第73題 (続)閔妃の写真はなかった
読者からの批判
拙稿 第68題 閔妃の写真はなかった について読者から、根拠としている資料が自分の持っているものと違っており再検証せよ、という批判をいただいた。それは拙稿の下記の註に関するものである。
(3) 戦後でも例外的に以下の二つの資料がこの写真のキャプションに以前の説明を使い、閔妃ではないとしている。
@『別冊1億人の昭和史 日本植民地史@朝鮮』(毎日新聞社 1978年7月)の110頁では「王朝時代の官女の正装」、
このキャプションが、読者が所有するものでは「閔妃の像」となっているということであった。
すぐに本棚にある同書を取り出して再度調べたところ、110頁の写真には「王朝時代の官女の正装」となっている。また拙稿を書く契機となった三谷憲正「『閔妃』試論」(『日本研究27』所収)の103頁には同書の写真キャプションが引用されているが、これも「王朝時代の官女の正装」となっている。
しかし読者とメール等でやりとりしたところ、彼の手元にある同書では「閔妃の像」となっていることは確実であった。つまり同書は、110頁の人物写真が「閔妃の像」とするものと「王朝時代の官女の正装」とするものとの二種類があるということになる。
そこで隣接県含めて所在する公共図書館の蔵書を検索して捜し求めたところ、ようやくもう一つの同書を見つけて借りることができた。そしてそれが二種類あることを確認したのである。
二種類の『1億人の昭和史』の相違
二種類の同書を入手したので、両者を読み比べて上記以外にも相違があるのかを調べた。その結果、それを含めて20ヶ所で見つけることができた。これらを次のように表としてまとめた。
なお私の所有するものを(A)、図書館で借りてきたものを(B)とする。
また「キャプション」はすべてそれぞれの写真資料に付されたものである。
『別冊一億人の昭和史 日本植民地史@朝鮮』相違対比表
|
相違個所 |
(A) |
(B) |
@ |
110頁右下キャプション |
王朝時代の官女の正装 |
閔妃の像 |
A |
16頁上キャプション |
ぞくぞくと異郷の土を踏む日本軍 |
鴨緑江を渡河していく日本軍(義州付近で) |
B |
17頁上キャプション |
鴨緑江を渡河していく日本軍(義州付近で) |
ぞくぞくと異郷の土を踏む日本軍 |
C |
135頁最上段キャプション |
昌慶苑 昭和7年(1932年)昌徳宮に付随する朝鮮随一の庭園 一部は秘苑として見物できない |
昌慶苑植物園 昭和7年(1932年) |
D |
135頁2段目キャプション |
昌慶苑植物園 昭和7年(1932年) |
昌慶苑 昭和7年(1932年)昌徳宮に付随する朝鮮随一の庭園 一部は秘苑として見物できない |
E |
164頁上写真とキャプション |
[建物と橋の写真] 平壌の昌慶苑 昭和7年(1932年)撮影 |
[市街地の空中写真] 平壌市俯瞰 昭和6年(1931年)撮影 |
F |
231頁下キャプション |
咸興は 平壌と並んで朝鮮の二大工業都市ともいわれた 李朝発祥の地でもある |
咸興は 平壌と並んで朝鮮の大工業都市である |
G |
81頁下キャプション |
慶省南道 |
慶尚南道 |
H |
93頁最終行 |
忘れ去っててしまえるであろうか。 |
忘れ去ってしまえるであろうか。 |
I |
185頁右下キャプション |
徴文校 |
徽文校 |
J |
235頁4行目 |
雲尚北道 |
慶尚北道 |
K |
266頁右上キャプション |
水原の郡衛 |
水原の郡衙 |
L |
267頁上キャプション |
郡足製糸 |
郡是製糸 |
M |
282頁最上段キャプション |
米軍のリバティ |
米軍のL.S.T. |
N |
298頁編集後記の協力者一覧 |
長崎市立博物館(順不同 敬称略) |
長崎市立博物館 真野竜彦 石井良一(順不同 敬称略) |
O |
298頁発行者住所 |
東京都千代田区一ツ橋一 大阪市北区堂島一丁目六 北九州市小倉北区紺屋町一三 名古屋市中村区名駅四丁目 |
東京都千代田区一ツ橋一‐一‐一 大阪市北区堂島一‐六‐二〇 北九州市小倉北区紺屋町一三‐一 名古屋市中村区名駅四‐七‐三五 |
P |
146頁全面広告 |
[(B)と比べて、「日本植民地史A満州」「同B台湾・南洋」がなく、「昭和マンガ史」がある] |
[(A)と比べて、「日本植民地史A満州」「同B台湾・南洋」があって「発売中」となっており、「昭和マンガ史」がない] |
Q |
299頁全面広告 |
[毎日ムック 軽便鉄道] |
[日本史の謎と発見 全10巻 第2回配本発売中 倭国の大乱 毎月25日発売] |
R |
106頁右下キャプション |
木かげ休む野菜売りの少年少女 |
背景の絵である野菜売りの少年少女 |
S |
131頁下キャプション |
記念門 京城西大門外にあり 昔は清国の使節を送迎した 前方の山は北漢山 昭和10年(1935) |
独立記念門 京城西大門外にあり 迎恩門で 前の二本の柱がその名残り 昭和10年(1935) |
(B)は(A)の訂正版だが改竄があった
・AとBおよびCとDは、(A)が二つの写真のキャプションを互いに入れ間違ったものである。(B)が正しい。
・Eは、写真もキャプションもそっくり入れ替わっている。平壌には昌慶苑があったという記録が見当たらないので、(A)が間違いと思われる。
・Fでは、(A)の咸興が「李朝発祥の地」というのがおそらく間違いであろう。いろいろ調べたが、そのような資料がない。
・G〜Mは、(A)の単純なミスである。(B)が正しい。
