「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなこともでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
                             (「フィリピの信徒への手紙」4;4〜7)

 待降節第三主日の礼拝で読まれた使徒書の一節です。パウロは言います「主において常に喜びなさい」と。私達はどのようなときに喜びを感じるでしょうか。喜怒哀楽という四文字熟語があります。、人間の感情の一番最初に喜びの字があります。でも喜びはそれぞれ人によって違ったものであるのも事実ではないでしょうか。ビートたけしさんがあるエッセイの中で「一番自分でもショックだったのは、最近も相変わらずショックだけど、悲惨な事件を見ると安心してしまう心の動きがあるんだよ。」と書いておられますが、多くの人の心にもそんなものがあるのではと思うのです。人の不幸をみて安心する、言ってみれば喜んでしまう、本当に厭らしい心象ではと思うのですが、自分を振り返ってみると心の隅にもそんな卑しいものがあると思うのです。
 牧師先生が「私の書いた文章に差別用語があると指摘された。私は気づかなかったが『片手落ち』という言葉がそれだと言われた」と語っておられましたが、差別用語とは何なのでしょうか。私が未だ現役だった頃、職場で配管の流れを遮断する板を「盲板と呼ぶのは差別用語になるので使ってはいけない」と言われたことがありました。このように可也り前から一部の言葉に対して言葉狩が行われ、今もそれが進行している現実があります。
 私は思うのです。言葉の上での差別、言ってみれば差別用語は真の問題ではなく、自分の心象が真の問題なのではないでしょうか。どんな言葉を使おうとも思いやりの心がない、それが問題なのです。しかし、人間は悲しいかな、他人にとっての悲しい境遇に対し卑しく蔑む、そんな心象を持つことから逃れることが出来ないのではないでしょうか。如何にそれを表現する言葉を変えてみても、「片手落ち」を「身障者」と言っても、表現によって被差別者の心は癒えるものではありません。真にその人に憐みの心を抱けるのか、人間の卑しい性として他人の不幸を喜ぶ心を持ってはいないか、このことから開放されることが大切なのではないでしょうか。自分はそんな卑しい罪から逃れられない、そう自覚するとき初めて心は解放されるものだと思います。それは主が歩まれた道を思い、主に委ねて生きる心を持つ、「主において常に喜ぶ」以外にはないのではと思うのです。
 クリスマスが近づくと街は華やかな電飾で彩られ、クリスマスソングが流れるのが年中行事になりました。主の誕生の陰に、多くの幼子の血が流されたのを知っている私はなかなかそんな風景を受け入れることができません。クリスマスを罪人である自分を振り返る基点にする、そんな気持ちで迎えられればと思うこの頃です。