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玉敷神社(騎西町の古墳・番外編)
玉敷神社は、延喜式にもその名が見られるという古社で、境内にある萱葺き屋根の神楽殿や、庭園の大フジなどで知られています。
騎西町役場の北西、騎西町騎西という場所にあり、周囲はすっかり宅地化されているのですが、このあたりにも古墳があったらしいということなのです。
ちなみに「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」の一覧表の方には入っていませんが、分布地図上に「参考地」としてポイントされています。
この「参考地」は報告書の中ではこの玉敷神社ぐらいしかないのですが、さて、実態はどうなっているのでしょう…? 探しにいってみました。



玉敷神社


「官幣」の文字を塗りつぶしてあるのは、よく見ますよね大宝3年(703)創建と伝えられる玉敷神社。元は現在の騎西町正能にあったが、天正2年(1574)上杉謙信がこの地に出兵した時に炎上して文書等を喪失し、さらに寛永4年(1627)時の騎西城主大久保忠職によって現在地に移されたという。「玉敷神社」と呼ばれているが、東の香取神社圏と西の氷川神社圏に挟まれて元荒川沿いに多い「久伊豆神社」でもある。

境内を進んで行くが、ここまでは古墳に通じる手がかりは見当たらない。拝殿左に見える2本の巨木は町指定天然記念物の大イチョウ。そのイチョウの間の奥に問題の弁天島がある。左に見えているのが神楽殿。見事な萱葺き屋根でした

むむ、この石橋は…?市杵島姫命を祭る弁天島。これ自体が周堀のある古墳のように見えるが、問題はここに架かる橋で、古墳関係の遺物を見慣れた人なら一目で怪しいと感じるのではないか。

案の定、小さな社に設けられた説明板の最後に「大正時代、県道加須鴻巣線開設工事の際、騎西城附近から掘り出された古墳時代の石棺の一部である」と記されていた。「石棺」というより、石室の天井板の可能性が高い。ご覧のように、橋の下側が平滑で、こちら側が石室内面だったと思われる。堀の中から撮影。水はほとんどありません

絵図の左端に「弁天島」が見えてます。でも塚は見えない…境内の説明板に示された、「新編武蔵国風土記」の挿絵に描かれた玉敷神社の様子。これを見ても境内に古墳状のものは無かったようである。結局、弁天島の石橋が唯一の手がかりであった。

藤は残念ながら時季はずれ。社叢は「ふるさとの森」にも指定され、藤以外にも古そうな樹木が多いので、藤見の混雑時を避けて落ち着いた雰囲気の境内を見て歩くのも一興かも。冬の藤。庭園は改装しているところでした

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