を与えられる礼拝になったことが嬉しかった。詩篇23は私たちの信仰告白の言葉である。この言葉が一年の最初の日の礼拝で読まれたのは意義があることだった。「あなたが共にいてくださる」、この感覚を忘れて過ごす日が何と多いことだろう。日常生活では色んな出来事がある。そんな時多くの人が考えると同じように、これは偶然の出来事であって、それが望ましかった場合「何とラッキー」、悪いことの場合「ああ、運がわるいな」、と思ってしまうのが私の日常の心理なのだ。出来事が私にとって良いにつけ悪いにつけ、それが「あなたの鞭、あなたの杖」と思えることが出来たなら、なんと幸せなことではないだろうか。それを忘れて過ごすことばかりなのだから。
 昨年も大きな災害が発生し、多くの方々が亡くなられた。日本人の感覚では「神も仏もない!」であり、「神は何と無慈悲なことをする」と思ったりもした。でも考えてみよう、天災等で亡くなられる人達の数より人間が人の命を安易に奪っていることの方が多く、悲しみを撒き散らしているのではないだろうか。人が人の命を奪う、それは自己を満足させるためだったり、既得権を維持しようとの浅ましい心から行っている人道に対する強烈な挑戦ではないだろうか。天災、これは奢れる人間に対する神の警告である。「見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。・・・・『すべての肉なるものを終わらせる時が私の前にきている。・・・』」(「創世記」6;12)と。
 降りかかる災禍は人間が”神はいないかのように思い、神はいないかのように振舞う”それに対する大きな警告である。人災、それは人々から彼らが頼りにして生きている「杖」を取り上げる「犯罪行為」ではないか。人間は独り立ちで生きられるものではない。人間を陰で支えているのが「杖」である。その杖を奪うことは犯罪行為以外の何ものでもない。神の鞭からは幸せにつながる反省が生じ、人間の犯罪に対しては反感が生じる。
 主が共にいてくださり、わたしを鞭打ち、そしてわたしを支えてくださっている、そんな思いで一年が送れたらと思うひと時であった。

 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(「フィリピの信徒への手紙」4)