以上より、(A)に間違いが少なくなかったために訂正して再発行したのが(B)であると判断できる。(B)は(A)の訂正版なのである。
しかし@は、拙論第68題にある通り(A)の「王朝時代の官女の正装」が正しく、(B)の「閔妃の像」は誤りである。つまりこの部分は、訂正したはずが逆に正しいものを間違いに直したということになる。これは改竄と言わざるを得ない。
いつ訂正・改竄したのか
(A)(B)ともに奥付けの発行年月日は「一九七八年七月一日」で同じである。しかし出版物は発行日と発売日が違うのが常である。(A)の訂正版が(B)であるから、(A)が最初に発売され、後に(B)が発行年月日の記載を変えないまま発売されたと思われる。
それぞれの発売年月日を推定してみた。
(A)の298頁には「近刊予告」として次のような広告がある。
別冊一億人の昭和史
○日本植民地・三冊シリーズ
■満州 6月下旬発売予定
■台湾・南洋・樺太 7月下旬発売予定
このシリーズは1ヶ月ごとに発売予定となっているから、本稿で問題としている「朝鮮」は5月下旬に発売されたことになる。そこで毎日新聞縮刷版を調べたところ、発売日は1978年5月31日であった。(A)はこの日に発売された。
(B)にも同じ近刊予告があるが、同時に上表Pのようにこのシリーズ「満州」「台湾・南洋」が「発売中」という広告もある。矛盾しているが、発売中の広告があれば既に発売されており、近刊予告はミスと考えるべきであろう。同じく新聞縮刷版を調べると、「満州」は6月27日付けで広告が載っており、「台湾・南洋」は7月31日の発売となっている。従って(B)はこれ以降の発売である。
次に上表Qにあるように(B)には「全10巻 第2回配本 倭国の大乱 発売中 毎月25日発売」の広告がある。この本は1978年8月25日の発売である(新聞縮刷版による)が、翌月25日に発売される予定の第3回配本は記されていない。これによって、(B)が8月25日から9月24日までに発売されたことが分かる。
以上から、1978年5月31日に(A)が発売された後、訂正版の(B)が8月25日から1ヶ月の間に発売されたことが明らかとなった。
訂正・改竄された時期をかなり限定することができた。
改竄の責任の重さ
上述の三谷論文は「閔妃の写真」を使った文献をかなり詳しく調べている。1978年以前では、わずかに日本近代史研究会『写真・図説 総合日本史』(国文社 1955年11月)と姜相圭『韓國冩眞史』(圖書出版一心社 1976年12月)が報告されているのみである。毎日新聞社は元々「王朝時代の官女の正装」と正しく注記された写真を入手していたはずだが、この文献を見て間違ったと勘違いして改竄したのであろうか。その詳しい経緯は分からない。
「閔妃の写真」を載せる文献は1978年以降に多くなった。一般書だけでなく専門書にも出てくるようになり定着したのである。(B)は間違った資料の定着に貢献したと考えられる。悪意はなかったと思いたいが、歴史上重要人物に関するものであるから、その責任は大きい。
まとめ
毎日新聞社の『1億人の昭和史 日本植民地史@朝鮮』は1978年5月31日に発売されたが、間違いが少なくなかったため同年8月25日以降の間もない時期に訂正版が発行された。
その時に、110頁の女性人物写真のキャプションが「王朝時代の官女の正装」と正しく表記されていたにもかかわらず、「閔妃の像」と間違いに改竄されてしまった。それは、宮中の女官を歴史上重要人物である王妃にしたというもので、単純ミスとは言い難いものである。
1970年代は朝鮮史に対する国民の関心がまだ薄い頃であった。『1億人の昭和史』はそんな時代にあって隣国の歴史の関心を高めさせた。そのことは評価されるべきであるが、同時に改訂版が「閔妃の写真」という誤った知識を定着させることに貢献したと考えられる。これについての責任は重大であろう。
最後になるが、拙論を批判していただいた江村様に感謝の意を表したい。
(追記)
相違対比表にRSを追加しました。2004年12月24日記。
(追記)
05年6月28日付けの産経新聞に、閔妃の写真についての記事があります。
http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/text/050628-3text.html
この教科書の執筆者は近年の研究成果について無知だったようです。これに気付かなかった周りの研究者や出版関係者も問題があります。
(追記)
「閔妃の写真」が存在しないことは、拙論で論じてきた。
このことについては下記の報道があったように、否定説=歴史事実が定着してきたように思ってきた。
http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/text/050628-3text.html
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/08/12/20040812000038.html
ところが今よく売れていると評判の嫌韓本のなかに、「閔妃の写真」が堂々と掲載されているのである。
桜井誠 『嫌韓流 反日妄言撃退マニュアル』(普遊舎 2006年2月1日)56頁
山野車輪『マンガ 嫌韓流2』(普遊舎 2006年2月22日)221頁
「閔妃の写真」なるものは左翼系の人たちが広めたものだが、これと正反対の立場の人間もこの間違いを継承している。私には似た者同士、という感想である。
間違いを正すことはなかなか難しいと改めて痛感した次第である。
(2006年2月26日記)