「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれでも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」
                                               (「コリントの信徒への手紙」12:3)

 聖霊降臨祭はクリスマス、復活祭と並んで私たちにとって重要な意味を持つ日です。今日、六月四日の礼拝はそれを再確認するものでした。
 人間は「神にかたどって創造された」(「創世記」1:27)存在ですが、神のことばに叛いた行為によって罪を背負う身になってしまいました。この世の出来事を見たり、悲惨な行為を耳にするとき、それは実感されるものに思えます。
 先日、美しいドレスデンの街を観光したのですが、第二次世界大戦が終結にさしかかろうとしていたとき、米英軍の爆撃機による空爆で、一夜にして十万人もの人々が殺戮されたのを聞かされました。そこには目にするのも怖ろしい生き地獄が現出されたことでしょう。人間は自己都合でどんなことでも行ってしまう、罪深い存在であり、誰でもそれから逃れることは出来ないのです。


 「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(「ローマの信徒への手紙」5:19)


 わたしたちはイエス・キリストの十字架の死によって、その罪から開放される術が与えられました。だが罪がなくなったというのではありません。自分は罪深い存在としてしか在り得ない、そんな自分を知り神の前に謙虚になることで救われるのです。


 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられるものなのです。」(使徒言行録」2:38〜39)


とペテロが語っています。
 
 今日の午後、隣町にある星野富弘美術館へ行き、星野さんの作品に触れることが出来ました。一瞬の出来事によって手足の自由を失われ、星野さんの人生は絶望の淵に立たされるものとなったでしょう。しかし、神はそんな星野さんを見捨てることはありませんでした。星野さんの詩に次のようにありました。


  ブラインドのすき間からさし込む/朝の光の中で/二つのつぼみが六つに割れた/静かに反り返ってゆく花びらの/神秘な光景を見ていたら/この花を描いてやろうなどと/思っていたことを/高慢に感じた/「花に描かせてもらおう」/と思った


 星野さんは見捨てられず、聖霊の賜物を受けその人生が変わり、素晴らしい作品を生み出していると感動させられました。身障者という重い荷物を背負う身になったけれども、その荷物を背負うことによって人生がより豊かになったのでしょう。
 昨年も日本では自殺者が三万人を超えたそうです。健常であっても生きてゆくことが難しい現実があります。しかし、わたしたちには救われる道も用意されていることを認識すべきではないでしょうか。限りなき謙遜、わたしたちは生かされてここにある、それを感じることが出来れば素晴らしいことではないでしょうか。艱難、それさえ神からの試練と考える素直な心は成熟した人生を与えられま。そうした神から与えられる素晴らしい贈り物を受容し、充実した日々を感謝できればそれに過ぎる幸せはありません。