64題 朝鮮人学校閉鎖令

 

 第63題の一部に誤りがありましたので、その部分を削除したことを3月7日付けでお知らせしました。削除したのは下記です。

 

<いま全国に数多くの民族学校がある。それらの学校は、戦争直後、自分たちの手でわが民族の子として子どもたちを育てようとした一世、二世の親たちの手で建設され、自主的に運営されました。(10頁上〜下段)

 「戦争直後」とは、第二次大戦後のことでしょう。そうであれば「親たちの手で建設され」は間違いです。戦後の朝鮮人学校は日本の公立学校の校舎・校地で設立されました。そこでは日本の法律に基づかない教育がなされました。だから当時のGHQと日本政府は、朝鮮人学校閉鎖令を出したのです。親たちの手で建設されたのは、この閉鎖令後に私立学校として出発してからのことです。>

 

 以上ですが、何が誤りかと言えば、戦後の朝鮮人学校の全てが日本の公立学校の校舎・校地で設立されたように書いたところです。実際には私立工業高校を買収したところや隣保館を利用したところ、あるいは倉庫や空き工場を借りたりしたところもあったようです(註1)。つまり公立学校の校舎・校地が全てではなく、そうでない場所もあったということです。

 ところでこの朝鮮人学校ですが、これは1948年1月24日付けで文部省より「朝鮮人学校の取扱」の指示があり、これによって各自治体は軍政部(GHQ)係官と協議の上で、日本人学校の建築物を利用している朝鮮人学校の即時閉鎖を命じています。(註2)

 これに対して激しい反対運動が展開されました。大阪では抗議のために何千人もが府庁や警察署に押し寄せ、それに対しMPが威嚇射撃するような状況になり、また兵庫県では「非常事態宣言」が出されるにまでなりました。(註3)

 ところでこの閉鎖令は民族教育の権利を否定するものという評価がなされています(註4)。しかし朝鮮人学校の多くは日本の学校の建築物で設立されるなど公費負担されているにもかかわらず、日本の法律に基づかない教育がなされたが故に閉鎖令が出されたのですから、民族教育の否定だけとは一概に言えないところがあります。

 そしてこの翌年には朝鮮人連盟(今の朝鮮総連の前身)が「暴力主義および反民主主義団体に該当する」ものとして、団体等規制令という法律によって解散させられました。これに伴い、この連盟が経営していた朝鮮人学校も法律に基づかないものとして閉鎖となりました(1949年10月)。一方では政治的中立を守り、私立学校としての認可を受けていたところは存続しました。(註5)

この時期になりますと、東西冷戦の国際状況がそのまま在日朝鮮人子弟を直撃した時代だったということになりましょう。

 

 

(註1)梁永厚著『戦後・大阪の朝鮮人運動』(未来社 1994)55頁、78頁。なお倉庫や空き工場を借りて賃貸料を払ったのは、日本の公費による可能性が高いものです。

(註2)註1の80頁、および『大阪市史史料第十四輯』(大阪市史編纂所 昭和60)15頁。「日本人学校の建築物」とは、現存した公立学校だけでなく、空襲で焼失したために倉庫等を公費で借りて運営した公立学校なども含むと考えられます。

(註3)註1・2の文献参照。「阪神教育闘争」とも言われています。

(註4)平凡社『朝鮮を知る事典』(1986)356頁では、「阪神教育闘争」を「民族教育を守る闘い」と評価しています。

(註5)註1の120頁。

 

(参考)

質問と答え http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/12/18/1036201

 

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