「歴史と国家」雑考第3題 「弥生都市」考

 このごろ二千年の昔の弥生時代に都市があったかどうかという議論が、考古学・古代史の研究者の間で議論になっている。なぜこんなことが議論になるのか私には分からない。池上曽根遺跡などの弥生時代の遺跡において、膨大な出土遺物量と豊富な遺構を見て、「都市」という言葉に安易に飛びついたという印象をもったからである。しかしこれまで考古学において「拠点集落」と称された弥生時代の遺跡に「弥生都市」と名付けることは、博物館や教育委員会のパンフレットでもかなり出てきており、まもなく定着するかも知れない程である。

 

都市の成立論

 都市とは一体何か。「都市」の反対は農山漁村である。他に都会と田舎、市街と村落、マチとムラ、都と鄙といった対義語もあるが、ここでは一般的な使い方に従って、「都市」と「農村」としておこう。

 農村は太古の昔からあるが、都市はそれに比べてずっと新しい。都市がなくても農村は存在し得るが、農村なくして都市は存在しえない。とすると、都市は当初より都市としてあるのではなく、農村から都市が分離したものと理論的に考えられる。

 マルクスはその著書『ドイツ・イデオロギー』で、

 

  「一国民内部での分業は、まず農耕の労働からの産業および商業の労働の分離を、そしてそれとともに都市と農村との分離および両者の対立をもたらす。」

 

と論じている。マルクスだからといってすべて正しいわけではないが、この部分についは成る程と納得する。つまり農業・産業・商業一体となっていた原始社会の農村において、産・商業が農業から分離するとともに、都市は農村から分離して成立するのである。単に人が多い、あるいは権力の所在する空間は「都市」ではなく、あくまで産・商業が農業から分離した空間こそが「都市」である。

 古代専制国家の国王はその周囲に身分的にも人格的にも従属する人々を、何万何十万人も集めることがある。なかでも遊牧民国家では、この大集団は国王の意思のままに移動していくことが繰り返されることになる。これは国王一家の下男・下女の集団と本質的に変わらず、どれだけ多くの人間がいようが、また定着していようが、「都市」と言うことはできない。

 人の集住と非農村をもって「都市」と言う研究者がいるようだが、これは疑問だ。軍隊の駐屯地や難民キャンプは当然農村ではなく、時には数万人の規模になるほど集住することがあるが、「都市」ではない。

 日本では農業で人が集住することは珍しいが、漁業では船を出入りさせる港の立地から、狭い土地に人家が密集することが昔から多い。しかしこれは「漁村」であって「都市」ではない。そのなかに商店や職人の作業所が集中する部分が生まれ、そこに周囲から人々が集まるようになって、都市的になったかな、とされるものである。この都市的な部分が農村(あるいは漁村)から分離して、初めて「都市」である。つまり人が集住することがあっても、第1次産業が主たる生活の糧であれば、それは都市ではない。

 つまり単に人が多いだけで、あるいは権力の.所在する空間だけで「都市」とは言わないものなのである。産・商業が農村から分離した空間こそが「都市」である。

 

都市の歴史の素描

 それでは我が日本における都市の歴史は、どのように描かれるものなのか。簡単に素描したい。

 8〜11世紀の奈良の都・平安の都は、基本的に天皇(=国家)に従属して、ただひたすら天皇に奉仕する官庁と貴族、寺社で構成された場所である。各官庁と各貴族、各寺社は多数の従僕を有しており、都の人口はかなり多い。この時の都は、天皇の従者たちの巨大な集まりと言えよう。

 しかし人は多く集住していても、商品を生産し売買する商工業(産・商業)が不十分なうちは、都市として未熟と言わざるを得ない。手工業を担う専門工人たちは、官営工房直属の職人、あるいは貴族や寺社といった政治的支配者に人格的に従属するお抱え職人である。また生産物の移動や交換を担う商人は身分的には下級官人であり、政治的支配者に従属している。都内には「市」が立つが、各官庁や貴族、寺社で生じた余剰と不足を交換する場であって、何日かに一回開かれる状況で、常設とは言えないものである。それは今で言う「不用品交換バザー」と本質的に変わらない。

 政治から独立した商工業(現代風に言うと市場経済とか民間経済)があって初めて今につながる「都市」が成立し、「都市の歴史」が始まる。専門工人は自立を始めて、自ら生産した手工業品を市場で売って貨幣に替えて、それで生活必需品を購入して生活を維持するようになる。商人も自立して自らの判断で売買を行なうようになり、商業が活発化していく。そして貴族や寺社なども必要なものは、それまでは主にお抱えの職人や領民に作らせていたものが、購入して調達するものが主となっていく。それは12世紀の平安時代末期以降のことである。

