![]() | 長野県 森将軍塚古墳 その2(更埴市) |
周辺の「将軍塚」名の前方後円墳は森→川柳→土口→倉科→有明山の順に築造と推定されています。千曲川の河川敷を見下ろすいくつかの丘陵の鼻に、それぞれの古墳が乗っているといったかたちです。 |
![]() | 前方部北西側。実際に近くで見ると葺石は各々がかなり巨大だ。前期古墳らしく、墳丘がほぼ水平に見える。だが調査によると前方部端がやや高く、後円部寄りとの高低差は1mほどらしい。毎年11月3日にはこの上で「森将軍塚まつり」というイベントが行われる。左側芝生に3号墳石室と12・13号石棺がある。 |
復原された朝顔形埴輪の列。27種157個が復原されている。これらの埴輪の中には突帯を擬口縁状に(後から貼り付けるのではなく、壷の口のように)作る独特の技法が用いられているものがあるという。出土した埴輪片の総重量は実に3トンに及んだという。 | ![]() |
![]() | 前方部端のこれまたユニークな合子形埴輪。はじめは研究者も何の埴輪かわからず「異形埴輪」と呼ばれていた。その後、合子(ごうす・蓋が身にはまる容器)が台に乗った形に似ているとしてこの名称に落ち着いたようだ。どの形の埴輪も裾広がりなのは地中に埋めずに置くためかとも言われる。 |
合子形埴輪の蓋の無い状態のものもある。これらの埴輪には野焼き製を強調するためか黒い焦げ跡がある。朱彩やハケ目も付けて極力リアルに作られているが、耐久性を考慮して現代風の磁器素材を使用している。墳頂は現在このような小石が敷かれているが本来は河原石葺きだったらしい。 | ![]() |
![]() | 前方部より後円部。後円部の2段目はきわめて低い。このように見ても全体の屈曲はわかりにくい。埴輪は北側(平野側)のほうが密に配列されていたと推定されている。前方部からも後から作られた石室・石棺・埴輪棺・土壙墓・集石などの遺構が多数発見されている。 |
説明板に図示された築造過程。墳丘内部に区画された石垣が作られている特異な構造が示されている。後円部背面側の貼石帯が切れている所は「橋状遺構」という岩盤がわざと削り残されている部分で、台形状施設とも関連する祭祀用施設と考えられている。 | ![]() |
![]() | 同じく説明板より。いわゆる「丘尾切断」式の作り方。地山の岩盤を「芯」としてうまく利用した構造が示されている。地山の面がそのまま石室土壙の底部になっている。盛土からは縄文〜弥生時代の土器や石器も出土している。 |
こうした墳丘の全面解体調査は全国的にも稀である。後円部から復原しながら解体調査も同時進行しているのがわかる。後円部よりは簡略ながら前方部も石垣を組んで土が盛られている。調査途中で石垣が雨で崩れたこともあるそうだ。同様の構造の古墳が他にあるのか興味深い。 | ![]() |