「歴史と国家」雑考第2題 「古代国家論」考

 大阪大学考古学教授の都出比呂志さんの古代国家に関する一連の論考「日本古代の国家形成論序説」「国家形成の諸段階」「前方後円墳体制と民族形成」は非常に興味深く、これに刺激されて山尾幸久さんや吉田晶さん、門脇禎二さんら、古代国家論の有名な研究者の諸論文、さらにはヘーゲル、マルクス、レーニンなどの古典も久しぶりにひもといた。

 

古墳時代に国家は成立したか

 都出さんの説は、日本の国家はその指標から8世紀の律令体制に成立するとされてきた従来の学説に対し、それ以前の古墳時代もすでに国家が形成されていたと考えるべきではないか、と提起するものである。

 4〜6世紀の古墳時代はどのような社会であったのか。日本列島上に存在した「倭国」には「大王(おおきみ)」がいて、その大王は5世紀には中国の王朝から倭国の唯一最高の王と認められ、西は九州、東は関東の古墳から私は大王にお仕えしてきましたという銘文の刀剣が出土し、大王一人のために仁徳陵などの前方後円墳という巨大なモニュメントが造営される。そんな社会が国家ではないという従来の学説は、確かに理解し難い。

 『国史大辞典』の「古代」の項目で、関晃さんは古墳時代の日本について、

 

「最近ではまた、国家の要件をきわめて高度な線で設定することによって、国家成立の年代を大幅に引き下げようとする議論が少なからずみられるけれども、全国にわたる地域権力がすべて統合され、その全体の力によって長い期間にわたって海を越えて朝鮮半島に進出していたということになれば、これは十分に統一国家の成立としてよいのではないか。」

 

と論じている。古墳時代の日本(当時は倭国)は国家ではないという見解に疑問を抱く人は少なくないだろう。

 都出さんが古墳時代を「初期国家」として国家成立段階にあったとするのには、私には首肯できるものである。

 

国家の論じ方

 古代から現代に至るまで、そして東洋においても西洋においてもあらゆる全ての国家に共通する普遍的な性質(つまり国家の本質)は何か。国家を論じるには、かかる普遍性を基礎に特殊性を加えて総合的に見ていく必要がある。すなわち国家の本質という抽象性の上に、日本という地理的特殊性、古代という時期的特殊性、日本人という民族的特殊性‥‥等々の個別具体性をプラスしてトータルに考察してこそ、日本古代国家を理論的に論じることができる。

 そしてその国家論が正しいかどうかは、その普遍性と特殊性を検証することによって得られる。特殊性の方は具体的な歴史資料によって実証主義的に検証することになるが、もう一つの普遍性は現代の世界の諸国家にも通じるものであるから、その検証というのは、数千年の国家の歴史を総括して、現代の国家の現在と未来を見通せるかということになる。つまり、日本古代国家論が正しいかどうかは、実証主義的研究だけでなく、今の国家のあり方を分析できるものかどうか、そして国家の将来の見通しを語ることのできるものかどうかによって、検証することができる。

 しかし、自分は古代国家を論じているのであって現代国家は関係ない、と普遍性を拒否する研究者もいるだろう。その場合には特殊性のみから組み立てられた国家論であるから、そんな国家像があるのならあんな国家像もありうる、などと千でも万でも考察することが可能となり、百人百様の国家論ができる。そもそもあなたのいう国家とは一体何か、何をもって国家というのか、それはどうやって検証できるのか、という議論は困難である。たとえ議論があっても検証できない以上は、あなたがそういう古代国家論で私はこういう古代国家論だ、と言い放しで決着することがない。これは科学ではない。

 

階級国家論

 都出さんは国家の普遍性については次のように論じている。

 

「国家は支配階級の権力であるとともに、社会の分裂を回避して総括する公共機能をもち、それがゆえに社会から超越するという性格をもつ。」

「国家は暴力装置というむきだしの権力を有するだけでなく、この権力が、基礎となる狭隘な社会単位の自己完結性を抑制しうる公共機能をもつがゆえに逆に下部の基礎単位は権力への求心性をもたざるをえないという関係が成立した社会と考える。」

 

 このうちの「国家は支配階級の権力」「暴力装置というむきだしの権力」という部分はレーニンが『国家と革命』で論じた

 

「国家は階級支配の機関であり、一つの階級による他の階級の抑圧の機関」

「被抑圧階級を搾取する道具としての国家」

「国家は、階級対立の非和解性の産物」

「あらゆる国家は非自由で非人民的」

 

という階級国家論そのものである。都出説は階級国家論に「公共機能」を付加したものと評価できよう。

 しかしレーニンの国家論は、1991年のソ連崩壊をもって破産したことが確認された。階級国家論では、民族がなぜ自らの国家を欲するのか、国家崩壊状態にある国民はなぜ悲惨極まる状況となってしまうのか、を説明することができない。労働者階級の国家として最終的に国家を否定するはずのソ連は、レーニンによる革命樹立当初から専制国家であり、エゴイズム丸出しの国家であった。階級国家論で国際社会に臨む政治指導者は、今は北朝鮮の金正日さんぐらいであろうか。

 しかしこのように現代の国際社会においてはもはやあり得ない階級国家論を、日本の歴史研究者たちの多くは引きずっている。原始社会に稲作がもたらされることによって貧富の格差が生まれて、社会が支配階級と被支配階級とに分裂し、支配階級が自らの利益をまもるために国家がつくられた、という階級国家論は、考古学・古代史の世界では今なお有力なのである。

 世界的に社会主義が崩壊した現在、階級国家論からの離脱が求められると考える。

 

国家の正当性

 国家というのは一人の支配者=代表者(王や皇帝、大統領など)の下に国民が一つの領域内で秩序と安定をもった社会を構成し、国民および周辺の国々から国家としての正当性を認められている、こういったことがあればもう十分に「国家」である。従って古墳時代の倭国は国家としての資格がある。

 現在の国際連合(UN)の加盟の際の国家の要件や国際間の国家承認の要件は、上記のようなものである。そしてそれが国家の普遍性を論じる上で重要と考える。少なくとも「階級」とか「公共機能」とかは全く関係がない。たとえ原則に忠実な社会主義国家であろうとも、おたくの国は階級形成も公共機能も不十分だから国家として承認しない、ということはこれまでもなかったことだし、今後もあり得ない。

 ところで国家としての正当性とは、現在は国民主権という考えから国民の信任を得ることとなるので、公正な選挙による政権樹立とする場合が多い。しかしなかには選挙が実施されても、それは国民本位の政権ではないと、少数野党がその正当性を否定することがある。この場合には自分の政党のみに国家の正当性があるということになる。あるいは亡命政権のように、実際には国土と国民を支配していないのに、国際社会から国家の正当性が認められる場合がある。

 過去において国家の正当性とは、世界の中心と観念された中国の王朝に朝貢国として認められることであったり、所定の儀式によって王統を獲得することであったり、それぞれの国、それぞれの時代によって様々であった。日本の古代史においては、最初の大王(天皇)がなぜ、どのようにして正当性を獲得したのか、そして歴代の天皇たちはどのようにして正当性を維持してきたのかが、国家の歴史を論じるにあたって重要な点の一つであろう。

 

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