 商工業が発達し、それに伴い貨幣が大いに流通すると同時に、日本各地に常設の市場が形成される。そこには自立した商人や手工業者が集住し、周辺から売買のために多くの人々が集まって賑わい、この場所で登場した文化(ファッションやデザイン、言葉など)が流行となって周辺に広まるという文化発進地となっていく。これが「都市」というものである。

 農村にとって都市は憧れの土地であり、逆に都市住民は農村に対して「田舎くさい」という差別感を持つ。農村ではお金がなくても共同体にとどまる限り生活できるが、都市での生活は何事もお金が必要である。また農村の共同体からはじき飛ばされた人民の行き着く先は都市である。都市と農村との違いが際立ち、対立した状況となるのである。

 明治の近代資本主義の時代になると、大規模工場が都市の郊外や埋立地に立地するようになる。それまでは都市の中に工業があったのだが、その現業部門が都市から分離して工業地帯を形成した。つまり都市は、工業という物質的富を生産する場を切り離して、社会の管理(官庁や企業の本社)や商業・情報・文化という機能に純化していき、その中に中核となる「都会」を作った。

 都会はその中でさらにビジネス・官庁街や繁華街、住宅街などに住み分けてきたが、ここ数十年の間に、ある程度財産をつくった都会の住民の多くが郊外の「住宅都市」に脱出し、都会は昼間の人口に比べて夜間人口の少ないいわゆる「ドーナツ化現象」が顕著になってきている。住宅都市の住民はまとまった買い物を地元のスーパーですませ、都会へは高級品や最新流行のものを買いにいく行動パターンとなる。つまり都会はさらに住宅を切り離して、ますます都会として純化してきているのである。そして都会こそが都市の核心である。

 都会は、都市の中でも先端を行く空間である。都会を核とする都市は拡大して広範囲に広がり、「都市圏」と称される。関西においては、大阪と京都、神戸の三大都市が周辺の農村を侵食膨張して一つに繋がり、巨大な都市圏を形成した。そしてそれは現在も膨張し続けており、止まる様相はない。

 ところで農家は専業農家がほとんどおらず、今や多くがサラリーマン志向である。農業の方は休日農業あるいは三チャン農業(ジイチャン・バアチャン・カアチャンの三者で担う農業)の状況となっている。そういった片手間の農業以外では、農家の人たちの行動は住宅地の住民と変わらない生活スタイルとなっている。また都市近郊農家ではアパート・駐車場経営者に転身することが多い。農村は生活においても景観においても都市化しつつある。そして一旦都市化した農村は、もはや農村へ逆戻りすることはない。農村が都市化することによって、都市と農村との対立は解消する方向に向かっている。

 今後においては都市圏の果てしない膨張とともに、いわゆる都市病(犯罪、ホームレス、ゴミなど)が深刻化することになるだろうし、また都市圏に入れなかった農村の過疎化がさらに深刻化するだろう。

 

「弥生都市」はありえない

 私は都市の歴史をこのように理解している。しかし古代史研究者では、奈良の都はやはり「都市」だと考える人が多数派である。それが現在に至る「都市の歴史」とは隔絶しているということが確認された上でのことなら、私も賛成できる。なぜならそれは官公庁街と公務員住宅街の「都市」であって、王様と家来たちの「宿営地」と本質的に変わらず、現代の都市に繋がるものではない。自立した商工業者(=町人)が集住してこそ現代に繋がる都市であるからだ。

 弥生時代は、奈良の都の時代よりも数百年も昔のことである。当時の人々の基本的な生業は、奈良時代以上の割合で農業(狩猟・漁労を含む第一次産業の類)であろう。手工業は奈良時代以上に農業から分離していない段階と考えるべきである。それは農閑期作業や家庭内分業(女性の機織りなどのような役割分担)としてなされるもので、農家の家業の範囲内である。農家は、一年中家族全員が農業をしているわけではない。忙しいのは田植えや稲刈りぐらいで、普段から農作業ばかりしている人は少ないものだ。日常の必需品は自ら手作りするのがほとんどである。弥生時代の手工業品のほとんどは、農家の家業の範囲内での生産によることが十分に可能である。

 原始・古代において、農業もせずに手工業のみで生計を立てることができた専門工人は、王あるいは聖職者、有力貴族に身分的に従属する職人であろう。奈良時代は国家権力が極めて強大なだけに専門工人の割合は多くなるが、権力の大きさがそれよりはるかに小さい弥生時代にあっては、その割合は非常に小さくなる。ましてや自立した商工業者の存在はない。

 「弥生都市」とされている遺跡では、鋤・鍬など農工具や石鏃などの狩猟具、蛸壺などの漁労具が大量に出土している。彼らの基本的生業が第一次産業であることは明らかだ。そして前述したように第一次産業の家がいくら多く集まっていても、それは都市ではない。

 従って「弥生都市」はあり得ない。

 

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