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箕田古墳群その1(鴻巣市)
北鴻巣駅の南東1kmほどのところにある古墳群。
JR高崎線西側の旧中山道周辺に市の史跡指定を受けた数基が残っています。



箕田1号墳跡(稲荷塚古墳)


周囲は住宅街。びっしりと家が並びます。稲荷塚というからにはお稲荷さんがあったのでしょうけれど…南東から。赤見台中学校の南西100mあたりにあった24mの円墳。写真中央付近の畑地にあったらしいが現在は完全に消滅している。
 
2号墳(三士塚)の説明板にあった分布図。現存の古墳はおおむね1000m×400mほどの範囲内に分布している。「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」では6・7・8号墳の位置に誤りがあり、この説明板のものが正しい。2号墳=三士塚(さんしづか)と8号墳、9号墳のところには説明板があるのです
 
のびのびと枝を張る冬枯れの大イチョウ。葉のあるときにまた来ようっと群域のほぼ中央に鎮座する氷川八幡神社。大イチョウも立派だが、鳥居も負けじと大きめ。源融(嵯峨源氏の祖で光源氏のモデルとも言われる)の孫の源仕(つこう・891?〜942?)が武蔵守として赴任したこの地を本拠として箕田源氏と称し、任期満了後も居座った。その源仕が承平天慶の乱の後に八幡社を鎮祀したとされる。説明板によると氷川社は「承平元年(966)六孫王源経基が勧請した」とされるが承平元年は931年であり、誤記と思われる。経基の館跡と伝えられる遺構が南東3kmほどにあるが、平安期のものとは確認されていない(当サイト相互リンクの星野氏の「さいたまの歴史散歩」に経基館の詳細があります)。源仕の孫が鬼退治の伝説等で有名な源頼光の四天王の一人の渡辺綱(953〜1025)である。
 
社殿は比較的質素。入口には箕田源氏の由来を伝える安永7年(1778)銘の石碑がある。この北に箕田源氏の居館があったと伝えられるが、遺構は未確認。「みた」は東京港区の三田とする説もある。とにかくこの時代の物事については清和源氏の祖とされる源経基の生没年をはじめとして正確にはわかっていないことが多い。地味な雰囲気ですが、手入れの行き届いた端正な境内
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